㊶
三ヶ月後——
朝焼けが、デュークデイモン城を照らしていた。
ヘルムデッセンは、いつものように鍛錬場に立っていた。
ここ三ヶ月間、彼はヴィーラと魔法で繋がれたことで、通常の二倍の食事を摂り、二倍の運動をこなしてきた。
午前中は全て運動に費やし、午後には執務をこなし、領地の管理にも奔走している。
——だが、疲れが抜けない。
これまでなら、戦場で数日間寝ずに戦っても体に支障は出なかった。
だが、今は違う。
全身が重い。
どれだけ食べても腹が満たされない。
どれだけ休息を取っても、疲労が抜けない。
(……くそ、何かがおかしい……。)
自分の体に違和感を覚えつつも、ヘルムデッセンは剣を振るう。
鍛え抜かれた筋肉はまだ反応するが、その感覚に微かな違和感があった。
(……いつもより、体のキレが鈍い……。)
小さく息を吐き、訓練を終えると、彼は城の一階にある食堂へ向かった。
この食堂は、民間の者たちも利用できるようになっており、領内の騎士や側近たちも、身分差なく食事をとることができる場所だった。
食堂に入ると、すでに騎士たちや使用人が食事をしていた。
「おお!ヘルムデッセン様!」
「今日も運動してたんですね!」
「さすがです!」
彼らの言葉に軽く手を上げ、ヘルムデッセンは空いている席に座る。
目の前には、山盛りの料理が並べられた。
パン、スープ、肉のグリル、野菜の炒め物。
どれも栄養価の高いものばかりだ。
「……いただこう。」
ヘルムデッセンは無言で食べ始めた。
一口、二口——
手が止まらない。
食べても、食べても——満たされない。
周囲の騎士たちが、その食べっぷりを驚いたように見ている中、ディルプールが向かいの席に座り、呆れたように言った。
「……なんだか、すごく疲れてますね。」
ヘルムデッセンは、噛み締めた肉を飲み込みながら、小さく息をついた。
「あぁ……このところ、疲れやすくてな……。」
彼は、スープを一気に飲み干し、テーブルに置く。
「食べても、食べても腹がいっぱいにならない……。」
「……うわ。」
ディルプールが肩をすくめた。
「何それ、超怖いんですけど。ヘルムデッセン様の口から、そんな繊細な悩みが出るなんて……。」
騎士たちも、苦笑しながら彼を見つめていた。
普段、豪快で豪胆な彼が「疲れやすい」などと漏らすこと自体が異例だったのだ。
その様子を、じっと観察していた者がいた。
「——ちょっと、よろしいですか?」
テーブルの端で腕を組んでいたケイオスが、ゆるく微笑みながら声をかけた。
ヘルムデッセンは、彼の視線に気づくと、スプーンを置き、静かに頷いた。
「……分かった。」
ケイオスは、さも予想していたかのように、軽く息をつくと立ち上がる。
「では、少し移動しましょう。ヴィーラティーナ様の寝室へ。」
ヘルムデッセンは黙って立ち上がり、ケイオスの後に続く。
ディルプールは「え?何?何かヤバいの?」と騎士たちと顔を見合わせたが、ヘルムデッセンの背中があまりに真剣だったため、誰もそれ以上何も言わなかった。
城の廊下を歩きながら、ヘルムデッセンは微かに拳を握る。
◇◆◇◆◇
寝室——
扉がゆっくりと開かれ、ヘルムデッセンはケイオスの後について寝室に入った。
そこには、いつものように静かに眠るヴィーラがいた。
陽の光に照らされた金髪が、枕の上にふわりと広がっている。
ヘルムデッセンは彼女のそばに立ち、無意識に手を伸ばそうとした——が、その前にケイオスが近づいた。
「では、診察を始めましょう。」
そう言って、ケイオスはヴィーラの服に手をかけた。
——くしゃっ
布が柔らかく折れ、襟元が少しずらされる。
「お、おい!!」
ヘルムデッセンの赤い瞳が怒りに燃えた。
「……何をするつもりだ!!」
咄嗟にケイオスの手を止めようとする。
だが、ケイオスはちらりと彼を見上げ、まるで「何を大騒ぎしているんですか?」と言わんばかりに肩をすくめた。
「診察ですよ。」
あくまで冷静に、淡々とした口調で言い放つ。
「だから、ヘルムデッセン様を呼んだのです。」
「くっ……。」
ヘルムデッセンは歯を食いしばる。
(……そうだ。診察だ。)
心の中で自分に言い聞かせ、無理やり拳を開いた。
しかし、ヴィーラの肌が露になるのを直視するのが妙に躊躇われる。
ケイオスは、まるで日常の作業のように、ヴィーラの腹部に手を当て、ゆっくりと指でなぞるように触診を始めた。
同時に、彼の指先から薄い蒼の光がふわりと広がる。
「診察魔法——」
静かに呟くと、その光はヴィーラの体へと浸透していき、腹部を中心にゆっくりと波紋のように広がっていく。
ヘルムデッセンは、その光をじっと見つめた。
ケイオスの手の動きに合わせて、ヴィーラの体の内部が魔法の光によって映し出される。まるで水面に映る幻影のように、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。
(……なんだ、これは……?)
ヘルムデッセンは、目を凝らす。
すると——
「……やっかいなことになりましたね。」
「っ!? 何がだ!?」
ヘルムデッセンは反射的に詰め寄った。
ケイオスは軽く息を吐き、彼をまっすぐ見つめる。
「ヴィーラティーナ様は……妊娠しておられます。」
——雷が走ったような衝撃を受けた。
「……!」
言葉が出なかった。
頭の奥で何かが弾け、意識がぐらつく。
(妊娠……? ヴィーラが……?)
ケイオスは、ヘルムデッセンの表情を冷静に観察しながら続ける。
「先日からヘルムデッセン様のご様子がおかしかったので、もしやと思いましたが……やはり、ですね。」
「……こんな状態で、子を産めるのか?」
ヘルムデッセンは、低く絞り出すように問うた。
その声には、不安と焦燥、そして強烈な恐怖が滲んでいた。
ケイオスは、しばらく考えるように瞼を閉じた後、ゆっくりと答えた。
「………正直、現代の医学では難しいかと。」
「っ……!」
——ゴンッ!!!
瞬間、ヘルムデッセンの拳が壁を殴りつけた。
鈍い音が響き、木製の扉に亀裂が入る。
部屋が沈黙に包まれた。
ヘルムデッセンは荒い息を吐き、拳を開いたまま壁に額を押し付ける。
(そんな……ヴィーラの体が……ヴィーラの命が……。)
目の前が暗くなる。
何もかもが、崩れ落ちそうな気がした。
「……方法がないわけではありません。」
ケイオスの声が、その絶望に差し込むように響く。
ヘルムデッセンは、ハッと顔を上げた。
「ほんとか!?」
目の奥に、強い光が灯る。
「なんでもする! 言ってくれ!!」
ケイオスは、そんな彼の必死の表情を見つめた後、静かに口を開いた。
「ヘルムデッセン様の意識を、ヴィーラティーナ様に移し——」
「…………。」
「あなたが、産むのです。」
その言葉が、静かに室内に響いた。
ヘルムデッセンは、言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「……俺が……?」
「ええ。」
ケイオスは真剣な表情で頷く。
「魔法で意識を入れ替え、ヴィーラティーナ様の体を"あなたの意識で動かす"のです。」
ヘルムデッセンは深く息を吸い、じっとヴィーラの眠る姿を見つめる。
「……そんなことが可能なのか?」
「可能です。」
ケイオスは静かに頷き、ヴィーラの顔にそっと手をかざす。指先から淡い蒼の光が滲み、彼女の肌に溶けるように吸い込まれていった。
「ですが、この方法には大きな代償があります。」
「代償……?」
ヘルムデッセンが眉をひそめると、ケイオスは一歩踏み込み、真っ直ぐ彼を見据えた。
「あなたがこのまま彼女の体を宿し、子を育むということは——」
魔力がふわりと揺らめく。
「それと引き換えに、あなたの筋力は異常に低下し、今ほどの力を出せない体になるということです。」
ヘルムデッセンの目がわずかに揺れた。
「……それは……」
「戦士であるあなたには想像しづらいでしょうが、妊娠とは、体のすべてを使って命を育む行為です。」
ケイオスは自分の腕をゆっくりとさすりながら言葉を続けた。
「その間、あなたの体は常に養分を取られ、筋肉は痩せ細り、身体能力は大幅に落ちる。鍛え直せばある程度は戻るでしょうが……今のような圧倒的な強さを取り戻すには、また長い年月が必要になるでしょう。」
ヘルムデッセンの眉間に深い皺が刻まれる。
「つまり、戦場には二度と立てないかもしれない、ということか。」
「ええ。これまでのような身体能力は、毎日の努力で築き上げたもの。その努力を放棄せざるを得ない今、すぐに戻るとは思わないほうがいいでしょう。」
ケイオスの言葉は淡々としていた。だが、それは"どうするかはあなた次第"だという意味を含んでいた。
ヘルムデッセンは、握りしめた拳をゆっくりと開く。
自分の腕をじっと見つめた。
この腕は、これまでに幾度も剣を振るい、血に塗れながら戦ってきた。
戦場で無数の敵を屠り、領地を守るために振るわれた力。
この体こそが、自分のすべてだった。
——だが、それを失うことになる。
戦場に戻れない体。
剣を振るえない体。
かつてのように、力で敵をねじ伏せることもできないかもしれない。
それでも——
(そんなこと……どうでもいい。)
ヘルムデッセンは、ヴィーラの顔を見つめた。
眠る彼女の静かな寝息を聞きながら、ふっと目を伏せる。
(剣が振るえなくなったところで……こいつがいない世界のほうが、よっぽど空っぽだ。)
ヘルムデッセンはゆっくりと拳を握り、そしてケイオスを見た。
「……それでも、やる。」
その瞳には、迷いがなかった。
ケイオスは、そんな彼の姿をじっと見つめ——そして、静かに微笑んだ。




