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穏やかな昼下がり。暖かな陽光が大きな窓から差し込み、執務室の中を優しく照らしていた。
数日前から始めたヘルムデッセンの授業も、今日で何度目かになる。
普段は戦場で剣を振るう彼も、今は机に向かい、領地の運営について学んでいる。
「……この場合は、余った資金を兵の装備に回しておけばいいのか?」
ヘルムデッセンが手元の地図を指でなぞりながら尋ねる。
「その回答だと、領地が崩壊します。」
ヴィーラはさらりと答えながら、手元の書類を整理した。
「なっ……!?」
「資金をすべて兵の装備に回せば、農業や交易に使うお金がなくなります。結果的に食料不足に陥り、住民の生活は厳しくなるでしょうね。」
ヘルムデッセンは小さく唸りながら、真剣な表情で地図を見つめた。
「……じゃあ、税を少し上げればいいんじゃないか?」
「寒さで飢えるでしょうね。」
「……ん?」
「ただでさえ冬の備蓄が必要な時期に税を上げれば、領民は蓄えを削るしかなくなります。そうなれば冬を越せずに命を落とす者も出るでしょう。」
ヘルムデッセンの表情が固まる。
「……領地経営って、戦場より複雑だな。」
「当然です。戦は終われば勝ち負けがはっきりしますが、領地の運営はそう簡単にはいきません。」
ヴィーラはペンを持ち、彼の目の前の地図に軽く印をつけた。
「では、次の問題です。この地域は水源が豊富ですが、隣国との国境近くに位置しています。このまま制圧すると、どうなるでしょう?」
ヘルムデッセンはしばらく地図を見つめ、考え込んだ。
「……戦略的には有利だが……」
「そこを制圧してしまうと、侵略されやすくなるんです。」
「……!」
「確かに水源を抑えれば一時的に有利ですが、それは同時に敵にとっても魅力的な土地になるということ。防衛線を強化しない限り、いつ攻め込まれてもおかしくありません。」
ヘルムデッセンは真剣な顔で地図を見つめ、ヴィーラの言葉を噛み締めるようにゆっくりと頷いた。
「……やっぱり、ヴィーラはすごいな。」
ぽつりと呟いたその言葉に、ヴィーラは少し驚く。
「え?」
「戦場では、強い者が勝つ。それだけだ。でも……こういうことを考えられる人がいなきゃ、戦の後に守るものがなくなるんだな。」
ヴィーラは思わず彼の赤い瞳を見つめた。
ヘルムデッセンの成長。彼がただの戦士ではなく、領主としての責務を理解しようとしている姿に、どこか誇らしい気持ちが芽生える。
「そうですね。あなたが領地を守り、私がその領地を発展させる。」
ヴィーラは微笑みながら、ヘルムデッセンの手元の地図を軽く叩いた。
「私たち二人で、より良い領地を作っていきましょう。」
ヘルムデッセンは少し驚いたようにヴィーラを見つめ、次の瞬間、ふっと優しく微笑んだ。
「……ああ。」
彼の返事は短かったが、その一言に込められた決意は十分に伝わってきた。
そのまましばらく彼を見つめていたヴィーラだったが、ふと微笑んで尋ねる。
「勉強ばかりで辛くありませんか?」
彼女の声はどこか優しく、気遣うような響きを持っていた。
ヘルムデッセンは、一瞬だけ考え込むように視線を落とした。が、すぐに顔を上げて、真っ直ぐにヴィーラを見つめる。
「……必要なことだろ?」
その答えに、ヴィーラは小さく目を瞬かせた。以前の彼なら、『面倒くさい』とか『戦場ではこんなこと考えなくていい』と言っていたかもしれない。
けれど、今の彼は違う。
「別に……私に任せておけばいいことばかりですから……。」
ヴィーラはわざと軽く言いながら、彼の様子を窺うように微笑んだ。
彼女が言うように、実際ヘルムデッセンが学ばなくても、ヴィーラがすべてを管理することはできる。けれど——。
「いや、やるよ。」
ヘルムデッセンはきっぱりと言い切った。
「……色々わかってきて、恥ずかしいことばかりしていたって思って……胸が苦しくなったんだ。」
そう言いながら、彼は少し目を伏せた。
「ヴィーラが全部やってくれるからって、何も考えずにいた。でも、こうして学んでみると、自分がどれだけ領主としての責務を果たせていなかったかがわかる。」
彼の言葉には、真剣な悔恨が滲んでいた。
ヴィーラは少し驚きながらも、静かに彼を見つめる。
(……すごい成長ね。)
彼はもともと誠実な人だった。だからこそ、理解したことに対して真摯に向き合おうとするのだろう。
その姿勢が、彼の本質なのかもしれない。
「では、続けましょうか。」
ヴィーラは静かに微笑みながら、再び資料を手に取った。
ヘルムデッセンもまた、決意を秘めた眼差しで、真剣に彼女を見つめていた。
こうして、彼の学びは続いていく——。
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夕暮れの光が窓から差し込み、長い影を作りながら部屋の中を穏やかに照らしていた。
だが、その穏やかな景色とは裏腹に、ヘルムデッセンは膝をつき、肩を震わせていた。
大きな体がわずかに前屈みになり、拳をぎゅっと握りしめる。彼の赤い瞳は虚空を見つめ、まるでそこに過去が映し出されているかのようだった。
ヴィーラは椅子に腰掛けたまま、じっと彼を見つめた。
(……やっぱり、まだ早かったかしら)
授業のついでに、ヘルムデッセンの出生についての資料を渡し、彼自身の歴史を学ばせてしまったのだ。
貴族社会における婚外子の立場、王の血を引きながらも正統な継承権を持たず、幼い頃から戦場へ送り込まれた過去——。
歴史として振り返れば、これはひとつの物語に過ぎない。
しかし、それは決して架空の話ではなく、目の前にいる彼自身の人生だった。
「なんて……なんて、可哀想な奴なんだ!俺!」
ヘルムデッセンは自嘲気味に叫び、拳を床に叩きつける。
ヴィーラはその姿を見ながら、思わず口元を押さえた。
(ダメよ、笑っては……)
こんなに真剣に落ち込んでいるのに、彼の口から「可哀想な奴」という言葉が出てしまうあたり、どこか笑いを誘う。
だが、それを表に出してしまえば、彼の心を傷つけてしまうだろう。
(自分のことなのに、そんな風に言うなんて……。)
彼の悔しげな顔を見ていると、愛おしさと微笑ましさが入り混じった感情が胸に湧き上がる。
ヴィーラは静かに息をつき、少しだけ表情を和らげながら問いかけた。
「ヘル、小さい頃、流石に怖かったりしたでしょ?」
ヘルムデッセンは顔を上げることなく、しばらく黙っていた。
やがて、低くかすれた声で答える。
「……そうだな。」
彼の視線は、窓の外に伸びる赤く染まった空を映していた。
「文字だけ見れば、そうかもしれない。」
「でも、俺は——人に恵まれてたんだ。」
ゆっくりと、ヘルムデッセンの言葉が紡がれていく。
「俺に付き添ってくれた人たちがいた。戦い方を教えてくれて、食べ物を分けてくれて……命をかけて守ってくれた人もいた。だから、俺はこうして生き延びることができた。」
彼の拳がわずかに緩む。
「みんなが支えてくれて……。」
そう言いながら、彼の喉がかすかに震える。
次の瞬間、ぽつりと零れ落ちた涙が、静かに床に落ちた。
「……っ」
肩が震え、ヘルムデッセンの大きな手がぎゅっと胸を押さえる。
「苦しい……っ。今まで、何も……思わなかったのに……っ」
まるで、今まで抑え込んでいた感情が決壊したかのように、彼は涙をこぼし始めた。
「俺……本当は……ずっと……」
言葉にならない想いが、震える声と共に吐き出される。
戦場では決して見せることのなかった弱さ。
誰にも打ち明けることのなかった寂しさと、心の奥底に押し込めていた悲しみ。
それが今、ようやく溢れ出しているのだ。
ヴィーラは静かに立ち上がると、そっと彼の背中に手を置いた。
「ヘル……。」
優しく、温もりを伝えるように、ゆっくりと背を撫でる。
ヘルムデッセンは何も言わず、ただその手のひらの感触にすがるように目を閉じた。
「もう、大丈夫ですよ。」
その言葉が、涙に濡れた彼の心に、そっと沁み込んでいくようだった。