㊻
朝陽が差し込み、ひんやりとした空気が張り詰める城内の修練所。
ヘルムデッセンは、荒い息を吐きながら拳を握りしめていた。
細くなった体には、かつてのような圧倒的な力強さはない。
それでも、剣を振るう手を止めることはなかった。
——ヴィーラが目覚めるまで、俺は弱るわけにはいかない。
鋼の剣を振り下ろすたび、腕にじわじわと痛みが走る。
それでも動きを止めることはなく、全身を鍛え続けた。
「——ヘルムデッセン様。」
不意に、背後から静かな声が響いた。
ヘルムデッセンは振り返り、鋭い視線を向ける。
「どうした? ヴィーラに何かあったか?」
思わず、剣を握る手に力が入る。
ケイオスは、いつもと変わらぬ冷静な表情で首を振った。
「いえ、薬が完成しました。」
——その言葉を聞いた瞬間。
ヘルムデッセンの動きが止まった。
「——ほんとか!?」
乾いた唇から絞り出した声は、震えていた。
ケイオスは淡々と頷く。
「はい。今日から投薬を開始します。」
ヘルムデッセンは息を飲み、握りしめていた剣をゆっくりと降ろした。
「……あぁ! 頼む!!」
気がつけば、肩で息をしていた。
——やっとだ。
やっと、ヴィーラが目覚める。
焦るな、冷静になれ——そう言い聞かせながらも、心臓の高鳴りは抑えられなかった。
「……っ!」
もう一度、拳を握り直す。
ヴィーラが目覚めるその日まで、自分は絶対に立ち続ける。
さらに剣を振るう手に力を込め、鍛錬に励んだ。
―――――――――――
――――――――
そして——
月日は過ぎ去り、ヴィーラが眠りについてから、1年と10か月が経とうとしていた。
ヘルムデッセンは、窓辺に腰掛けるように座り、目を伏せた。
「……今日も目覚めなかった。」
呟くように言葉を落とす。
机の上には、薬瓶が何本も並んでいた。
何度も、何度も投薬を続けてきた。
そして、ケイオスが言っていた——「必ず目覚める」と。
ヘルムデッセンは、やつれた身体を支えるように両腕を膝の上に置き、ゆっくりと目を閉じる。
かつての戦場を駆けた強靭な体はもうない。
今の彼は、剣を握ることすらままならないほど、痩せ細っていた。
「……ですが、必ず二ヶ月のうちに目覚めます。」
ケイオスの声が、静かに響く。
ヘルムデッセンは、顔を上げることもせずに答えた。
「……そうか……。」
「それと——」
ケイオスがわずかに間を置く。
「このまま共有を続けると、ヘルムデッセン様のお体に支障をきたします。ここで共有を停止しようかと思います。」
「——何故だ!! 俺ならまだいける!!」
ヘルムデッセンは、即座に顔を上げた。
疲れ切った身体にも関わらず、目の奥にはなお強い意志が燃えている。
「大事な甥を、このまま見過ごせるとでも?」
ケイオスの声は、これまでになく鋭かった。
「……甥……?」
ヘルムデッセンは眉をひそめる。
「前にも言ったが、俺の母はテルミラだ。ドーラではない。」
「あなたこそ、勘違いをしている。」
ケイオスは、微かに目を細め、静かに言葉を続けた。
「ドーラとは、ベルノホルンでは"魔法使い"という意味です。」
ヘルムデッセンの心臓が、一瞬止まったような感覚がした。
「……何?」
「つまり——私の姉は、テルミラで間違いないんです。」
「……!!」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
そして、気づいた瞬間——衝撃が、全身を駆け巡った。
「……では、本当に……叔父……なのか。」
ヘルムデッセンの声が、かすかに震える。
まさか——まさか、自分と血を分けた者が、こんなにも近くにいたなど。
ケイオスは、わずかに微笑みながら、静かに頷いた。
「はい。」
ヘルムデッセンは、目を伏せる。
「……そう……だったのか……。」
ずっと、他人だと思っていた。
ただの魔術師、ただの協力者。
だが、彼は——自分の血縁者だった。
ヘルムデッセンは、深く息を吐いた。
「……共有を切る。」
今度は、静かな口調でそう言った。
―――――――――――
―――――――——
そしてまた二ヶ月が過ぎた——
朝の執務室には、静かな緊張感が漂っていた。
ヘルムデッセンは、窓辺に腰掛けたまま、無意識に指先で机を叩いていた。
——今日は、ヴィーラが目覚める日。
それが確定しているわけではない。
だが、ケイオスは断言した。
「本日中に目覚められると思いますので、どこへも行かないようにお願いします。」
その言葉を受けた瞬間——胸が大きく高鳴った。
ここ数年間、どんな出来事にも動じなかった自分が、今はただ"待つ"ことしかできないという焦燥に駆られている。
窓の外に目を向けると、陽光がゆっくりと城の庭を照らしている。
穏やかで、静かな朝だった。
そんな中、小さな寝息が微かに聞こえた。
ヘルムデッセンは、机の横に置かれたベビーベッドを見下ろした。
そこには、彼の最愛の息子——ヘルヴィクトが、すやすやと眠っていた。
「……お前も、そろそろ起きる時間だな。」
そっと彼を抱き上げる。
小さな体はまだ温かく、柔らかい。
ヘルヴィクトは、まどろみながら、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
そして、ヘルムデッセンの顔を見上げ、ぽつりと小さな声を漏らす。
「パ……パ……」
ヘルムデッセンは、思わず息を呑んだ。
「……!」
息子が初めて発した、明確な言葉。
自分を呼んだのか、それともただの音なのか。
それでも、彼の心にじんわりと温かいものが広がった。
「ははっ……利口なやつだ。」
小さな頭を撫でながら、ふっと笑う。
ヘルヴィクトは、まだぼんやりとしているが、小さな手を伸ばし、父の胸元をぎゅっと掴む。
その仕草が、無性に愛おしかった。
「……ママが起きる日だ。」
そっと囁くように言った。
「お前もようやく、ママに抱いてもらえるな……。」
優しく額に唇を寄せると、ヘルヴィクトは「ぅぅー」と甘えた声を漏らした。
その小さな体をしっかりと抱きしめながら、ふと心の奥に引っかかるものを感じる。
(……すまないな。)
ヘルヴィクトの一歳の誕生日は、何もしてやれなかった。
ヴィーラが眠り続けている中で、祝う気持ちにはなれなかったし、それどころではなかった。
それでも——
「遅くなったが……今日こそ、ちゃんと祝ってやろう。」
ぎゅっと息子を抱きしめる。
ヘルヴィクトは、ぽふぽふと小さな手でヘルムデッセンの肩を叩いた。
その仕草に、ふっと微笑むと、彼をそっとベビーベッドへと寝かせた。
「ゆっくり寝てろ。今日は……大事な一日だからな。」
ヘルヴィクトは、ふにゃっとした表情を浮かべながら、柔らかな毛布に包まれる。
寝息を立てる息子を見下ろしながら、ヘルムデッセンは執務机へと向かう。
積み上がった書類を手に取り、静かに椅子に腰を下ろした。
(……落ち着け。)
ヴィーラが目覚めるまで、ただ待つことはできない。
少しでも時間を埋めるために、いつものように執務に向き合おう。
しかし、心のどこかで、確信していた。
そして——
ヘルムデッセンは、執務机に向かいながらも、何度も時計を確認していた。
時間が過ぎるのが遅い。
書類に目を通しても、頭に入らない。
ペンを持つ指が、微かに震えていた。
(……落ち着け。)
そう自分に言い聞かせながらも、心臓は否応なく高鳴る。
窓の外では、柔らかな陽光が城の庭を照らし、穏やかな風がカーテンを揺らしていた。
——しかし、その静寂を破るように、廊下から騒がしい声が響いた。
『お待ちください!! まだ安静に!!』
『奥様、お身体が……!』
一瞬で、ヘルムデッセンの思考が止まった。
——ヴィーラ!?
全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
椅子を押し倒す勢いで立ち上がり、ドアへと駆け寄ろうとした——その瞬間。
『どいて!!』
その力強い声と共に——
バンッ!!
重たい扉が勢いよく開かれた。
吹き込んだ風が、机の上の書類を巻き上げる。
そして——そこに立っていたのは。
黄金色の瞳を強く輝かせた、ヴィーラだった。




