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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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41/53

三ヶ月後——

朝焼けが、デュークデイモン城を照らしていた。


ヘルムデッセンは、いつものように鍛錬場に立っていた。


ここ三ヶ月間、彼はヴィーラと魔法で繋がれたことで、通常の二倍の食事を摂り、二倍の運動をこなしてきた。

午前中は全て運動に費やし、午後には執務をこなし、領地の管理にも奔走している。


——だが、疲れが抜けない。


これまでなら、戦場で数日間寝ずに戦っても体に支障は出なかった。

だが、今は違う。


全身が重い。

どれだけ食べても腹が満たされない。

どれだけ休息を取っても、疲労が抜けない。


(……くそ、何かがおかしい……。)


自分の体に違和感を覚えつつも、ヘルムデッセンは剣を振るう。

鍛え抜かれた筋肉はまだ反応するが、その感覚に微かな違和感があった。


(……いつもより、体のキレが鈍い……。)


小さく息を吐き、訓練を終えると、彼は城の一階にある食堂へ向かった。


この食堂は、民間の者たちも利用できるようになっており、領内の騎士や側近たちも、身分差なく食事をとることができる場所だった。


食堂に入ると、すでに騎士たちや使用人が食事をしていた。


「おお!ヘルムデッセン様!」


「今日も運動してたんですね!」


「さすがです!」


彼らの言葉に軽く手を上げ、ヘルムデッセンは空いている席に座る。

目の前には、山盛りの料理が並べられた。


パン、スープ、肉のグリル、野菜の炒め物。

どれも栄養価の高いものばかりだ。


「……いただこう。」


ヘルムデッセンは無言で食べ始めた。


一口、二口——

手が止まらない。


食べても、食べても——満たされない。


周囲の騎士たちが、その食べっぷりを驚いたように見ている中、ディルプールが向かいの席に座り、呆れたように言った。


「……なんだか、すごく疲れてますね。」


ヘルムデッセンは、噛み締めた肉を飲み込みながら、小さく息をついた。


「あぁ……このところ、疲れやすくてな……。」


彼は、スープを一気に飲み干し、テーブルに置く。


「食べても、食べても腹がいっぱいにならない……。」


「……うわ。」


ディルプールが肩をすくめた。


「何それ、超怖いんですけど。ヘルムデッセン様の口から、そんな繊細な悩みが出るなんて……。」


騎士たちも、苦笑しながら彼を見つめていた。

普段、豪快で豪胆な彼が「疲れやすい」などと漏らすこと自体が異例だったのだ。


その様子を、じっと観察していた者がいた。


「——ちょっと、よろしいですか?」


テーブルの端で腕を組んでいたケイオスが、ゆるく微笑みながら声をかけた。


ヘルムデッセンは、彼の視線に気づくと、スプーンを置き、静かに頷いた。


「……分かった。」


ケイオスは、さも予想していたかのように、軽く息をつくと立ち上がる。


「では、少し移動しましょう。ヴィーラティーナ様の寝室へ。」


ヘルムデッセンは黙って立ち上がり、ケイオスの後に続く。

ディルプールは「え?何?何かヤバいの?」と騎士たちと顔を見合わせたが、ヘルムデッセンの背中があまりに真剣だったため、誰もそれ以上何も言わなかった。


城の廊下を歩きながら、ヘルムデッセンは微かに拳を握る。


◇◆◇◆◇


寝室——

扉がゆっくりと開かれ、ヘルムデッセンはケイオスの後について寝室に入った。


そこには、いつものように静かに眠るヴィーラがいた。

陽の光に照らされた金髪が、枕の上にふわりと広がっている。


ヘルムデッセンは彼女のそばに立ち、無意識に手を伸ばそうとした——が、その前にケイオスが近づいた。


「では、診察を始めましょう。」


そう言って、ケイオスはヴィーラの服に手をかけた。


——くしゃっ


布が柔らかく折れ、襟元が少しずらされる。


「お、おい!!」


ヘルムデッセンの赤い瞳が怒りに燃えた。


「……何をするつもりだ!!」


咄嗟にケイオスの手を止めようとする。


だが、ケイオスはちらりと彼を見上げ、まるで「何を大騒ぎしているんですか?」と言わんばかりに肩をすくめた。


「診察ですよ。」


あくまで冷静に、淡々とした口調で言い放つ。


「だから、ヘルムデッセン様を呼んだのです。」


「くっ……。」


ヘルムデッセンは歯を食いしばる。


(……そうだ。診察だ。)


心の中で自分に言い聞かせ、無理やり拳を開いた。

しかし、ヴィーラの肌が露になるのを直視するのが妙に躊躇われる。


ケイオスは、まるで日常の作業のように、ヴィーラの腹部に手を当て、ゆっくりと指でなぞるように触診を始めた。


同時に、彼の指先から薄い蒼の光がふわりと広がる。


診察魔法インスペクション——」


静かに呟くと、その光はヴィーラの体へと浸透していき、腹部を中心にゆっくりと波紋のように広がっていく。


ヘルムデッセンは、その光をじっと見つめた。


ケイオスの手の動きに合わせて、ヴィーラの体の内部が魔法の光によって映し出される。まるで水面に映る幻影のように、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。


(……なんだ、これは……?)


ヘルムデッセンは、目を凝らす。


すると——


「……やっかいなことになりましたね。」


「っ!? 何がだ!?」


ヘルムデッセンは反射的に詰め寄った。


ケイオスは軽く息を吐き、彼をまっすぐ見つめる。


「ヴィーラティーナ様は……妊娠しておられます。」


——雷が走ったような衝撃を受けた。


「……!」


言葉が出なかった。


頭の奥で何かが弾け、意識がぐらつく。


(妊娠……? ヴィーラが……?)


ケイオスは、ヘルムデッセンの表情を冷静に観察しながら続ける。


「先日からヘルムデッセン様のご様子がおかしかったので、もしやと思いましたが……やはり、ですね。」


「……こんな状態で、子を産めるのか?」


ヘルムデッセンは、低く絞り出すように問うた。


その声には、不安と焦燥、そして強烈な恐怖が滲んでいた。


ケイオスは、しばらく考えるように瞼を閉じた後、ゆっくりと答えた。


「………正直、現代の医学では難しいかと。」


「っ……!」


——ゴンッ!!!


瞬間、ヘルムデッセンの拳が壁を殴りつけた。


鈍い音が響き、木製の扉に亀裂が入る。


部屋が沈黙に包まれた。


ヘルムデッセンは荒い息を吐き、拳を開いたまま壁に額を押し付ける。


(そんな……ヴィーラの体が……ヴィーラの命が……。)


目の前が暗くなる。

何もかもが、崩れ落ちそうな気がした。


「……方法がないわけではありません。」


ケイオスの声が、その絶望に差し込むように響く。


ヘルムデッセンは、ハッと顔を上げた。


「ほんとか!?」


目の奥に、強い光が灯る。


「なんでもする! 言ってくれ!!」


ケイオスは、そんな彼の必死の表情を見つめた後、静かに口を開いた。


「ヘルムデッセン様の意識を、ヴィーラティーナ様に移し——」


「…………。」


「あなたが、産むのです。」


その言葉が、静かに室内に響いた。


ヘルムデッセンは、言葉の意味を理解するのに数秒を要した。


「……俺が……?」


「ええ。」


ケイオスは真剣な表情で頷く。


「魔法で意識を入れ替え、ヴィーラティーナ様の体を"あなたの意識で動かす"のです。」


ヘルムデッセンは深く息を吸い、じっとヴィーラの眠る姿を見つめる。


「……そんなことが可能なのか?」


「可能です。」


ケイオスは静かに頷き、ヴィーラの顔にそっと手をかざす。指先から淡い蒼の光が滲み、彼女の肌に溶けるように吸い込まれていった。


「ですが、この方法には大きな代償があります。」


「代償……?」


ヘルムデッセンが眉をひそめると、ケイオスは一歩踏み込み、真っ直ぐ彼を見据えた。


「あなたがこのまま彼女の体を宿し、子を育むということは——」


魔力がふわりと揺らめく。


「それと引き換えに、あなたの筋力は異常に低下し、今ほどの力を出せない体になるということです。」


ヘルムデッセンの目がわずかに揺れた。


「……それは……」


「戦士であるあなたには想像しづらいでしょうが、妊娠とは、体のすべてを使って命を育む行為です。」


ケイオスは自分の腕をゆっくりとさすりながら言葉を続けた。


「その間、あなたの体は常に養分を取られ、筋肉は痩せ細り、身体能力は大幅に落ちる。鍛え直せばある程度は戻るでしょうが……今のような圧倒的な強さを取り戻すには、また長い年月が必要になるでしょう。」


ヘルムデッセンの眉間に深い皺が刻まれる。


「つまり、戦場には二度と立てないかもしれない、ということか。」


「ええ。これまでのような身体能力は、毎日の努力で築き上げたもの。その努力を放棄せざるを得ない今、すぐに戻るとは思わないほうがいいでしょう。」


ケイオスの言葉は淡々としていた。だが、それは"どうするかはあなた次第"だという意味を含んでいた。


ヘルムデッセンは、握りしめた拳をゆっくりと開く。


自分の腕をじっと見つめた。


この腕は、これまでに幾度も剣を振るい、血に塗れながら戦ってきた。


戦場で無数の敵を屠り、領地を守るために振るわれた力。


この体こそが、自分のすべてだった。


——だが、それを失うことになる。


戦場に戻れない体。

剣を振るえない体。

かつてのように、力で敵をねじ伏せることもできないかもしれない。


それでも——


(そんなこと……どうでもいい。)


ヘルムデッセンは、ヴィーラの顔を見つめた。


眠る彼女の静かな寝息を聞きながら、ふっと目を伏せる。


(剣が振るえなくなったところで……こいつがいない世界のほうが、よっぽど空っぽだ。)


ヘルムデッセンはゆっくりと拳を握り、そしてケイオスを見た。


「……それでも、やる。」


その瞳には、迷いがなかった。


ケイオスは、そんな彼の姿をじっと見つめ——そして、静かに微笑んだ。

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