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青空の下——
騎士たちの甲冑が、朝陽を受けて鈍く光る。
乾いた土の匂いが漂い、剣と剣が打ち合う音が訓練場に響き渡っていた。
ヘルムデッセンは、その中心に立ち、いつもと変わらぬ鍛錬を続けていた。
午前は、朝食をしっかりと摂り、全身を鍛え上げるために激しい運動を繰り返す。
午後は、昼食を済ませた後、執務室にこもり領地の管理に奔走する。
夜は、またたく間に平らげられる大皿の食事の後、短いながらも確実な睡眠を取る。
何一つ変わらない、変えてはならない日々——
……のはずだった。
しかし——
(……やはり、鈍ってきている。)
剣を振るうたびに、"違和感"が生じる。
筋肉の反応が鈍い。動きにわずかな遅れが生じる。
これまでなら、無意識に動けたはずの"間合い"が、今は一瞬遅れてしまう。
相手の剣を受け止める衝撃が、以前よりも重く感じる。
息が上がる。全身がじわじわと熱を持ち、疲れが蓄積していく。
それでも、歯を食いしばりながら剣を振るった。
(……くそ、どれだけ食べても、どれだけ動いても……)
体の奥から"力"が削がれていく感覚がある。
吸い取られるように、じわじわと、少しずつ。
ヴィーラと生命活動を共有して以来——
自分の体に起こっている"変化"は明らかだった。
体重が減り始め、これまで積み上げてきた筋力が、少しずつ衰えていく。
単純な腕の力だけではない。全身のしなやかさ、瞬発力、持久力——
戦場で生き抜くために必要なすべてが、"ゆっくりと"削がれていく。
——時間の経過とともに、確実に、ゆっくりと"弱くなっている"。
(くそ……!)
剣を強く握りしめる。
指の感覚はまだしっかりとある。
だが、それもどれほど保てるのか——
今はまだ、戦える。
今なら、まだ、動ける。
今のうちに、やるべきことをやらなければならない。
完全に力を失う前に——
(今の俺が持つ"すべて"を、騎士団に叩き込む。)
ヘルムデッセンは、深く息を吸い込んだ。
そして、訓練場を見渡し、目を細める。
訓練に励む騎士たち。
汗を流し、剣を振るい、己の腕を磨く者たち。
(この者たちが、いずれ俺の代わりに領地を守る者たちだ。)
ならば——俺のすべてを、この場に残していく。
「……全員、集まれ。」
鋭い声が響いた。
訓練をしていた騎士たちが、一斉に動きを止める。
ヘルムデッセンは、剣を握り、騎士たちを真っ直ぐに見据えた。
「今日、お前たちと"手合わせ"をする。」
その言葉に、ざわめきが広がる。
「手合わせ……?」
「俺たちと……ヘルムデッセン様が?」
「そんな機会、今までなかったのに……。」
驚きと戸惑いが入り混じる中、ヘルムデッセンは静かに続けた。
「いずれ、俺は剣を振るえなくなるかもしれない。」
その一言で、訓練場は静まり返った。
(やはり、皆、気づいていたか……。)
騎士たちの表情が、驚きから、次第に真剣なものへと変わっていく。
「だからこそ、今のうちに"すべて"をお前たちに教えておく。」
「お前たちは、俺がいなくても領地を守らなければならない。
そのために、俺の技を、戦い方を、できる限り"叩き込む"。」
その言葉に、騎士たちは緊張感を帯びながら、まっすぐ彼を見つめた。
彼の強さを知っている者ほど、その言葉の重みを感じていた。
「まずは——レヴィトン!!」
指名された若き騎士が、驚いたように目を見開くが、すぐに気を引き締め、剣を構える。
踏み込む音とともに、一瞬で距離が縮まる——。
ガキンッ!!
鋼がぶつかり合う鋭い音が響く。
レヴィトンは力任せに剣を振り、勢いよく攻め込むが、ヘルムデッセンは最小限の動きでそれを受け流した。
「……悪くないが、力に頼りすぎだ。」
ヘルムデッセンは、レヴィトンの剣を受け止めながら、すかさず彼の腕の動きを観察する。
「お前の癖は、踏み込みの時に右肩が少し沈むことだ。そのせいで、相手に次の動きが読まれる。」
一瞬、レヴィトンの動きが鈍る。
その隙を逃さず、ヘルムデッセンは彼の剣を弾き飛ばした。
「……クソッ……!」
レヴィトンは悔しそうに唇を噛む。
だが、ヘルムデッセンはそれ以上は言わず、静かに剣を構えた。
「次——ミオータス!」
名を呼ばれた騎士が、緊張した面持ちで前に進み出る。
すぐに構えを取り、ヘルムデッセンに向かって踏み込んだ。
ガンッ!!
剣がぶつかり合い、火花が散る。
ミオータスは素早い動きで連撃を繰り出すが、ヘルムデッセンはそれを軽々と受け止める。
「動きは速いが、肝心なところで迷いがある。」
その一言に、ミオータスの動きが鈍る。
——その瞬間、ヘルムデッセンの剣が彼の脇を掠め、寸止めで止まった。
「戦場では、一瞬の迷いが命取りだ。」
「……っ!」
「しかも、お前は短気で怒りっぽい。頭に血が昇ると冷静さを失う。そこを狙われたら簡単に崩れるぞ。」
ヘルムデッセンの指摘に、周囲の騎士たちが笑いを漏らした。
「次!」
彼の言葉とともに、次々と騎士たちが手合わせを申し込み、剣を交えていった。
それぞれに癖を指摘され、改善点を教え込まれる。
誰もが必死になり、騎士たちの表情は真剣そのものだった。
――——————
―――――
訓練場に乾いた風が吹き抜ける。
夕陽がゆっくりと傾き、騎士たちの甲冑が赤く染まる頃——
ヘルムデッセンは最後の名を呼んだ。
「……ディルプール。」
「え!? お、俺ですか?」
ディルプールは、驚愕の声を上げた。
彼の役目は主君の補佐、戦場ではなく、書類や交渉、そしてふざけた冗談で場を和ませることだった。
戦うことが本職ではない自分が、なぜ最後に選ばれたのか。
戸惑いと動揺が、彼の顔に浮かぶ。
しかし、ヘルムデッセンの瞳には、揺るぎない何かが宿っていた。
まるで、未来を見据えているかのように——。
「こい。」
その言葉は、ただの命令ではなかった。
彼への"期待"と、"決意"が込められていた。
ディルプールは、一瞬だけ逡巡する。
だが、深く息を吐き、剣を握りしめた。
「……わかりました。」
そして——
二人の最後の戦いが始まった。
ガキンッ! ギィンッ!!
鋼と鋼が激しくぶつかり合い、空気が震えた。
予想に反し、ディルプールの剣は鋭く、重かった。
ヘルムデッセンは、その一撃を受け止めながら、僅かに目を見開いた。
(流石……俺の側近を務めるだけの実力がある。)
普段の彼は、冗談ばかりを口にし、戦いの場では一歩引いた位置にいることが多かった。
だが、今目の前にいるのは、迷いも遠慮もない剣士だった。
「はっ……!!」
ディルプールが大きく踏み込み、剣を振るう。
その動きには、明確な"勝つための意志"があった。
ヘルムデッセンは受け流しながら、彼の瞳を見据える。
「お前の父……かつて王室騎士団長を務めたディルネスは……俺のために全てをかけてくれた。」
ディルプールの剣の軌道が、一瞬だけ揺らいだ。
その隙を突いて、ヘルムデッセンは剣をねじ込む。
しかし、ディルプールは咄嗟に踏み込み、相殺するように剣を合わせた。
「俺を生かすために、全てを叩き込んでくださった。」
ディルプールの呼吸が乱れる。
「まだ8歳だった俺を連れて、この地で……剣を振るってくれた。」
その言葉に、ディルプールの目が揺れる。
父の話を直接聞くことは、彼にとっても重いものだった。
「その息子であるディルプールは……俺を超える天才になる素質がある。」
「……っ!!」
ディルプールの剣が、一瞬だけ加速した。
それはまるで、"答えようとする意志"のように、鋭く。
力強く。
「お前にしか、俺を越えられない。」
その言葉は、ディルプールの胸を突き刺した。
——涙が、こぼれた。
「——ッ!!」
彼は歯を食いしばり、感情を剣に乗せる。
ヘルムデッセンもまた、それを正面から受け止める。
乾いた風が吹く中、
二人の剣が、幾度も幾度も交錯する。
(お前は強い。……認めてやるよ、ディルプール。)
ヘルムデッセンは、腕に最後の力を込める。
しかし——
バシュッ!!
彼の剣が、宙を舞った。
——決着がついた。
剣が地面に突き刺さる音が、静かに響く。
訓練場にいた騎士たちは、息を呑んだ。
ディルプールは、肩で息をしながら、それでもヘルムデッセンをまっすぐに見つめていた。
——涙を流しながらも、立ち続ける。
その姿を見たヘルムデッセンは、ゆっくりと剣を拾い上げると、ディルプールの肩を軽く叩いた。
「……お前が、俺の剣を受け継げ。」
ディルプールは、震える手で剣を握りしめる。
涙が頬を伝い、こぼれ落ちる。
「……はいっ……!!」
声が震えていた。
ヘルムデッセンは、そんな彼の姿を見つめながら、静かに微笑んだ。
(……お前になら、安心して託せる。)
訓練場に、静かな風が吹き抜ける。
この瞬間——
ヘルムデッセンの"最後の剣"は、確かに受け継がれたのだった。
——と、感動的な余韻に浸る間もなく、突然、渋い声が響いた。
「おいおい、儂はまだ死んでおらんぞ。」
ヘルムデッセンが落とした剣を拾い、のっそりと歩み寄る男——
ディルプールの父、ディルネスだった。
「……師匠。」
ヘルムデッセンが目を細めると、ディルネスはにやりと笑いながら剣を手渡した。
「ほれ、落とし物だ。まだ儂にゃ教えることはない、って顔しとるが……」
さらに、その後ろから、もう一人の男が現れる。
「おいおい、冷てぇのう! わしらとも手合わせせんか!」
ロートが、にやりと笑いながら肩を回している。
「若い奴らばかりでずるいじゃろ!」
「……いえ、しかし……師匠やロートには私から教えられることは……」
ヘルムデッセンが言いかけると——
「はっ! ほざくな、ヘルムデッセン!」
ディルネスがバシッと彼の背中を叩いた。
「儂らはまだまだ現役よ。老いぼれ扱いするんじゃねぇぞ。」
「そうそう! わしらの方が、まだまだお前に教えられることがあるわ!」
ロートが腕を組み、誇らしげに胸を張る。
ヘルムデッセンは、軽く溜息をついた。
(……この二人に敵う気がしないな……。)
だが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「……分かりました。」
こうして、夜まで手合わせは続いたのだった。




