表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/53

壮絶な出産から数日後——

昼下がり。

窓から差し込む柔らかな陽光が、静かな執務室を満たしていた。


——だが、その光を浴びながら、ヘルムデッセンはまるで戦場を渡り歩いた後のように、ぐったりと椅子に深く沈み込んでいた。


机の上には、山積みになった書類。

その横には、空になった食器がいくつも並べられている。


疲れ切った顔を手で覆い、彼は長く、深い溜息をついた。


「はぁ……。」


まるで、魂まで抜けたような吐息だった。


「ヘルムデッセン様、大丈夫ですか?」


不安げな声が響く。

目の前には、書類を抱えたディルプールが立っていた。


ヘルムデッセンは、ゆっくりと目を開け、だるそうに頭をもたげる。


「……あぁ……産後が……辛い……。」


ディルプールは一瞬、言葉を失った。

そして、口元を引きつらせながら、「ですよねぇ……」と妙に納得したように肩を落とした。


「本当に……お疲れ様でした……。」


ヘルムデッセンは、力なく頷く。


「ですが、本当におめでとうございます。領地の皆も、未だお祝いムードが抜けませんよ。」


ディルプールの声は明るかった。

その言葉に、ヘルムデッセンは少しだけ意識を引き戻した。


——そうだ。


我が子は、この領地に誕生した。

名前はヘルヴィクト。


『ヘルムデッセン』の名と、『ヴィーラティーナ』の名を受け継いだ、その子は——

確かに、自分たちの"命"が繋がった証だ。


表向きの発表では、

「ヴィーラティーナ辺境伯夫人は、床に伏しながらも懸命に出産を成し遂げ、母子共に無事である」

と伝えられた。


領地の人々は歓喜し、あちこちで祝宴が開かれた。

次の日には、どの町でも宴が催され、人々は酒を酌み交わし、楽器を鳴らし、喜びを分かち合った。


だが——


ヘルムデッセンにとって、そんな余裕は一切なかった。


「……お前、祝宴なんて言ってるがな。」


ヘルムデッセンは、額を押さえながら呻く。


「俺は……俺はそれどころじゃなかったんだ……!!」


ディルプールは思わず身を引く。


「いや、そりゃそうでしょうけど……。」


「……痛みが、トラウマレベルだった……。」


ヘルムデッセンは、虚ろな目をして遠い目をした。

まるで戦場の光景を回想するかのような、その顔に、ディルプールは何も言えなくなる。


「あの痛み……ただの激痛じゃなかった。"生きたまま、内臓をえぐられる" そんな感覚だったんだ……。」


想像を絶する痛み。

身体のすべてを使って、命を押し出す苦しみ。

耐え難い鈍痛の波に翻弄され、ただただ耐えることしかできなかった。


「……まさか、出産が……あんなにも壮絶だとはな……。」


彼は、ぐっと拳を握る。


戦場の死線を何度も潜り抜けてきたこの体でさえ、あの痛みには耐えきれなかった。

どれだけの女性が、こんな命を懸けた戦いをしているのか——

ヘルムデッセンは、心の底から尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


——だが、それだけでは終わらなかった。


「それに加えてだ……。」


彼は、重く目を閉じる。


「ヴィーラの体が……栄養を欲しすぎて、腹が減りまくる。」


「えぇ……。」


ディルプールの顔が若干引きつる。


「何だそれ……めちゃくちゃキツいじゃないですか……。」


「ああ、キツい。どれだけ食べても腹が減る……。」


産後の身体は、膨大なエネルギーを必要とする。生命活動の共有の辛さはあるが、共有できて良かったと心の底から思ってもいた。


「おかげで……俺の食事量は、倍どころじゃない。」


戦場で体を酷使する兵士並みの食事量を、さらに超える量を摂取しなければならなかった。

常に腹が減る。

どれだけ食べても、体が栄養を欲しがる。


そして——それに加えて、赤子の世話 もあった。


「……さらに、こいつだ。」


ヘルムデッセンは、執務机の横の小さな揺りかごに目をやる。


その中には、小さな黒髪の赤子が、すやすやと眠っていた。

先ほどまでぐずっていたが、今はようやく静かになったところだった。


「……この三日間、俺は一睡もしていない。」


ディルプールは、驚きつつも苦笑した。


「はは……赤ちゃんって、やっぱり大変なんですね。」


「泣いたら抱き上げ、寝かせ、また泣く。ミルクをやり、寝かせ、また泣く。」


ヘルムデッセンは目を覆い、もう一度、深く深く溜息をついた。


「……戦場より、きつい。」


「いや、ヘルムデッセン様……そりゃ流石に大げさじゃ……?」


「……いや、マジだ。」


彼は、魂の抜けたような顔で言った。


「俺は今、生きるために戦っている……。」


ディルプールは、思わず肩を震わせる。


「な、何か、すみません……。」


その時——


「う……うぅ……!」


揺りかごから、小さな鳴き声が聞こえた。


ヘルムデッセンは、条件反射で即座に立ち上がる。


「ヘルヴィクトが起きた……!」


彼は目を瞬かせると、慌てて赤子を抱き上げた。


小さな体を慎重に包み込みながら、優しく揺すってやる。


「よしよし……大丈夫だ……。」


ディルプールは、その姿を見て、ふっと笑った。


「……なんだかんだで、父親してますね。」


ヘルムデッセンは、短く息をつく。


「……まぁな。」


腕の中で、ヘルヴィクトが小さな手をぎゅっとヘルムデッセンの指に絡めた。

まだ頼りなく、か細い指先。それなのに、その力は思いのほか強くて——

まるで「俺はここにいる」と訴えかけてくるようだった。


ヘルムデッセンは、そんな息子の仕草をじっと見つめ、自然と口元が緩んだ。


すると、目の前でディルプールが肩をすくめながら、ぽつりと呟いた。


「ヘルムデッセン様の頑張りを、奥様に見せてあげたいですねぇ。」


——その瞬間。


「できますよ。」


不意に、横から聞き慣れた声が割り込んできた。


「うわぁっ!!!」


ディルプールは驚きのあまり後ろに飛び跳ね、思い切り尻餅をついた。


「………って、ケイオスさんか……。」


ディルプールは胸を押さえながら息を整え、ジト目で立っている男を見上げる。

ケイオスは、いつの間にかそこにいた。まるでずっといたかのように、涼しい顔で腕を組んでいる。


「最近……ヘルムデッセン様とケイオスさんが、同一人物に見えてきて……。」


ディルプールは呆れたように言った。


確かに、黒髪と赤い瞳という特徴は、二人の間に妙な共通点を与えている。

ただ、ヘルムデッセンが軍人として鍛え上げられた体躯を持つのに対し、ケイオスは華奢で線が細い。

とはいえ、何かしらの"繋がり"を感じさせるのは事実だった。


ケイオスは、どこか楽しげに微笑んだ。


「少なからず、血のつながりはあるので、そうでしょうね。」


「……血のつながり?」


ヘルムデッセンは、眉をひそめた。


「俺は……母について何も知らないんだが……。ドーラというのも、ヴィーラに言われた通りに言っただけだ。」


彼は無意識にヘルヴィクトをあやしながら、視線を落とした。


「ご安心ください。」


ケイオスの声が穏やかに響く。


「魔法都市ベルノホルンでしか見られない容姿をされています。間違いなく、その血を受け継いでいらっしゃいますよ。」


ヘルムデッセンは無言で息子を見つめた。

ヘルヴィクトの黒髪を撫でながら、自分の記憶を遡る。


——母は、どんな人だっただろうか。


「……俺の母は、テルミラという名前だった。」


ぽつりと、彼は口を開いた。


「黒く長い髪を、いつも三つ編みにしていて……瞳は赤かった。優しそうな目をしていた。」


遠い記憶の中の母は、いつも微笑んでいた。

けれど、はっきりとした顔の輪郭は、もう思い出せない。


「……俺が8歳になった時、母は失踪した。」


握りしめた拳に、僅かに力がこもる。


「それと同時に、俺は戦地へ送られた。」


何があったのかは知らない。

なぜ、母がいなくなったのかも分からない。

けれど——母が消えたその日から、彼の人生は戦いに染まった。


「……特に、魔法なんてものは目にしたことはなかった。」


そう告げた時だった。


「——私の姉は、黒く長い髪を、よく三つ編みにしていました。」


ケイオスの静かな声が、空気を揺らした。


「……っ!」


ヘルムデッセンの心臓が、一瞬跳ね上がる。


驚きと戸惑いに満ちた瞳が、ケイオスをまっすぐに見据える。


「……お前の、姉……?」


ケイオスは、穏やかに頷いた。


「私と姉は……国を抜け出し、世界を見ようとしたんです。」


その言葉は、まるで昔語りのように、淡々と語られた。


「ですが——姉は捕まってしまいました。」


ヘルムデッセンの喉が、かすかに鳴る。


「……捕まった?」


「ええ。私は姉を探すために、この地に住み始めました。」


ケイオスの視線が、窓の外に向かう。


「……と、言っても」

彼は肩をすくめ、淡々とした口調で続ける。


「今の話を聞く限り、姉はもうこの地にはいないようですね。」


そう言って、ふっと息をつく。


「今さら国へ帰るつもりもありません。もし、どこかで見かけた時は——教えてください。」


ヘルムデッセンは、ケイオスの横顔を一瞥し、短く頷いた。


「……わかった。」


その即答に、ケイオスの眉がわずかに動く。


「……何故、私の話をそんなにあっさりと信じられるのですか?」


彼の声には、珍しく感情が滲んでいた。


この世は疑うことが当たり前で、人を簡単に信用するのは愚か者だけだ。

ましてや、突然「自分の母が私の姉だ」と言われれば、普通はもっと慎重になるものだ。


しかし——


ヘルムデッセンは、迷いなく答えた。


「ヴィーラがケイオスは信用しろと言っていた。」


「……!」


「お前しか信用するな、とも言っていた。」


ヘルヴィクトを優しく抱きながら、彼は静かに続ける。


「だから信じる。」


ケイオスは、言葉を失ったように瞠目した。

それは、彼にとって予想外の答えだったのかもしれない。


「……っ!」


微かに唇が震える。

自分を無条件に信じるという言葉を、まさかヘルムデッセンの口から聞くことになるとは——。


しかし、次の瞬間。


「——凄いぞ!」


ヘルムデッセンの声が、ぱっと明るくなった。


「ヴィーは昼間は黄金で、夜は赤だ!」


「……は?」


ケイオスが不意を突かれたようにまばたきをする。

ディルプールも「何を言っているんだ?」と首を傾げた。


「瞳の色だ!」


ヘルムデッセンは、腕の中のヘルヴィクトを誇らしげに持ち上げた。


「見ろ! 昼間の光の下じゃ、黄金に輝く。だけど、夜になれば赤く染まるんだ!」


彼の声には、隠しきれない喜びと興奮が滲んでいた。


確かに——

小さなヘルヴィクトの瞳は、今まさに黄金に輝いている。

まるで母ヴィーラの瞳をそのまま受け継いだかのように。


「それはそれは。」


ケイオスは、驚きながらも、静かに目を細めて微笑んだ。


「珍しい瞳の色ですね。」


その穏やかな言葉に、ヘルムデッセンは満足げに息子を見つめた。


ヘルヴィクトは、きょとんとした顔で父の指を握りしめる。

まるで「自分のことか?」とでも言いたげな、あどけない表情。


それを見て、ヘルムデッセンの表情が、さらに柔らかくなった。


「……そうだな。珍しい、誇るべき瞳だ。」


彼の声は優しく、どこか誇らしげだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ