㊵
城の三階、ヴィーラティーナはゆるやかに揺れる椅子に座らせてもらっていた。
窓の外では夕陽が地平線へと沈み、辺境の空を赤く染め上げている。
だが、彼女の瞳はその美しさを捉えることはない。
ただ、ぼんやりと前を見つめ、まるで魂の抜けた人形のように微動だにしなかった。
「……ほんとに、自我を眠らされているようですね。」
ケイオスは、ヴィーラの瞳を覗き込み、彼女の腕にそっと触れる。
脈を測りながら、静かに呟いた。
「……やはり、王家の宝物庫の魔法の水か……」
低く言いながら、指先を軽く弾く。
ふわりと薄青い魔力がヴィーラの体を包むが、彼女は相変わらず何の反応も示さない。
「……やれやれ。」
ケイオスは肩をすくめると、ヘルムデッセンを振り返った。
「薬を作るのに……最低でも1年はかかります。」
「——1年!?」
ヘルムデッセンの赤い瞳が、大きく見開かれた。
1年。
それはあまりにも長すぎる時間だった。
だが——
「……だが、治るんだな!?」
まるで祈るように、ヘルムデッセンは問い詰める。
ケイオスは、少しだけ口角を上げ、静かに頷いた。
「ええ、お任せください。」
「…………。」
ヘルムデッセンの喉が、僅かに震える。
力強く握りしめていた拳が、少しだけ緩む。
「良かった……」
彼は、ぐっと息を詰まらせた。
胸の奥が、熱くなる。
視界がにじむ。
(……本当に、良かった……。)
彼は何度も何度も、心の中で繰り返した。
ヴィーラは——助かる。
長い時間がかかるとしても、彼女は帰ってくる。
その確信だけで、体の力が一気に抜けそうになった。
しかし——
「ただし。」
ケイオスの声が、室内の空気を引き締める。
「薬を飲ませてから、回復するまでに数ヶ月はかかります。」
「……そうか……。」
ヘルムデッセンは深く息を吐いた。
「ヴィーラが目覚めるなら、なんでもかまわない。」
その言葉に、ケイオスは僅かに目を細めた。
「……なるほど、あなたは本当にヴィーラティーナ様を大事にされているのですね。」
彼の声はどこか含みのあるものだったが、ヘルムデッセンはそれを気に留める余裕などなかった。
「ただし——」
ケイオスは、ひょいと自分の指を持ち上げ、軽く魔法を発動する。
「ヴィーラティーナ様をこの状態のまま放置しておくと、筋力の低下、内臓機能の衰弱、その他諸々の影響が出てしまいます。」
「……!」
ヘルムデッセンの表情が険しくなる。
「そこで、ヘルムデッセン様。」
ケイオスは、僅かに微笑みながら続けた。
「あなたとヴィーラティーナ様を魔法で繋げ、筋力や体に必要な栄養素を"共有"させるという手があります。」
「……共有?」
「はい。あなたが食事を摂れば、それがヴィーラティーナ様の栄養にもなる。あなたが運動をすれば、彼女の筋力の衰えを防ぐことができる。つまり——」
ケイオスは、ニヤリと笑って言った。
「あなたは"二人分"食事をし、"二人分"運動をしなければならない、ということです。」
「……!!」
ヘルムデッセンの喉が、ごくりと鳴る。
それはつまり——
・一度の食事で倍の量を食べる。
・毎日、自分の分だけでなく、ヴィーラの分の訓練をこなす。
(……なかなか、無茶な話だな。)
ヘルムデッセンは、低く息を吐きながら、自分の手を見下ろした。
普段の食事でも、戦場に出る兵士たちよりも多く食べる。
その倍となると、尋常ではない量だ。
さらに、剣の訓練、走り込み、筋力トレーニング……
すべてを今までの"二倍"こなさなければならない。
だが——
「……やれるか?」
ケイオスは、じっと彼を見つめながら問いかけた。
「かなりキツイですよ、それでも頑張れますか?」
ヘルムデッセンは、拳を握りしめる。
この程度で怯んでいる場合ではない。
この程度で弱音を吐いている場合ではない。
ヴィーラは、ずっと戦ってきた。
貴族社会の偏見と、領地の困難と、そして命を狙われる数々の脅威と——
"この三年間も、戦い続けていた"のだ。
それに比べれば、こんなこと……
「問題ない。」
迷いなく答える。
ヘルムデッセンは、強く拳を握り、赤い瞳に力を宿した。
「俺が、ヴィーラを支える。」
それが、自分にできる"唯一の戦い"だから。
ケイオスは、彼の決意を見定めるように目を細めると——
「では、契約の準備をいたしましょう。」
ケイオスが静かに指を鳴らすと、その音を合図に——
光が生まれた。
床一面に淡い蒼の魔法陣が広がり、空間が静かに震える。
柔らかな光が揺れ、幾重もの神聖な紋様が浮かび上がると、まるで天上の祝福が降り注ぐかのようだった。
ヘルムデッセンは、自然と息を呑む。
その中心に、ヴィーラがいた。
まるで光の中に眠る聖女のように、穏やかな表情を浮かべながら——静かにそこに在る。
「——血肉を分け与え、共に生きるものとする。」
ケイオスの声が、荘厳な鐘の音のように響いた。
「汝の鼓動は二つの命を巡らせ、汝の力は二つの体を繋ぐものなり。」
光がひとつの輪となり、ゆっくりと回転し始める。
魔法陣の中心から溢れる蒼の輝きが、ヴィーラを包み込み、優しく彼女の輪郭をなぞるように浸透していく。
——その瞬間。
ヴィーラの頬に、かすかな紅が灯った。
(……本当に、これでヴィーラと"繋がる"のか……。)
ヘルムデッセンは、無意識に拳を握る。
心臓が高鳴る音が、まるで空間にまで響いているかのようだった。
「無より有を生み、ひとつの力をふたつの器に分かつ。」
ケイオスの詠唱とともに、魔法陣が輝きを増し、その光は静かに収束していく。
淡い蒼の光が、ヴィーラの胸元へと流れ込み、彼女の身体を優しく浄めるように輝いた。
同時に——
ヘルムデッセンの胸にも、同じ光が灯る。
それは、温かくもあり、どこか神秘的な感覚だった。
(ヴィーラと……繋がった……。)
光がゆっくりと消え、部屋の静寂が戻る。
ヘルムデッセンは、そっと目を伏せ、ヴィーラの手を取った。
彼女の温もりを、確かに感じる。
「……なんだか……いいな。」
ぽつりと呟く。
「ヴィーラが……俺と一緒にいる気がする。」
胸の奥が、熱くなった。
目の前のヴィーラは何も応えない。
けれど——彼女が確かに"生きている"と実感できる。
それだけで、十分だった。
ケイオスは、ふっと微笑み、指をひらりと振る。
「では、しばらくここに滞在し、調剤を始めます。」
「頼んだ。」
ヘルムデッセンは、静かに立ち上がると、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
「必要なものは、こちらで揃える。」
ケイオスはその羊皮紙を受け取り、軽く顎に手を当てながら目を通す。
「ふむ……魔法薬の素材は揃えられそうですね。ただ、希少なものも含まれています。調達に時間がかかるかもしれませんが——」
「問題ない。」
ヘルムデッセンの声は、力強かった。
「どんなものでも用意する。どれだけかかっても、どれほど困難でも……ヴィーラを取り戻せるなら、俺は何でもする。」
その瞳には、迷いがなかった。
ケイオスは、目を細める。
「……では、準備に取り掛かりましょう。」
彼はそう言うと、軽く指を鳴らし、背後の鞄がふわりと宙に浮いた。
魔法で整理された薬草や器具がすぐに机の上へと並べられていく。
それを見つめながら、ヘルムデッセンは静かに拳を握った。
(待っていろ、ヴィーラ。)
彼は、決して諦めない。
どれだけ時間がかかっても、どれだけ試練があろうとも——
必ず、彼女を取り戻す。
その決意とともに、部屋の中に魔法の光が淡く灯り続けていた——。
―――――――――
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王宮の最上階——
豪奢な調度品が並ぶ広間に、第一王子デヘリム・イーデュルスの怒声が響いた。
「は、話が違うじゃないか! 少し眠るだけだったんじゃなかったのか!?」
彼の顔は青ざめ、荒い息を吐いている。
震える手で机を叩きつけると、積まれた文書が無造作に散らばった。
目の前に立つのは、金髪の長髪を持つ美貌の男。
彼は王子の激昂をものともせず、涼やかに微笑んでいた。
「そのはずだったのですが……」
男はゆっくりと首をかしげる。
「何年も保管されているうちに、劣化でもしたのでしょうか……。」
まるで他人事のような口ぶりだった。
デヘリムは苦々しく歯を噛みしめ、額に滲む汗を拭う。
「ふざけるな! 何日も眠ったままだって……」
「このままじゃ……アイツに殺されるかもしれない……!」
"アイツ"——
ヘルムデッセン・デュークデイモン。
王国最強の軍人であり、戦場で"鬼神"と恐れられる男。
その彼から、妻を奪い、眠らせたのだ。
(もし、アイツが本気で怒り狂ったら……)
想像するだけで、全身が冷たくなる。
すると——
「落ち着いてください。」
男が、優雅な仕草で手を掲げる。
「私がここにいる限り、ヘルムデッセンは何もしてきませんよ。」
デヘリムの目が揺れた。
「ほ、本当か……?」
「ええ、デヘリム様。」
ヴィトーは微笑みながら、そっと彼の肩に手を置いた。
「このヴィトーを、信じてください。」
彼の金眼が、妖しく揺らめく。
デヘリムの心臓が、ドクンと跳ねた。
(信じていいのか……?)
——だが、それ以外に、選択肢はなかった。




