㊼
柔らかな陽の光が差し込む廊下を、足をもつれさせながら駆ける。
長い夢から覚めたばかりの体は、まだ重たく、足元が覚束ない。だというのに、私は自分でも信じられないほどの勢いで扉を押し開けた。
——執務室。
そこにいたのは——
漆黒の髪と、燃えるような赤い瞳を持つ男。
足が、止まる。
心臓が、強く跳ねた。
彼は執務机の前に立ち、私の方をまっすぐに見つめていた。
その瞳は、まるで長い間待ち望んでいたものをついに手にしたかのように、鮮烈な光を宿していた。
でも——
「……誰……?」
ぽつりと、無意識に言葉がこぼれた。
男の表情が、一瞬だけ固まる。
それから、ゆっくりと口元が綻び、柔らかな笑みが浮かんだ。
「……なんだ、それは。忘れられたのか?」
どこか拗ねたような、それでいて楽しげな声音。
私は、その顔をじっと見つめる。
目の前にいるのは間違いなく"彼"のはずなのに、記憶の中の人物とは結びつかない。
記憶の中のヘルムデッセンは——
頑強で、堂々としていて、戦場を駆ける雄々しき戦士だった。
でも、今目の前にいるこの男は——
細く、華奢で、儚げで。
そんなはずはない。
そんなはずはないのに——
赤い瞳。黒髪。
そして、この会話——
(……え?)
胸がざわめく。
今のやり取り、以前にも——いや、これは——
「もしかして……ヘルなの!?」
驚きと戸惑いが入り混じった声が、震えながら喉から漏れる。
すると、目の前の男——ヘルムデッセンは、満面の笑みを浮かべた。
「そうだとも!ヴィーラ!」
次の瞬間。
細い腕が、私を抱きしめた。
「わっ、ちょっ……!」
唐突な抱擁に、思わず声が詰まる。
かつての彼なら、こんなにも軽々と私を抱き寄せることはなかった。
いや、むしろ、もっと力強く、まるで私を逃がさぬように抱きしめたはずだ。
けれど、今の彼の腕は細く、それでも震えながら必死に私を抱きしめていた。
「お帰り…ヴィーラ。」
静かに囁く声が、耳元に落ちる。
「なんだか、懐かしい会話をしたな。」
——懐かしい。
そう、これは私が初めて"彼"と出会った時のやり取りとまったく同じだった。
まるで、時が巡ったかのように。
そして、私は眠っていた間の記憶があることに気付いた。
——ケイオスの仕業ね。
彼はきっと、私が眠っている間の"ヘルムデッセンの記憶"を共有してくれたのだ。
だから私は、眠りから覚めた瞬間から知っていた。
この二年、彼が何を捨て、何を選び、どれほどの痛みと苦しみを味わったのか。
私が眠っている間、彼は剣を捨て、領地を守り、息子を育て、そして——私を生かし続けた。
彼のすべてを犠牲にしてまで。
(ヘル……。)
腕の中の彼が、あまりにも細い。
かつての豪胆な戦士の面影はなく、今はただ、どこか儚く、そして……優しい男になっていた。
その事実が、胸に突き刺さる。
「……ヘル。」
堪えきれなかった。
瞳に熱いものがこみ上げ、頬を伝い、涙となって零れる。
(どれほどのものを捨てさせてしまったのか。)
(どれほどの苦労をさせてしまったのか。)
震える手を、そっと彼の背に回した。
心音が聞こえる。
「……ただいま……ヘル。」
かすれた声で囁くと、彼の腕がさらに強く私を抱きしめた。
細いけれど、温かくて、どこか懐かしい腕。
体温が、鼓動が、確かに"彼"のものだと教えてくれる。
「……俺だってわかる?」
耳元で低く響く声。
それはいつか聞いた、頼もしくて、優しい彼の声だった。
私はそっと微笑み、彼の背を撫でるように触れた。
「えぇ……。ケイオスが、記憶の共有をしてくれたわ。」
その言葉に、ヘルムデッセンは一瞬固まり、やがて苦笑する。
「そうか……それは……恥ずかしいな。」
くぐもった笑い声。
私が眠っている間に、彼がどれほど苦しみ、どれほど必死に生き抜いてくれたか——私は知っている。
「ヘル……ありがとう。」
そっと顔を上げると、彼の頬に手を添える。
指先に感じるのは、かつてよりもずっと鋭くなった頬の骨。
「こんなに……痩せちゃって……。」
唇を噛みしめ、言葉を飲み込む。
私のために、彼がどれほどのものを犠牲にしてきたのか——。
胸が締め付けられる。
「……大好きよ、ヘル。」
彼の赤い瞳が、驚いたように揺れる。
「愛してるわ。」
目の前の彼は、以前よりも弱々しく見える。
それでも、この二年、私を生かすために戦い続けてくれた人。
涙が零れる。
それを見つめる彼が、目を伏せるようにして、ゆっくりと口を開いた。
「……はじめて……ちゃんと言われたな……。」
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
「そうだった?」
「……あぁ。」
ヘルムデッセンは、少し照れたように目を細めた。
私たちは確かに夫婦だったけれど、お互い素直に想いを伝え合ったことはなかったかもしれない。
彼は、不器用ながらもずっと私を想い続けてくれた。
——私は、ちゃんと、彼に応えていたのだろうか?
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「ヘル——」
その時だった。
「ママ! ママ!」
甲高い声が響き、視線を向けると——
そこには、小さな手でベビーベッドの柵を掴みながら、必死に立ち上がろうとしているヘルヴィクトがいた。
「ヴィー!」
私は思わず声を上げる。
息子の瞳は、私と同じ黄金色に輝き、小さな手をこちらに伸ばしていた。
私の中で、何かが一気に溢れ出す。
「ヴィー……!!」
足元がふらつくのも忘れて、彼に駆け寄ろうとする。
だが——体にまだ力が入らない。
「っ……!」
思うように動かない腕。
悔しさと喜びが入り混じりながら、それでも私はそっと手を伸ばし、彼の小さな体を抱きしめるように寄り添った。
「ママ、まだ……力が入りづらいから……これで許してね……ヴィー。」
額をそっと合わせる。
温かい。
愛おしくて、たまらない。
ヘルヴィクトは、私の頬に小さな手を押し当てながら、にこっと笑った。
私は、ただただ涙を堪えることができなかった。
ヘルムデッセンが、私の隣で優しく微笑んでいる。
腕の中で、ヘルヴィクトが小さな手を私の頬に添え、満面の笑みを浮かべている。
この小さな命が、私の知らないうちにすくすくと育っていた。
私は長く眠り続けていたのだと、改めて実感する。
「ヴィーは、とっても成長が早いんだ。」
ヘルムデッセンが、誇らしげに息子を見つめながら言った。
その表情は、戦場では見せたことのない、穏やかで優しいものだった。
「何言ってるのよ。わりと普通よ。」
私は、ふっと微笑みながらヘルヴィクトの髪を撫でる。
幼い子供の成長は目まぐるしいものだ。
確かに、二年近く眠っていた私にとっては、驚くことばかりだけれど——
それでも、親バカな彼の言葉は、どこか微笑ましかった。
「ははっ。ママはヴィーにも厳しいな。」
ヘルムデッセンが楽しそうに笑う。
「当然よ。あなたが甘やかしすぎるから、私がきちんとしないと。」
私は、軽く彼を睨みながら言った。
「……おもちゃをなんでも買い与えちゃダメよ?」
「……ダメか?」
彼が、少しだけ肩を落としながら私を見る。
その視線が妙に子供っぽくて、私は思わず笑いをこらえた。
「ダメよ。」
「……そうか……。」
珍しくしょんぼりとするヘルムデッセン。
それを見て、ヘルヴィクトが「パパ?」と小さく首を傾げた。
その仕草があまりに可愛らしくて、私はヴィーをぎゅっと抱きしめる。
すると——
「もう……ヴィーラもヴィーも、どっちも可愛すぎる。」
ヘルムデッセンが、小さく息をつきながら、私たちを優しく抱き寄せた。
私は驚いて顔を上げる。
けれど、その腕の温かさが心地よくて、自然と力が抜けていく。
「……何よ、急に。」
「こうして、家族みんなでいるのが、ただ嬉しいだけだ。」
彼は、静かに目を閉じる。
「ずっと待ってた。お前が、こうして俺の腕の中に戻ってくるのを。」
その言葉に、胸が熱くなる。
私は、そっと目を閉じ、彼の手を握る。
「……待たせて、ごめんなさい。」
「いいや。待った甲斐があった。」
彼の言葉は、まっすぐに私の心を満たしていく。
ヘルヴィクトが、そんな私たちの顔を交互に見ながら、「ママ! パパ!」と嬉しそうに声を上げた。
その声に、私もヘルムデッセンも、思わず微笑む。
この温もりが——この幸せが——ずっと続いていくことを、私は心から願った。




