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それからというもの——
ヘルムデッセンは頻繁にケイオスの診療所へと足を運ぶようになった。
朝の鍛錬を終えたかと思えば、その足でどこかへ向かい、執務の合間にもふらりと姿を消す。
夜になってもなかなか戻らず、ようやく帰ってきたかと思えば、どこか疲れたような顔をしている。
「……ケイオスのところ?」
何気なく尋ねても、彼は「そうだ」と短く答えるだけ。
まるで、それが当然のことだと言わんばかりに、特に説明をすることもなく——
それが、ヴィーラの胸の奥に小さな違和感を生み出していた。
(……ヘルったら、どうしてそんなに頻繁にケイオスのところに通うの?)
最初は、ただ叔父と甥としての親交を深めているのだと思っていた。
久しぶりに血縁者と再会したのだから、語るべきこともあるだろう、と。
けれど——
夜遅くまで帰ってこない。
帰宅した彼の顔には、どこか疲れたような陰があり、いつもより口数も少ない。
そして、何より——
(……なんだか、目を合わせてくれない気がする。)
考えすぎだと思う。
ヘルムデッセンがそんなことをするはずがない、と。
——なのに。
心のどこかでざわつく感情が、彼女の思考をじわじわと侵食していく。
もし、ただの診療なら?
それなら、なぜそこまで頻繁に通う必要がある?
まるで、何かを隠しているかのように、詳細を語ろうとしないのはなぜ——?
「……」
考えれば考えるほど、胸の奥がムズムズして、落ち着かない。
理性では「そんなことあるはずがない」と否定しながらも、
無意識のうちに指先が机を軽く叩き、じれったさを滲ませる。
(ヘルが、まさか……)
——とんでもない考えが脳裏をよぎり、ヴィーラは思わず頭を振った。
「馬鹿馬鹿しい。」
彼が浮気をするはずがない。
そんなこと、絶対にありえない。
そう、理性は叫んでいる。
なのに、どうしようもなく不安になるのは——
「……あのヘルが、嘘をつくのは珍しいから?」
無意識に呟いた言葉に、ヴィーラは自分でハッとする。
嘘というほどのものではないにしろ、
彼は何かを誤魔化している。
それが、妙に気になって仕方がない。
「……つけてみようかしら?」
衝動的に、ヴィーラは立ち上がった。
夜、彼の後を追い、確かめてみる。
それが彼女の決断だった。
◇◆◇◆◇
その夜、ヘルムデッセンがいつものように「ケイオスのところへ行く」と告げて城を出た後——
ヴィーラは、そっと外套を羽織り、静かに彼の後をつけることにした。
部屋の窓から外を見ると、ヘルムデッセンの背中が城門を出て、ゆっくりと城下町へ向かっていくのが見えた。
彼はどこか考え込むような足取りで、時折、空を仰ぎながら歩いている。
(……本当に、ケイオスのところ?)
胸の奥でざわつく何かを抑えながら、ヴィーラは彼の影を慎重に追った。
足音を忍ばせ、距離を取りながら、月明かりに照らされた石畳を進む。
夜の城下町は静かだった。
商人たちはすでに店を閉め、通りに行き交うのは夜警の兵士と、遅い帰りの労働者たちくらい。
それでも、ヘルムデッセンは誰とも言葉を交わさず、ただまっすぐに進んでいく。
(……少し、緊張してる?)
普段の堂々とした姿とは違う、どこか慎重な雰囲気。
まるで何かを考えながら、それでも目的地へ向かうことをためらっていないように見えた。
そして——
ヘルムデッセンがケイオスの家の前で立ち止まり、ゆっくりと扉を開けて中へ入るのを、ヴィーラは物陰から見届けた。
「……やっぱり、ここに来た。」
家の窓からは、暖かな灯りが漏れている。
部屋の奥からは、低く落ち着いた会話が聞こえてきた。
(……話し込んでる?)
何を話しているのかまでは分からない。
けれど、時折ケイオスの静かな声が響き、ヘルムデッセンが何か返すたびに、ふたりの声が少しだけ真剣なものになる。
その合間に、小さな笑い声が混じった。
(……ヘルが、笑ってる……?)
胸の奥で、妙な引っかかりを覚える。
——何をそんなに楽しそうに話しているの?
——どうして、夜遅くまでここにいるの?
ほんの少しだけ、胸がチクリと痛んだ。
(……別に、変なことをしてるわけじゃないわよね?)
ヴィーラは自分に言い聞かせる。
ケイオスはヘルムデッセンの叔父なのだから、何か相談ごとがあるのかもしれない。
今はまだ、ヘルムデッセンの体も完全には回復していないし、ケイオスは医療の知識もある。
(……診療、かもしれないし。)
そう思おうとした。
けれど、どうしても拭えない違和感があった。
(でも、診療にしては遅すぎる。)
いつも深夜になってから帰ってくるのは、話し込んでいるから?
それとも、何か別の理由があるの——?
「……」
ヴィーラはそのまま、家の前で張り込みを続けた。
冷たい夜風が肌を刺し、しんしんと体温を奪っていく。
(さ、寒い……っ)
それでも、じっと耐えた。
彼が家から出てくるのを、見届けるために。
そして——
夜が更け、ようやく扉が軋む音がした。
ヴィーラは物陰から息を呑みながら覗き込む。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、ヘルムデッセンが出てきた。
(っ……!)
何か考え込むような表情。
彼は一度だけ、夜空を仰ぎ、静かに息を吐いた。
そして、ゆっくりと歩き出す。
ヴィーラは、その姿を確認すると、すぐに反対方向へ駆け出した。
(急がなきゃ!)
ヘルムデッセンが城へ戻るより先に、部屋に戻らなくてはならない。
そう思いながら、彼女はできる限り足音を殺し、急ぎ足で城へ戻った。
途中、何度か息を整えながら、それでも必死で先回りする。
——そして、どうにか間に合った。
ヴィーラは城に駆け込むと、すぐさま部屋のベッドへ潜り込んだ。
荒くなった呼吸を押さえながら、毛布をかぶる。
(……ふぅ。)
なんとか間に合った。
まるで最初からずっと部屋にいたかのように——
自然な寝息を装って、寝たふりをする。
しばらくして——
扉が静かに開いた。
「……」
ヘルムデッセンの足音が近づき、彼はベッドの傍で立ち止まる。
少しの沈黙の後——
「……起きているのが、バレバレだ。」
柔らかな声と共に、温かい腕がヴィーラの体を抱きしめてくる。
胸元に、ヘルムデッセンの確かな体温を感じた。
「っ……」
ヴィーラは慌てて目を閉じたまま、寝息を整えようとする。
——ダメ、まだ寝たふりしなきゃ……!
だが、そんな小細工は、彼には通用しなかった。
「おれのあとをつけていただろ。」
低く、耳元で囁かれる。
(——ばれてる!?)
ヴィーラの体がピクリと硬直する。
「ちょ、ちょっと心配になっただけ……。」
「ほんとか?」
ヘルムデッセンの声はどこか楽しげで、からかうような響きを含んでいた。
すぐそばで、彼の唇が小さく笑う気配が伝わってくる。
(……これ、完全に遊ばれてる!?)
気まずさに耐えきれず、ヴィーラはそっと視線を逸らした——が、その瞬間、彼の手がヴィーラの指を絡め取る。
「えっ……」
彼はゆっくりとその手を持ち上げると——
ヴィーラの手のひらに、そっと唇を落とした。
「っ……!!」
一瞬、全身がビクリと震える。
手のひらに感じる彼の唇の感触は、熱く、ゆっくりと滲み込むようだった。
(な、何……この雰囲気……!!)
顔が熱くなり、心臓がどくどくと跳ねる。
「……浮気を疑ったのか?」
低く、囁くような声。
「っ……」
それを言葉にされた瞬間、ヴィーラは真っ赤になった。
「ち、違うわよ! そ、そんなこと……!」
「本当に?」
「本当よ!」
「……なら。」
ヘルムデッセンの瞳が、じっとこちらを覗き込む。
真っ赤になったヴィーラの顔を、逃がさぬように見つめながら——ゆっくりと微笑む。
「浮気じゃないと証明しないとな?」
「う、疑ってないってば!」
思わず、顔をそむけながら声をあげる。
だが、そんな必死な姿が、かえって彼の愉快さを煽ったらしい。
「ははっ……!」
ヘルムデッセンは、楽しそうにからからと笑う。
喉の奥から漏れるその笑い声が、やけに耳に響いた。
「な、何よ……!」
ヴィーラは、ますます頬を染めながら、ふてくされたように睨み返す。
「嬉しいんだ。」
ヘルムデッセンは、彼女の頬を優しく撫でながら、ゆっくりと囁いた。
「ヴィーラは今までずっと淡泊だったからな。」
「え? そう?」
彼の言葉に、ヴィーラは目を瞬かせる。
(……そんなこと、ないと思うけど……?)
だが、ヘルムデッセンは、まるで確信があるかのように微笑んでいた。
そのまま、彼はゆっくりとヴィーラの頬に唇を寄せ、愛情たっぷりにふれながら、低く囁く。
「そうだ。」
柔らかな唇の感触に、ヴィーラは小さく肩を跳ねさせた。
くすぐるように耳元に吐息を落とされると、体温がじわじわと上がっていく。
「ヴィーラ、心配するな。」
「……?」
「叔父から学ばなければいけないことを学んでいるだけだ。」
その言葉に、ヴィーラは一瞬だけぽかんとする。
「……勉強しに行ってたの?」
「そうだ。」
ヘルムデッセンは、ゆっくりとヴィーラの指を絡め取る。
その手のひらに、そっと唇を落としながら続けた。
「ヴィーラを守る為には、知恵もつけないとな。」
ヴィーラは、彼の言葉を噛みしめるようにしながら、小さく笑う。
「……ヘルったら。」
(疑って、馬鹿みたい。)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
彼は、ただ自分を守るために、より強くなる方法を模索していただけだったのだ。
だが——
「だが。」
「……?」
「よりにもよって、浮気を疑われるのは心外だ。」
ふっと目を細めながら、ヘルムデッセンが意味深に微笑む。
「しばらく寝かせないからな。」
「えっ……?」
ヴィーラが言葉を返す間もなく——
彼の腕が強く絡まり、温かな体温が押し寄せてくる。
「ヘ、ヘル……!? ちょっと、ま——」
「お仕置きだ。」
低く甘い声が、夜の静寂の中で響いた。
——浮気を疑ったことを、心の底から後悔するように。
その夜は、いつもよりもずっと長く、更けていった——。




