㊽
ヴィーラティーナが目覚めてから、三日が過ぎた。
その朝、三階の食堂には大勢の人々が集まっていた。
長いテーブルの中央にはヘルムデッセンが座り、その隣には小さなヘルヴィクト。その向かいにはヴィーラが席を取り、両端にはケイオス、ディルプール、ロート、ヴィルトン、そしてデリーが並んでいる。
窓から差し込む朝陽が食卓を照らし、温かい湯気を立てる料理が並ぶ中——妙に湿った空気が漂っていた。
「……」
ヴィーラはスープを掬いながら、時折ちらちらとヘルムデッセンの方を盗み見た。
食卓を囲む面々もまた、彼を見つめている。
——痩せ細った彼を。
かつてのヘルムデッセンとは違う。
戦場を駆け、剣を振るい、強靭な肉体を誇っていたあの姿はもうなかった。
今の彼は、細くなった手足、落ちた頬、そして何よりも華奢で儚げな姿——それでも、どこか穏やかにヘルヴィクトをあやしていた。
「……ヘル。」
ヴィーラは、ふと手を止める。
「どうした?」
ヘルムデッセンが顔を上げた瞬間——
ヴィーラの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……こんなに……こんなに細くなっちゃって……。」
ヘルムデッセンは、一瞬だけ驚いたような顔をした。
「……おい。」
「だって……!」
ヴィーラは、唇を噛みしめながら涙を拭おうとするが、止めどなく溢れてくる。
「私のために、こんな……!」
その言葉を聞いた瞬間——
「……っ」
向かい側のディルプールも、ぐしゃっと顔を歪めた。
「……ヘルムデッセン様……とても頑張っていらっしゃったから……。」
ディルプールは、嗚咽を堪えながらも涙を拭う。
「おいおい……」
ヘルムデッセンは、眉間に手を当てて、深々と溜息をついた。
「お前達、もう三日目だぞ。それにディルプール、お前に至っては一年だ。」
「……だって……。」
ヴィーラは、ハンカチで目を拭いながら、小さな声で呟く。
「だって……あなたが、私を生かすために……!」
「……私も……。」
ディルプールも、小さく肩を震わせながら頷く。
「私も、ずっと見てきましたから……ヘルムデッセン様が、どれほど耐え続けてこられたのか……。」
その場にいた皆が、何も言えずにいた。
ケイオスは静かに俯き、ロートは腕を組んで難しい顔をし、ヴィルトンは目を細めながら黙っていた。
そんな中——
「はぁ……。」
ヘルムデッセンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……やれやれ。」
そして、ヘルヴィクトをそっと抱き上げ、用意されていた哺乳瓶を手に取った。
「お前達が泣いたところで、俺の体が戻るわけでもないだろう。」
淡々とした口調で言いながら、ヘルヴィクトの小さな口元へと哺乳瓶を近づける。
「ほら、ヴィー、飲め。」
ヘルヴィクトは、父の腕の中で無邪気に笑いながら、小さな手を伸ばし、哺乳瓶を掴むようにして飲み始めた。
その姿を見て、ヘルムデッセンの表情が少しだけ柔らかくなる。
「俺は、ちゃんと生きてる。」
ゆっくりと、彼は言った。
「こうして、お前達と食卓を囲めている。それで十分だ。」
ヴィーラは、涙を拭いながらも、彼の言葉を胸に刻んだ。
(ヘルは……本当に強い。)
どれだけ細くなっても。
どれだけ傷ついても。
彼は決して、折れない。
だからこそ、私は——
「……うん。」
ヴィーラは、そっと微笑んだ。
(これからは、私が支えていくわ。)
心の中で、静かにそう誓った。
―――――――――
―――――――
食事が終わると、ヴィーラはゆっくりと椅子から立ち上がった。
ケイオスが許可を出してくれたおかげで、今日から執務に戻ることができる。
「じゃあ、私は執務室へ行くわね。」
ヘルムデッセンは、椅子に座ったままヘルヴィクトを抱き上げ、軽く顎を上げて答えた。
「そうか。俺はこれからロートと義父上に鍛え直されてくる。」
彼の言葉に、食堂の空気が少し和らぐ。
「……ついでに、デリーの剣術稽古もな。」
「デリーも?」
ヴィーラが驚いて彼の隣に座る少年を見つめると、デリーは少しだけ視線を逸らしながらも、ぎゅっと拳を握っていた。
「……剣を、学びたい。」
小さな声ではあったが、その決意は確かだった。
ヴィーラは、そっと微笑みながら彼の頭を撫でた。
「頑張ってね。」
デリーは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがてこくりと頷いた。
ヘルムデッセンは満足げに頷きながら、ヘルヴィクトをヴィーラに託すように抱かせる。
「じゃあ、行ってくる。」
「ええ、無理はしないで。」
「……お前に言われると複雑だな。」
そう言って苦笑すると、ヘルムデッセンはロートやヴィルトンとともに食堂を出て行った。
ヴィーラはヘルヴィクトの小さな体を胸に抱きしめ、ふっと息を吐く。
「さて……久しぶりの執務ね。」
気を引き締め、ヘルヴィクトを侍女に預けると、彼女はゆっくりと執務室へと向かった。
――――――――――
――—————
執務室の扉を開くと、そこには慣れ親しんだ空間が広がっていた。
けれど、そこに流れる空気は、どこか違っていた。
長い眠りの間に、ヘルムデッセンがここで過ごしていたのだ。
私の代わりに、この領地を守るために。
家具の配置も、机の上の書類の並び方も、私がここにいた頃とほとんど変わっていない。
けれど、それは「何も変わっていない」というわけではなく——
(……引き継げるように、整えてくれていたのね。)
まるで、いつでも私が戻ってこられるように、彼はこの場所を守っていてくれた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ゆっくりと机の前に立ち、そっと椅子に腰を下ろす。
この感触も懐かしい。
けれど、私の知らない時間が、この部屋には確かに積み重ねられていた。
(……さて。)
木製の重厚な机の表面をそっと撫でると、長い間ここに座っていたであろう彼の温もりが、微かに残っているように感じた。
深く息を吸い込み、目の前に整然と並べられた書類へと視線を落とす。
(……ヘルが、ずっと処理していたのよね。)
そう思いながら、一枚の書類を手に取った——
——その瞬間。
私は、思わず息を呑んだ。
ヘルムデッセンの字が、驚くほど綺麗になっていた。
かつての彼の筆跡は、とても読めたものではなかった。
戦場で短い指示を書き留める程度の文字しか必要とせず、貴族社会の整った書類を作成することには興味すらなかったはず。
けれど——
今、私の手の中にある書類の文字は、まるで別人が書いたかのように整っていた。
流れるような筆記体ではなく、丁寧に一文字一文字書かれたそれは、彼の不器用な努力の積み重ねを物語っていた。
「……ヘル……。」
私は、震える手で次の書類を手に取る。
内容を読み進めるたびに、さらに驚かされた。
収支報告の計算が、正確に記されている。
農作物の収穫率を考慮し、次期の耕作計画が練られている。
交易の現状や、税の分配——どれも適切に処理されていた。
ただ、執務をこなしただけではない。
彼は、領地の未来を見据えながら、この仕事をしていた。
以前のヘルムデッセンなら、経済や行政には関心がなかったはず。
それでも、彼は逃げずに向き合い——学び、理解し、実行しようとした。
(……すごい。)
私は、震える指先でそっと書類の端を撫でた。
(……ヘルは、領主としての役目を、全うしていたのね。)
戦場の覇者でありながら、剣を手放し——
この二年、私の代わりに、領地を背負い、守り抜いてくれた。
その事実が、言葉にならないほどに胸を打った。
「……また……。」
ぽつりと呟いた途端、視界がぼやけた。
涙が零れ、頬を伝う。
私は、こんなにも涙もろい人間だっただろうか?
今まで生きてきて、涙を流したことなど数えるほどしかなかったというのに。
目覚めてからの私は、何度泣いただろう。
でも、止まらなかった。
——ヘルが、どれほど努力してきたのか。
——どれほどの犠牲を払い、どれほど苦しみ、それでも前に進み続けたのか。
想像するだけで、涙が次から次へと溢れた。
彼は、決して私を失わせなかった。
私が眠り続けていた二年間、彼は何度も限界を迎えながら、それでもこの領地を守り続けた。
「……ごめんね。」
そっと書類を握りしめる。
「……ごめんね、ヘル。」
震える声で呟く。
彼の人生のすべてを変えてしまったのは、私だ。
戦場に生きていた彼を、領主に変え、父に変え、そして——私を支え続ける存在に変えてしまった。
(……今度は逆になっちゃったね。)
ヘルと初めて会った日…
私は、彼を見て「この人には領地運営なんて無理だ」と心のどこかで決めつけた。
彼の力を利用しようとしたのも、どこか冷めた打算があったから。
けれど、今目の前にある書類は、そんな私の考えをすべて覆した。
(ヘルは、こんなにも成長していたのね。)
彼の努力の証が、ここにある。
だからこそ、今度は——
「……ありがとう、ヘル。」
そっと微笑みながら、指先で涙を拭う。
もう泣いてばかりいるわけにはいかない。
今度は、私が彼を支える番だから。
ゆっくりとペンを取り、書類に目を通す。
(この領地を、家族を——今度は私が守っていく。)
覚悟を決め、決意を新たに。
静かな執務室で、私は再び領主としての仕事を始めた。




