⑥
翌日、昼過ぎ。
街は賑わい、活気に満ちていた。
太陽が高く昇り、穏やかな光が石畳を照らす。市場の通りには色とりどりの布がひしめき合い、香ばしいパンの匂いが漂っている。商人たちは威勢のいい声で客を呼び込み、道行く人々の笑顔が絶えない。
「こ、ここがデュークデイモン領だと!?」
ヘルムデッセンは目を見開き、驚愕した表情で辺りを見回した。
彼の知っているこの領地は、荒涼とした土地で、かつては活気など無縁だったはず。だが今はどうだ。市場には異国の品々が並び、豪奢な装飾が施された店々が軒を連ねている。
「他国との貿易をしていますからね。」
ヴィーラは誇らしげに微笑みながら、軽やかに歩を進めた。
「ヘルが戦争で高価な戦利品を持ち帰ることが多いので、王に献上することでスムーズに貿易許可が下りるんです。珍しい品々を売ることで、ここは商業の中心地になりつつあるんですよ。」
ヘルムデッセンはヴィーラの横顔をじっと見つめた。彼女の知略と努力が、この活気ある街を生み出したのだと、改めて実感する。
「……やっぱりヴィーラはすごいな。」
ぽつりとつぶやくように零れた言葉は、心の底からの賞賛だった。
「え?」
ヴィーラが振り向き、きょとんとした顔をする。
ヘルムデッセンは一瞬言葉に詰まり、視線をそらしながら、ぼそりと続けた。
「ヴィーラの……王子様になりたい。」
その言葉に、ヴィーラの心が一瞬跳ねた。
(王の婚外子だけど……王子なのでは?)
思わずそんな考えが頭をよぎる。しかし、彼の表情はどこか真剣で、それを軽々しく冗談だと流すことができなかった。
けれど、まっすぐな彼の言葉に、どこかくすぐったいような気持ちになる。
「ふふ、そんなことを言われたのは初めてですね。」
笑いながら言うと、ヘルムデッセンは少し気まずそうに目をそらした。
市場を抜けると、高級ブティック街が広がっていた。
美しいドレスや仕立ての良いスーツがディスプレイされたショーウィンドウが並び、上品な香水の匂いが漂ってくる。貴族たちが優雅に歩き、店の中ではデザイナーたちが生地を選びながら顧客と談笑していた。
「ここで衣装を作りましょう。」
ヴィーラは一軒の店を指さしながら言った。
「腕の良いデザイナーが王都からわざわざこっちに来てくれたのよ。」
ヘルムデッセンはしばらくその店を見つめた後、ヴィーラに視線を向け、ゆっくりと微笑んだ。
「あぁ。」
その声は酷く優しく、嬉しそうだった。
彼の赤い瞳が細められ、どこか柔らかな光を宿している。
その表情を見た瞬間、ヴィーラの胸がふっと高鳴った。
(……何よ、もう。)
彼のこういう顔を見せられると、不意に心がざわめく。
「全く、顔が良すぎるわ……。」
思わず小さくつぶやきながら、ヴィーラはそっぽを向いた。
だが、その耳の先が少し赤くなっていることに、ヘルムデッセンは気づいていなかった。
ヴィーラは気を取り直し、ヘルムデッセンを促しながら店の扉を開いた。
店内は上品な香りが漂い、柔らかな絨毯が敷かれた空間はまさに貴族のための特別な場所だった。整然と並ぶ生地のロール、装飾が施されたマネキンに仕立てられた華麗な衣装が飾られ、熟練の職人たちが静かに手を動かしている。
すると、奥から上品な婦人が弾むように歩み寄ってきた。
「あらぁ!お待ちしておりました!」
ヴィーラに向かって明るい声を上げた彼女は、この店の専属デザイナーであり、王都から特別に招かれた仕立て職人だ。
「もしやその方は……!」
彼女の視線がヘルムデッセンに向けられると、驚きと興奮が入り混じったように目を見開く。
「はい、夫です。」
ヴィーラが微笑みながら紹介すると、ヘルムデッセンはすっと前に出た。
「初めまして。デュークデイモン辺境伯、ヘルムデッセンです。本日はよろしくお願いします。」
彼は堂々とした態度で、深く頭を下げた。
その所作は見事に洗練されていて、王族や貴族のような礼儀作法がしっかりと身についていた。
(あら……すごいじゃない)
ヴィーラは、ほんの数週間前までマナーもまともに知らなかった彼が、こんなに完璧に挨拶をこなしていることに、内心嬉しくなった。
きっと彼なりに努力して学んできたのだろう。そう思うと、誇らしい気持ちが胸に広がる。
「まあ!なんて素晴らしい紳士なのでしょう!」
デザイナーも感激したように手を胸に当てて微笑んだ。
「それではさっそく、お二人にぴったりの衣装を仕立てさせていただきますわ!」
ヴィーラは頷きながら、ちらりとヘルムデッセンを見上げる。
「さあ、いろいろ試してみましょうね。」
「……ん?」
嫌な予感がしたのか、ヘルムデッセンは僅かに眉を寄せる。
しかし、ヴィーラはそんな彼を気にも留めず、試着室の方へと軽く手を引いた。
「あなた、顔が良いのだから、きっと何を着ても似合いますよ。」
「顔……?」
彼は困惑したように言葉を繰り返したが、すぐにデザイナーと職人たちによって試着室へと押し込まれる。
――そこから、ヘルムデッセンの試練が始まった。
まずは、王道の黒のタキシード。シンプルながらも洗練されたデザインが、彼の精悍な顔立ちと鍛え抜かれた体にぴったりだった。
「……ふむ。」
鏡の前に立つ彼の姿を見て、ヴィーラは満足げに頷く。
(やっぱり何を着ても似合うわね)
次に試したのは、深紅の刺繍が施されたダークブルーのコート。これは威厳が増して、まさに王族のような貫禄を感じさせる。
「……悪くないな。」
ヘルムデッセンも自分の姿を見て、少し興味を示し始めた。
さらに、白のロングジャケットに金の刺繍が施された格式高い衣装も試す。
「おお……これはなんというか……」
ヘルムデッセンが珍しく戸惑いを見せるが、それを見てヴィーラはまた微笑む。
「やっぱりどれも素敵ですね。さて、もう少し遊んでみましょうか。」
「……遊ぶ……?」
ヘルムデッセンの不穏な呟きをよそに、試着はまだまだ続いた。
そして、何度も着せ替えを繰り返した後、ヴィーラはふと手を顎に当て、じっと彼を見つめる。
「やっぱり、これが一番しっくりきますね。」
選ばれたのは、シックな黒とゴールドの装飾が施された、気品と力強さを兼ね備えた衣装だった。
「……これなら、俺も違和感がないな。」
ヘルムデッセンも納得した様子で鏡を見つめる。
「ええ、とても素敵です。」
ヴィーラは彼をじっと見つめながら、心の中でそっと呟いた。
(……全く、この人は顔が良すぎるわ)
この格好で並んで舞踏会に行けば、注目を集めるのは間違いない。だが、それもまた悪くない。
「では、仕立てをお願いしましょう。」
ヴィーラはデザイナーに声をかけ、最終的な採寸と仕立ての指示を伝えた。
ヘルムデッセンは少し疲れたような顔をしながらも、どこか満足げな表情だった。
「……俺、もう衣装は十分だよな?」
「ええ、あとは私の番ですね。」
「……ヴィーラが試着してる間、俺は休めるのか?」
「それはどうでしょう?」
ヴィーラは意地悪く微笑み、彼の腕を引いた。
「さあ、今度は私の番ですよ。」
「……仕方ない。」
ヘルムデッセンはどこか納得のいかない顔をしながらも、素直にヴィーラの後についていく。
試着室に入ると、デザイナーが次々と華やかなドレスを持ってきた。
「奥様には、気品あふれるエレガントなものがよくお似合いになると思いますわ。」
そう言いながら、優雅な刺繍が施されたドレスや、しなやかなシルクの生地を使ったドレスを勧めてくる。
「ふむ……どれも素敵ですね。」
ヴィーラは手で触れながら、じっくりと生地の質感を確かめる。
ヘルムデッセンはそんな彼女の様子を黙って見つめていたが——。
試着を終えて姿を現した瞬間、その表情が一変した。
「……!」
ヴィーラが身に纏ったのは、深紅のドレス。優美なレースが胸元を飾り、ウエストを絞ったデザインが彼女の体のラインを美しく引き立てている。
その姿を見た瞬間、ヘルムデッセンは言葉を失った。
「ヘル?」
不思議そうに首をかしげるヴィーラ。しかし、ヘルムデッセンはただじっと見つめたまま、口を開かなかった。
(……な、なに? そんなに変かしら?)
ヴィーラは急に落ち着かなくなり、鏡をちらりと確認する。
だが、ヘルムデッセンはようやく言葉を絞り出すように呟いた。
「……ヴィーラ。」
「はい?」
「全部買え。」
「え?」
思わず聞き返したヴィーラだったが、ヘルムデッセンの目は真剣だった。
「いや、そんなにいらないわよ。舞踏会用のドレスが一着あれば十分——」
「とっても……綺麗だったから……どれも。」
「ちょっ……!?」
不意打ちの言葉に、ヴィーラは一瞬固まり、次の瞬間、顔が熱くなるのを感じた。
「恥ずかしいことを平気で言うんだから……!」
頬を赤く染めながら、彼女は視線を逸らす。
しかし、ヘルムデッセンはそんな彼女の反応にも気づかず、デザイナーに向かって堂々と指示を出していた。
「この赤いドレスと……いや、全部だ。全部まとめて仕立ててくれ。」
「かしこまりました!」
デザイナーは嬉々としてメモを取りながら、次々と注文をまとめていく。
ヴィーラはため息をつき、思わず腕を組んだ。
「じゃあ、ヘルのも同じだけ買います!」
「なに!?」
「私だけこんなに買うなんて不公平ですもの。あなたもいろいろ試したでしょう? せっかくですから、たくさん仕立ててもらいましょう。」
「ま、待て! 俺は別に……!」
「お心のままに、ですよ?」
ヘルムデッセンがよく使うセリフをそのまま返すと、彼は何も言えなくなった。
「……お、お前……!」
ヴィーラはくすっと笑いながら、デザイナーに向かってヘルムデッセンの衣装の追加注文を頼んだ。
こうして、二人は仲睦まじく衣装を買い漁ることになったのだった。