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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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数週間後——昼。

柔らかな陽の光が、城の石造りの床に長い影を落としていた。

外では風がそよぎ、窓辺のカーテンがゆったりと揺れている。


——だが、そんな穏やかな昼下がりとは裏腹に、ヘルムデッセンは疲労の色を濃くしていた。


彼の体は、さらに痩せてしまっていた。

以前は引き締まった筋肉に覆われていた体も、今ではその輪郭が細くなり、肩幅の広さこそ健在だが、かつての威圧感は薄れてしまっている。


それもそのはずだった。


最近はまともに鍛錬をする時間も取れていない。

剣を握るよりも、書類を片手に子守りをする日々が続いていた。


——とはいえ、それを後悔したことは一度もなかった。


「……ほら、ヘルヴィクト。今日は機嫌がいいな。」


ヘルムデッセンの腕の中で、小さなヘルヴィクトが柔らかく頬をすり寄せる。

赤子は父の指をぎゅっと掴み、無邪気な笑みを浮かべた。


「はは……そうか、そんなに俺が好きか。」


その様子に、ヘルムデッセンは口元を緩める。


使用人やケイオスも、もちろん子守を手伝ってくれる。

ヘルヴィクトを預ければ、しばらくの間、手が空くこともあった。


——だが、それでも。


「……お前が、可愛すぎるんだよな……。」


結局、ヘルムデッセンは自分で面倒を見てしまうのだった。


生まれたばかりの我が子を、離れることができない。

お腹を痛めて産んだから、というわけではない。

ただ純粋に、この小さな命が愛おしかった。


(戦場では、こんな感情を抱いたことはなかったな……。)


ヘルムデッセンは、ふっと笑いながら、ヘルヴィクトの黒髪を撫でる。

腕の中の小さな存在が、ゆっくりとまばたきをしながら彼を見上げた。


そんな時——


「ヘルムデッセン様。」


執務室の扉が控えめに叩かれ、使用人が一歩、足を踏み入れた。


「客人がいらっしゃっています。」


ヘルムデッセンは視線を上げる。


「客人……?」


「はい。ヴィルトン様が、お連れの方と共にお見えです。」


「……義父上が?」


彼は思わず聞き返した。


ヴィルトン・ベルホック——

ヴィーラの父であり、ベルホック家の当主。


そして、「お連れの方」とは、きっと——


「……デリーか。」


低く呟いた名前は、苦い響きを帯びていた。


デリー王子。

彼の異母兄弟の弟。

7歳にして、王宮での扱いはあまりに酷かった。


彼がどれほど惨めな環境で育てられてきたか、ヘルムデッセンも噂でしか知らない。

言葉を失い、誰からも愛されることなく生きてきた少年。


だが、そんな彼に手を差し伸べたのが——ヴィーラだった。


(……ヴィーラが義父上に頼んでくれなければ、デリーは今頃……。)


ヘルムデッセンは、そっとヘルヴィクトを抱き直した。

小さな体が彼の胸元で安心したように身を寄せる。


「……客室へ向かう。」


「承知しました。」


使用人が一礼し、すぐに足早に部屋を出ていく。


ヘルムデッセンは、もう一度、腕の中のヘルヴィクトを見つめた。


「……お前も、一緒に行こうか。」


ヘルヴィクトは、小さな口を開き「ぅー……」と不思議そうな声を上げる。

まるで「どこへ行くの?」と問いかけるような仕草に、ヘルムデッセンは微笑んだ。


「すぐに会わせてやるさ。」


小さな額に、そっと唇を寄せる。


「お前の……お爺様に。」


愛おしそうに抱き直し、彼は客室へと向かう。


――――――――――

――――――――


客室にて——

ヘルムデッセンが扉を開けると、暖かな陽光が差し込む客室の中で、ヴィルトンが立ち上がった。


彼の瞳が驚愕に見開かれ、言葉を失ったのが一目で分かった。


「……ヘルムデッセン殿で、間違いないか?」


そう問いかける声には、かすかな戸惑いと驚きが滲んでいた。


当然だろう。


かつては戦場で"鬼神"と恐れられた男が——


今は、華奢で儚げなただの紳士に見える。


骨ばった指、落ちた頬、痩せ細った腕。

以前のような圧倒的な体躯はそこにはなく、もはや戦場に立つことさえ厳しいほどだった。


ヘルムデッセンは、静かに微笑んだ。


「はい、義父上……。」


その笑みは、どこか影を帯びていた。


ヴィルトンは、目を細めながら、ゆっくりと息を吐く。


「……だいたいのことは、ディルネスから聞いたが……まさか……これほどとは……。」


そう言いながら、深く眉を寄せた。


剣を捨て、己の体を犠牲にし、すべてを懸けて息子を産んだ——。

その事実は、言葉では語り尽くせないほどの衝撃をヴィルトンに与えていた。


ヘルムデッセンは、それ以上何も言わず、ただ静かに目を伏せた。

己の姿がどれほど変わったのか、自覚がないわけではない。


だが——


「それより、抱いてやってください。義父上。」


そう言いながら、腕の中のヘルヴィクトをそっと持ち上げた。


その言葉に、ヴィルトンはハッとしたように表情を変えた。


「——おぉ! そうだったな!」


感慨深そうに笑いながら、ヘルヴィクトを慎重に受け取る。


「お前が……ヘルヴィクトか……。」


ヴィルトンの大きな腕に包まれながら、ヘルヴィクトは不思議そうに小さな手を動かした。

その仕草を見て、ヴィルトンの表情が和らぐ。


「なんと……なんとも不思議な目をしておるな……。」


ヘルヴィクトの瞳をじっと見つめ、静かに呟いた。


「聡明そうだ……。」


その声は、どこか震えていた。


ヴィルトンの目尻に、滲んだ涙が光る。


「……本当に……よく生まれてきた……。」


ヘルムデッセンは、その様子を静かに見守っていた。


(義父上にとっても……特別な存在なんだな。)


しばらくの間、ヴィルトンはヘルヴィクトを優しく抱きしめ、かすかに笑みを浮かべていた。


だが、その瞬間——


ヘルムデッセンは、部屋の片隅で控えめに座っていた少年へと視線を向けた。


「——デリー。」


少年の細い肩が、びくっと揺れた。


「……元気だったか?」


静かに問いかける。


デリーは、俯いたまま、小さな手をぎゅっと握りしめる。


その場にいる誰もが、彼の返事を待っていた。


そして——


「……はぃ……。」


まるで空気を震わせるような、小さな、小さな声だった。


ヘルムデッセンは、一瞬、息をのんだ。


(今……喋った……!?)


驚きに目を見開く。


隣でヘルヴィクトを抱いていたヴィルトンが、優しく微笑みながら頷いた。


「——あぁ。やっとだ。やっと、話せるようになってきた。」


その言葉に、ヘルムデッセンの胸に温かいものが広がった。


「……そうか……。」


彼は、ゆっくりと膝を折り、デリーの目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。


小さな少年の顔には、まだ不安の色が残っている。


だが、その青い瞳には、確かに生きる力が宿っていた。


ヘルムデッセンは、ゆっくりと手を伸ばし、デリーの金色の髪を優しく撫でる。


「頑張れよ。」


「……っ!」


デリーの小さな体が、びくっと震えた。


「俺は、お前を応援してるぞ。」


その言葉に、デリーの目が揺れる。


彼の喉が、かすかに動いた。

まるで、何かを言いたそうに——。


しかし、言葉にならず、小さく頷くだけだった。


だが、それで十分だった。


(お前は、前に進んでいる。)


ヘルムデッセンがデリーの頭を優しく撫でたあと、ヴィルトンがふっと深く息を吐いた。


「……しかし、大変な時に来られんですまなかったな。」


申し訳なさそうな口調だったが、その声にはどこか芯の強さが滲んでいる。


「いえ、そんな……。」


ヘルムデッセンは即座に首を振る。

むしろ、こうして来てくれたことがありがたかった。


「実はな……王都の屋敷にいたんだが、何度も刺客を送られて外へ出られんかった。」


その言葉に、ヘルムデッセンの表情が一変した。


「……ッ。」


一瞬で戦場にいるかのような鋭い目つきになる。

抱きかかえたヘルヴィクトも、小さな声を上げて彼の腕にしがみつくほどだった。


「心配せんでいい。」


ヴィルトンは軽く手を振り、落ち着いた声で続けた。


「どこも怪我はしていない。全く、物騒な世の中だ。」


(怪我はしていない……が、刺客を送られるほどの状況か。)


ヘルムデッセンは、眉を寄せながら低く問うた。


「黒幕に心当たりは?」


だが、問いながらも、すでに答えは分かっていた。

ヴィルトン・ベルホックはあのヴィーラの父。

彼が知らないはずがない。


案の定、ヴィルトンは少し目を細め、静かに言った。


「私に刺客なんてものを仕向けてくるのは、この国の第二王子——デセウス様だろうな。」


その名前を聞いた瞬間、ヘルムデッセンの喉がごくりと鳴る。


「また……俺の……。」


また"王族"か。

また"血のつながった者"か。


思えば、自分の人生は常に王族の陰謀に巻き込まれてきた。

そして、今回もまた、同じ構図が繰り返されようとしている。


だが——


「気にするでない。」


ヴィルトンは静かに言い放った。


「ヴィーラが起きさえすれば、全て解決する。」


その言葉に、ヘルムデッセンはハッとした。


(……そうだ。)


ヴィーラが目覚めれば、この国の均衡は変わる。

彼女は単なる令嬢ではない。

その知略と才覚で、貴族社会をも動かす力を持つ女だ。


彼女さえいれば——すべて、どうにかなる。


「はい。そうですね。」


ヘルムデッセンは、少しだけ肩の力を抜いて頷いた。

ヴィルトンの言葉には、不思議と説得力があった。


「それに……」


ヴィルトンは腕を組み、にやりと笑う。


「私たちはしばらくここに滞在し、ヘルヴィクトの世話をする。執務も手伝ってやるぞ。」


「——しかし!!」


ヘルムデッセンは反射的に声を上げた。

自分の領地の仕事を、他人に任せるなど——


「案ずるな。」


ヴィルトンは、まるでわかりきっていたかのように、軽く手を振った。


「もう少しの辛抱だろう?」


その言葉に、ヘルムデッセンはしばらく口をつぐむ。


確かに、体は限界に近い。

今までは気力で動いていたが、正直なところ、もうどこかで折れるかもしれなかった。


「……はい。」


ゆっくりと、彼は頷いた。


義父の言葉に甘えるのは悔しいが——

今は、ほんの少しだけ、頼らせてもらおう。


ヘルムデッセンは、腕の中のヘルヴィクトを見つめながら、静かに決意を固めた。


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