表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/53

柔らかな陽の光が差し込む廊下を、足をもつれさせながら駆ける。


長い夢から覚めたばかりの体は、まだ重たく、足元が覚束ない。だというのに、私は自分でも信じられないほどの勢いで扉を押し開けた。


——執務室。


そこにいたのは——


漆黒の髪と、燃えるような赤い瞳を持つ男。


足が、止まる。

心臓が、強く跳ねた。


彼は執務机の前に立ち、私の方をまっすぐに見つめていた。

その瞳は、まるで長い間待ち望んでいたものをついに手にしたかのように、鮮烈な光を宿していた。


でも——


「……誰……?」


ぽつりと、無意識に言葉がこぼれた。


男の表情が、一瞬だけ固まる。

それから、ゆっくりと口元が綻び、柔らかな笑みが浮かんだ。


「……なんだ、それは。忘れられたのか?」


どこか拗ねたような、それでいて楽しげな声音。


私は、その顔をじっと見つめる。

目の前にいるのは間違いなく"彼"のはずなのに、記憶の中の人物とは結びつかない。


記憶の中のヘルムデッセンは——

頑強で、堂々としていて、戦場を駆ける雄々しき戦士だった。


でも、今目の前にいるこの男は——

細く、華奢で、儚げで。


そんなはずはない。

そんなはずはないのに——


赤い瞳。黒髪。


そして、この会話——


(……え?)


胸がざわめく。

今のやり取り、以前にも——いや、これは——


「もしかして……ヘルなの!?」


驚きと戸惑いが入り混じった声が、震えながら喉から漏れる。


すると、目の前の男——ヘルムデッセンは、満面の笑みを浮かべた。


「そうだとも!ヴィーラ!」


次の瞬間。


細い腕が、私を抱きしめた。


「わっ、ちょっ……!」


唐突な抱擁に、思わず声が詰まる。

かつての彼なら、こんなにも軽々と私を抱き寄せることはなかった。

いや、むしろ、もっと力強く、まるで私を逃がさぬように抱きしめたはずだ。


けれど、今の彼の腕は細く、それでも震えながら必死に私を抱きしめていた。


「お帰り…ヴィーラ。」


静かに囁く声が、耳元に落ちる。


「なんだか、懐かしい会話をしたな。」


——懐かしい。


そう、これは私が初めて"彼"と出会った時のやり取りとまったく同じだった。


まるで、時が巡ったかのように。


そして、私は眠っていた間の記憶があることに気付いた。


——ケイオスの仕業ね。


彼はきっと、私が眠っている間の"ヘルムデッセンの記憶"を共有してくれたのだ。

だから私は、眠りから覚めた瞬間から知っていた。

この二年、彼が何を捨て、何を選び、どれほどの痛みと苦しみを味わったのか。


私が眠っている間、彼は剣を捨て、領地を守り、息子を育て、そして——私を生かし続けた。


彼のすべてを犠牲にしてまで。


(ヘル……。)


腕の中の彼が、あまりにも細い。

かつての豪胆な戦士の面影はなく、今はただ、どこか儚く、そして……優しい男になっていた。


その事実が、胸に突き刺さる。


「……ヘル。」


堪えきれなかった。


瞳に熱いものがこみ上げ、頬を伝い、涙となって零れる。


(どれほどのものを捨てさせてしまったのか。)

(どれほどの苦労をさせてしまったのか。)


震える手を、そっと彼の背に回した。

心音が聞こえる。


「……ただいま……ヘル。」


かすれた声で囁くと、彼の腕がさらに強く私を抱きしめた。

細いけれど、温かくて、どこか懐かしい腕。


体温が、鼓動が、確かに"彼"のものだと教えてくれる。


「……俺だってわかる?」


耳元で低く響く声。

それはいつか聞いた、頼もしくて、優しい彼の声だった。


私はそっと微笑み、彼の背を撫でるように触れた。


「えぇ……。ケイオスが、記憶の共有をしてくれたわ。」


その言葉に、ヘルムデッセンは一瞬固まり、やがて苦笑する。


「そうか……それは……恥ずかしいな。」


くぐもった笑い声。

私が眠っている間に、彼がどれほど苦しみ、どれほど必死に生き抜いてくれたか——私は知っている。


「ヘル……ありがとう。」


そっと顔を上げると、彼の頬に手を添える。

指先に感じるのは、かつてよりもずっと鋭くなった頬の骨。


「こんなに……痩せちゃって……。」


唇を噛みしめ、言葉を飲み込む。

私のために、彼がどれほどのものを犠牲にしてきたのか——。


胸が締め付けられる。


「……大好きよ、ヘル。」


彼の赤い瞳が、驚いたように揺れる。


「愛してるわ。」


目の前の彼は、以前よりも弱々しく見える。

それでも、この二年、私を生かすために戦い続けてくれた人。


涙が零れる。

それを見つめる彼が、目を伏せるようにして、ゆっくりと口を開いた。


「……はじめて……ちゃんと言われたな……。」


その言葉に、私は思わず瞬きをした。


「そうだった?」


「……あぁ。」


ヘルムデッセンは、少し照れたように目を細めた。


私たちは確かに夫婦だったけれど、お互い素直に想いを伝え合ったことはなかったかもしれない。

彼は、不器用ながらもずっと私を想い続けてくれた。


——私は、ちゃんと、彼に応えていたのだろうか?


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「ヘル——」


その時だった。


「ママ! ママ!」


甲高い声が響き、視線を向けると——


そこには、小さな手でベビーベッドの柵を掴みながら、必死に立ち上がろうとしているヘルヴィクトがいた。


「ヴィー!」


私は思わず声を上げる。

息子の瞳は、私と同じ黄金色に輝き、小さな手をこちらに伸ばしていた。


私の中で、何かが一気に溢れ出す。


「ヴィー……!!」


足元がふらつくのも忘れて、彼に駆け寄ろうとする。


だが——体にまだ力が入らない。


「っ……!」


思うように動かない腕。


悔しさと喜びが入り混じりながら、それでも私はそっと手を伸ばし、彼の小さな体を抱きしめるように寄り添った。


「ママ、まだ……力が入りづらいから……これで許してね……ヴィー。」


額をそっと合わせる。


温かい。


愛おしくて、たまらない。


ヘルヴィクトは、私の頬に小さな手を押し当てながら、にこっと笑った。


私は、ただただ涙を堪えることができなかった。


ヘルムデッセンが、私の隣で優しく微笑んでいる。


腕の中で、ヘルヴィクトが小さな手を私の頬に添え、満面の笑みを浮かべている。


この小さな命が、私の知らないうちにすくすくと育っていた。

私は長く眠り続けていたのだと、改めて実感する。


「ヴィーは、とっても成長が早いんだ。」


ヘルムデッセンが、誇らしげに息子を見つめながら言った。

その表情は、戦場では見せたことのない、穏やかで優しいものだった。


「何言ってるのよ。わりと普通よ。」


私は、ふっと微笑みながらヘルヴィクトの髪を撫でる。

幼い子供の成長は目まぐるしいものだ。

確かに、二年近く眠っていた私にとっては、驚くことばかりだけれど——

それでも、親バカな彼の言葉は、どこか微笑ましかった。


「ははっ。ママはヴィーにも厳しいな。」


ヘルムデッセンが楽しそうに笑う。


「当然よ。あなたが甘やかしすぎるから、私がきちんとしないと。」


私は、軽く彼を睨みながら言った。


「……おもちゃをなんでも買い与えちゃダメよ?」


「……ダメか?」


彼が、少しだけ肩を落としながら私を見る。


その視線が妙に子供っぽくて、私は思わず笑いをこらえた。


「ダメよ。」


「……そうか……。」


珍しくしょんぼりとするヘルムデッセン。

それを見て、ヘルヴィクトが「パパ?」と小さく首を傾げた。


その仕草があまりに可愛らしくて、私はヴィーをぎゅっと抱きしめる。


すると——


「もう……ヴィーラもヴィーも、どっちも可愛すぎる。」


ヘルムデッセンが、小さく息をつきながら、私たちを優しく抱き寄せた。


私は驚いて顔を上げる。

けれど、その腕の温かさが心地よくて、自然と力が抜けていく。


「……何よ、急に。」


「こうして、家族みんなでいるのが、ただ嬉しいだけだ。」


彼は、静かに目を閉じる。


「ずっと待ってた。お前が、こうして俺の腕の中に戻ってくるのを。」


その言葉に、胸が熱くなる。


私は、そっと目を閉じ、彼の手を握る。


「……待たせて、ごめんなさい。」


「いいや。待った甲斐があった。」


彼の言葉は、まっすぐに私の心を満たしていく。


ヘルヴィクトが、そんな私たちの顔を交互に見ながら、「ママ! パパ!」と嬉しそうに声を上げた。


その声に、私もヘルムデッセンも、思わず微笑む。


この温もりが——この幸せが——ずっと続いていくことを、私は心から願った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ