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城の中は、いつになく慌ただしく動いていた。
ヴィーラは広々とした作戦室に立ち、長机の上に並べられた物資のリストをひとつひとつ確認していた。
食糧、医薬品、武器、防具
「…… 砥石の在庫は? 武具の手入れは行き届いてる?」
「はっ、予定通り進めております!」
兵士たちが慌ただしく駆け回る中、ヴィーラは冷静な目で全体の進行を見守っていた。
(兄上が動くのは時間の問題…… こちらも準備を整えておかなくては。 )
戦場は計画がすべてだ。
感情に流されるわけにはいかない。
そのはずだった——なのに。
「ふぅ……」
視線の先、訓練場ではヘルムデッセンが黙々と体を鍛えていた。
かつての鋼の肉体にはまだ及ばないが、それでも彼の身体は確かに変わり始めていた。
日々の鍛錬の成果が現れ、腕には少しずつ筋肉が戻りつつある。
剣を振るうたび、強靭だった頃の片鱗が垣間見えるようになっていた。
(あと少しね…… あと少しで、彼は戦場に立てる。 )
ヴィーラはそっと拳を握る。
その時——
「奥様。」
側近であり護衛騎士でもあるディルプールが、少し控えめに口を開いた。
「銃は使わないのですか?」
ヴィーラは眉を上げ、ゆっくりと彼に視線を向ける。
「えぇ。」
軽く頷きながら、テーブルの上に置かれていた小さな黒い鉄塊——銃を手に取る。
まだ誰も知らない、この異国の技術。
「銃は、私とヘルだけでいいわ。」
銃口を指でなぞるようにしながら、ヴィーラは静かに続ける。
「他の兵に持たせて、もし落としたらどうなると思う?」
ディルプールが、一瞬考え込むように口をつぐむ。
「…… それを拾われ、使われると?」
「えぇ。」
ヴィーラは、くるりと銃を回してテーブルに置いた。
「まだ、銃は世に出回っていない。作り方を知る者もいない。 ベルホック家が異国で発見し、独占しているだけ…… だからこそ、使う相手を間違えれば取り返しのつかないことになるの。」
その言葉に、ディルプールは「なるほど!」と頷く。
「ですが…… 本当に戦争が起こるのでしょうか?」
ヴィーラは一瞬、黙り込んだ。
そして、目を伏せながら、小さく息を吐く。
「…… 私の兄なら、絶対に仕掛けてくるわ。」
静かだが、確信に満ちた声だった。
「兄上は、盤上で駒を動かすのが好きなの。自分の思い通りに動かせない駒は、容赦なく捨てる…… そういう人よ。」
ディルプールの表情が引き締まる。
「だから、戦争が始まったら——あなたに指示を出すことが多くなるわ。」
その言葉を聞いた途端——
「…………」
ディルプールは、ブンブンと首を横に振った。
「……?」
ヴィーラは、眉をひそめる。
すると、ディルプールはさらに強く首を横に振る。
「ちょっと…… なによ。」
ジロリと睨む。
だが、ディルプールは——
「いやいやいやいや!」
と言わんばかりに、さらに激しく首を振った。
その様子に、ヴィーラの目つきが鋭くなる。
「…… わかってるわよね?」
「……」
ディルプールの額に、冷たい汗が滲む。
「ヴィーラ様の指示を断るわけには…… いかない…… けど……」
ジリジリと彼女の圧が増していく。
「…………」
再び首を横に振る。
「…… はぁ。」
最後には、観念したように項垂れるしかなかった。
ヴィーラは、その様子を見て、満足げに腕を組む。
「いい子ね。」
ディルプールは、力なくため息をついた。
——こうして、戦争への準備は着々と進んでいく。
そして、ヴィーラの予感は決して間違っていなかった。
兄——ヴィトー・ベルホックが、密かに盤上の駒を動かし始めていることを、まだ誰も知らなかったのだから。
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昼過ぎ、食後の穏やかなひととき。
暖炉に火が灯り、窓の外では静かに風が木々を揺らしていた。
食事を終えたヴィーラは、ティーカップを手にしながら書類に目を通していた。
そんな時、ヘルムデッセンが椅子を引き、静かに立ち上がった。
「ヴィーラ、出かけてくるがいいか?」
唐突な言葉に、ヴィーラは軽く眉を上げた。
「えぇ、構わないわよ。」
彼女はカップを置きながら、彼の顔を見上げる。
「どこへ?」
「叔父さんのところだ。」
短く答えながら、ヘルムデッセンは外套を手に取る。
「ケイオスのところね。」
ヴィーラは、ふっと微笑んだ。
「わかったわ。」
「帰りが遅くなるかもしれん。先に寝ててくれ。」
そう言うと、彼は背を向け、ゆっくりと部屋を後にした。
扉が閉まる音が響くと、ヴィーラはカップを持ち直し、静かに呟いた。
「…… 叔父さんと仲良くなれて、よかったわね。」
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ヴィーラがケイオスと出会ったのは、まさに偶然の出来事だった。
彼女の記憶は、あの日へと遡る——
それは、ヘルムデッセンと結婚して一年が過ぎ、まだ彼の顔すらまともに覚えていない四年以上前のことだった。
彼女は、領地の中心街を視察していた。
「…… 妙ね。」
ふと足を止め、目の前の建物をじっと見つめる。
屋根は傾き、壁には深いひびが入り、扉の塗装は無惨に剥げ落ちていた。
まるで今にも崩れそうなその家から、どこか微かな魔力の残滓を感じる。
——魔法の気配。
書物で見た理論だけでなく、実際に魔法を扱う者から発せられる独特の空気感。
この屋敷には、
(誰がこんなところに……? )
気になったヴィーラは、躊躇うことなく扉へと近づき、軽く拳で叩いた。
コンコン——
しばらくの沈黙の後——ギィ、と錆びついた蝶番が不快な音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。
「……!」
ヴィーラは、思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは——
(なっ……!? 黒髪に赤い瞳…… まさか…… デュークデイモン辺境伯!? )
頭が混乱する。
ヘルムデッセンにしか見えない男が、そこに立っていた。
だが、目の前の男は明らかに違った。
痩せこけた体、長く伸びて乱れた銀髪、虚ろな赤い瞳。
生気のないその目には、深い絶望の色が浮かんでいた。
男は、警戒するように細めた目でヴィーラを見つめ、低く掠れた声で問いかけた。
「…… 誰だ。」
ヴィーラは、咄嗟に警戒心を抱く。
この男、ただ者ではない。
(——違う。 ヘルムデッセンじゃない。 )
けれど、あまりにも似ている。
この目、黒髪と赤い瞳…… まるでヘルムデッセンの影がそこに立っているかのようだった。
「…… あなたの名前は?」
彼女は、慎重に問いかける。
すると、男は一瞬だけ沈黙し、まるでその問いが重すぎるかのように言葉を選ぶ。
そして、ぽつりと名乗った。
「…… ケイオス、だ。」
「…… ケイオス。」
その名を口にしながら、ヴィーラは男を観察する。
彼の背後に広がる部屋は、荒れ果て、家具はほこりを被り、使われた形跡がほとんどなかった。
けれど、わずかに漂う魔力の痕跡が、それなりの修練を積んだ魔法使いであることを物語っている。
「あなた、魔法が使えるの?」
問いかけると、ケイオスはわずかに視線を逸らし、黙り込む。
その仕草が、無意識のうちに答えを示していた。
(魔法の才能があるのに、こんな暮らしをしているなんて……。 )
なぜ彼がここにいるのかは分からない。
だが、彼が深い絶望の中にいることだけは、一目で察することができた。
——この男は、使えるかもしれない。
ヴィーラの思考が、瞬時に切り替わる。
「あなたに、提案があるの。」
彼女は一歩前へ進み、彼の赤い瞳をまっすぐに見据える。
「医者や薬師の真似事をしてみない?」
ケイオスの眉が、わずかに動いた。
「…… どういう意味だ?」
「魔法が使えるのなら、治療魔法も使えるはずよ。」
「…… まあな。」
「なら、医者になればいいわ。」
「…… は?」
ケイオスは、まるで自分の耳を疑うように、困惑した表情を浮かべた。
「医者として人を治せば、金を稼ぐことができるわ。」
「…………。」
「あなたにとっても、悪い話ではないでしょう?」
ヴィーラは、微かに笑みを浮かべる。
「支援するわ。」
その言葉に、ケイオスは沈黙した。
目の前の女は、本気なのか?
信じがたい話だった。
見ず知らずの男を、医者として育てるなど…… 正気の沙汰とは思えない。
(…… 何を考えている? )
しかし、彼の心の奥に眠る"生存本能"が、彼女の言葉を拾い上げた。
「…… わかった。」
低く、しかし確かな声でケイオスは答えた。
——その瞬間、彼の人生が変わった。
ヴィーラは、すぐさま支援を決定し、彼を領地の中心街へ移住させた。
ケイオスはそこで診療所を開き、瞬く間に治療の腕を磨き、貴族や領民たちの間で名を広めていった。
——すべては、あの日の出会いから始まった。
ヴィーラは、窓の外を眺めながら、小さく微笑む。
(やっぱり…… 損はなかったわね。 )
彼は、自らの手で価値を生み出し、今では領地になくてはならない存在となった。
——そして、何より。
彼は、ヘルムデッセンの"家族"だった。
それを知った時のヘルムデッセンの表情を思い出し、ヴィーラは静かにカップを持ち上げる。
「…… 叔父さんと、もっと仲良くなれるといいわね。」
小さく呟きながら、彼女は再び視線を手元の書類へと落とした。
——あの時、彼を見過ごさなくて、本当によかった。




