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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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月日は過ぎ去り、ヴィーラの体が臨月を迎えた頃、ヘルムデッセンの体は見るも無残に痩せ細っていた。

それでも、長年鍛え抜かれた肉体はまだ完全には衰えておらず、皮膚の下にはかすかに浮かぶ筋肉の線が残っている。

肩幅は広いままだが、以前のような圧倒的な威圧感は薄れ、全体的に華奢になっているのが一目で分かった。


それでも——


ヘルムデッセンは、毎日と変わらず執務机に向かい、領地の管理を続けていた。

彼は疲れた様子も見せず、いつも通りの冷静な態度を崩さない。


「ヘルムデッセン様、こちらがその資料です。」


ディルプールが分厚い書類の束を持ってくる。


ヘルムデッセンは、その資料を受け取り、手早く中身に目を通した。


「あぁ、助かる。」


短く言いながら、内容を整理し、手元の書類と照らし合わせる。


しかし——


「…………。」


ディルプールは、それを見つめるだけだった。

まるで、何かを言いたそうに、だが言えないように。


ヘルムデッセンの手元の動きが止まる。


「……お前、それをあと何ヶ月するつもりだ。」


ヘルムデッセンは、書類を机の上に置き、深く溜息をついた。


ディルプールは、一瞬肩を震わせる。

その目には、隠しきれない悲しみが宿っていた。


「申し訳ございません……。」


「お前が謝ることじゃない。」


ヘルムデッセンは、疲れたように目を伏せる。

自分の体がどうなっているのか、自覚がないわけではない。

日に日に痩せ細り、力が抜け落ちていくこの感覚——


「——ッ!!」


突然、廊下の向こうから、勢いよく駆けてくる足音が響いた。


バンッ!!!


扉が勢いよく開かれ、ケイオスが息を切らしながら立っていた。


「——陣痛が始まっている!! こい!!」


瞬間、ヘルムデッセンの体が弾かれたように動いた。


「ッ!!」


椅子を蹴飛ばし、机の上の書類を乱暴に押しのけながら、すぐに扉の外へ駆け出す。

ディルプールが何かを叫んだが、もう耳には入らなかった。


廊下を駆け抜ける。

城の重たい扉を押し開け、石畳の床を強く蹴る。


(ヴィーラ……!!)


胸が締め付けられる。


ここまで、彼女の痛みも苦しみも全て自分が背負うつもりでいた。

だが、実際に陣痛が始まったと聞かされると、恐ろしさがこみ上げる。


(間に合わなかったらどうする……?)


彼女を守るために、どれだけのものを犠牲にしてきたか。

自分の体を差し出し、剣を手放し、それでもまだ足りないのか——?


(神よ……!)


強く歯を噛み締めながら、ヘルムデッセンは寝室の扉を力任せに開け放った。


——そこには、何も変わらぬように静かに横たわるヴィーラの姿があった。


黄金色の瞳が、ぼんやりと開かれている。

だが、意識のない虚ろな目——痛みに顔を歪めることもなく、ただ静かに瞬きを繰り返すだけだった。


「ヴィーラ……!」


駆け寄り、そっと頬を撫でる。


熱い。

確かに彼女の体温はある。

けれど、そこに"彼女の意識"はない。


(こんなに苦しいはずなのに……何も、感じていないのか……。)


心臓が抉られるような感覚だった。


ケイオスがすぐ横に立ち、手早くヴィーラの様子を確認する。


「……魔法をかける。」


「……!」


「隣に眠って、手を繋いでください。」


ヘルムデッセンは、少しだけ迷うようにヴィーラを見つめた。

しかし、すぐに覚悟を決め、靴を脱ぎ、静かにベッドに上がる。


ヴィーラの隣に横たわると、そっと彼女の手を取った。


細く、華奢な手。

かつては領地を切り盛りし、無数の書類を捌き、冷静に指示を飛ばしていた手——


今は、まるで力が入っていない。


「……頼む、ケイオス。」


ヘルムデッセンの声は、かすかに震えていた。


ケイオスは、無言で頷き、両手をゆっくりと掲げる。

彼の指先から、淡い蒼の光がゆっくりと溢れ、空間を満たしていく。


「意識の繋ぎを……始めます。」


魔法陣が浮かび上がり、ルーン文字が淡く輝き始める。


ヘルムデッセンは、最後にヴィーラの顔を見つめた。


——瞬間、激痛が襲った。


「——ッ!!!」


それは、まるで内臓を鋭利な刃物で抉られたような痛みだった。

いや、それよりも深い。骨の髄まで震えるような、これまでに感じたことのない、未知の苦しみ。


(くそっ……何だ、これは……!!)


身体の中で何かが押し広げられる。

筋肉が引き裂かれ、内臓が強引に動かされるような感覚——

戦場で受けたどんな深手とも違う、これまで経験した痛みのどれにも例えられない。


「はぁ……っ、く……!!!」


息をするのも難しいほどの衝撃が全身を駆け巡る。

ヴィーラの身体を借りたとはいえ、これは間違いなく"生身の痛み"だ。


(こんなものが……こんなものが、ヴィーラの中で起こっていたのか……!?)


本では学んだ。

知識としては理解していた。


出産とは、命がけの行為だと。

母体への負担は計り知れず、時には命を落とすこともあると——。


(だが、こんな……こんなことが……!!)


本で得た情報など、まるで意味をなさなかった。


これは戦場の痛みとも違う。

相手の刃が刺さった瞬間の痛みとも、肋骨を折られた時の苦しみとも違う。


——これは、"生きたまま、命を削り取られる"痛みだ。


「——ぐぅッ!!!」


強く拳を握り、歯を食いしばる。

だが、どれだけ耐えようとも、波のように繰り返される陣痛が、それをあざ笑うかのように襲いかかる。


「……っ、は、ぁ……く……!」


視界が揺らぐ。

額から汗が滴り、全身が熱に侵されていく。


「ヘルムデッセン様!! 落ち着いてください!!」


ケイオスの声が遠くに聞こえる。


(落ち着く……だと……? こんな状態で……!!)


「——ハァッ!!!」


声にならない叫びを上げる。

握ったシーツが引き裂かれるほど強く力を込めた。


全身が限界を迎えつつある。

しかし、まだ終わらない。

終わらせられない。


(俺が……俺が必ず……!!)


その瞬間、全身が大きく波打つような感覚が走った。


「……ッ!!」


何かが、下へと押し出される。


(……これが……!!)


痛みがさらに激しくなり、頭が真っ白になりそうになる。

だが、ここで意識を飛ばすわけにはいかない。


「……!!!」


苦しみながら、ケイオスの声を振り払うように叫んだ。


「っ……力を貸せ!! 何でもいい……!!」


ケイオスが何かの呪文を唱え、魔法の光が淡く広がる。

だが、それでも痛みが消えることはなかった。


(……いい。消えなくてもいい……!!)


痛みと共に、今、確かにこの命を迎え入れなければならない。


「——ッ!!!」


最後の力を振り絞り、全身の筋肉を使って"押し出す"。


そして——


「……——おぎゃぁっ……! おぎゃぁっ……!」


張り詰めていた空気が、一瞬にして弾けた。


小さな産声が響き渡る。 それは、苦しみと戦い抜いた果てにようやく掴み取った命の証だった。


「…………っ……!!」


全身の痛みが、波が引くように薄れていく。 だが、放心する暇もなく、ヘルムデッセン——いや、ヴィーラの体に宿る彼の意識は、荒い息をつきながらシーツを強く掴んでいた。


「……お、おめでとうございます……!!男の子ですよ!!」


ケイオスの震えた声が、現実へと引き戻す。


彼の腕の中には、小さな命があった。 生まれたばかりの赤子。 髪は漆黒で、まだ目はしっかりと開いていない。 けれど、か細い手が、空を掴むように動いていた。


「…………。」


ヘルムデッセンは、息を整えながら、その小さな姿を見つめた。


(……これが、俺とヴィーラの子……)


目の前にいるのは、戦場のどんな敵よりも小さく、儚く、そして——尊い存在だった。


彼の瞳が、ゆっくりと涙に滲む。


(生きている……。)


それがどれほど奇跡的なことか、痛みを通じて身をもって知った。


ヴィーラの体を借りて、命を宿し、命を生み出した。 何度も気を失いかけ、何度も挫けそうになり、それでも生み出した、この命。


「……産まれた……のか……。」


呆然としたように、ヘルムデッセンは呟いた。 信じられないような気持ちと、圧倒的な安堵感。 戦場で何度も死線を潜り抜けてきた彼でも、"生きる"ということの重さをこれほどまでに感じたことはなかった。


「……お前が……俺の……」


震える手が、赤子へと伸びる。


その瞬間——


ヴィーラの体が、ふわりと力を抜くように沈み込む。 意識が引き戻される感覚。 ——ヘルムデッセンは、自分自身へと戻っていた。


まるで意識を漂わせていたかのような、奇妙な感覚が残る。 それでも、自分の手が、まだヴィーラの手を握っているのを感じた。


「……ヴィーラ……。」


彼女は、まだ眠ったままだった。 しかし、その頬には、静かに涙が伝っていた。


それは、ヘルムデッセンが流した涙——

けれど、それがまるでヴィーラ自身の涙のように見えた。


彼女もまた、この命の誕生を感じているのだろうか。


赤子が、かすかに指を動かす。 小さな、小さな動き。 それだけなのに——こんなにも胸が熱くなるものなのか。


「……ありがとう。」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


ヴィーラに。 生まれてきた我が子に。 あるいは——まだ何も語らぬ、自分の新たな人生に。

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