④
すっかり短髪になり、見た目だけは紳士的になったヘルムデッセン。
彼は鏡の前に立ち、嬉しそうに何度も髪型を確認していた。短くなった黒髪を軽く手で梳かし、慣れない感触に戸惑いながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべている。
「ヘル、ちゃんと勉強も頑張ってくださいね。」
ヴィーラが釘を刺すように言うと、ヘルムデッセンはビクリと背筋を伸ばし、少し照れ臭そうに頷いた。
「わ、わかった!頑張る!」
その素直な返事があまりにも子供っぽくて、ヴィーラは思わず微笑んでしまう。
(なんだか本当に子供みたいね……)
ふと視線を落とすと、近くの小皿にカラフルな飴が置かれていた。
ヴィーラはそれを指でつまむと、軽く背伸びをして、ヘルムデッセンの口元へと押し込んだ。
「んむっ!?……甘いな!なんて食い物だ?」
突然のことに驚きながらも、口の中でころころと飴を転がし、驚いたような顔をするヘルムデッセン。
「飴ですよ。」
「飴!」
まるで新しい武器を発見したかのように、その言葉を繰り返す。
「はじめて食った!」
その純粋な反応に、ヴィーラはくすっと笑う。
「さぁ、お勉強へ行ってください!」
「わかった!」
ヘルムデッセンは大きく頷くと、執事と共に勉強のために部屋へ向かった。
彼の後ろ姿を見送ったヴィーラは、一息ついてからふと考える。
(年上……よね?)
見た目は立派な戦士なのに、時折見せる無邪気な表情や仕草は、まるで子供のようだ。
彼があの頭で、どうやってプロポーズしようと思ったのかしら。
そんな疑問が浮かび、ヴィーラは執務室へと向かう。
―――――――――――
―――――――
執務室に入ると、まずは書棚に向かった。
(ヘルムデッセンについて、もう少し詳しく知っておきたいわね……)
彼は戦場で名を馳せた英雄とはいえ、貴族社会では異端の存在だった。では、彼の出自はどうなっているのだろうか。
ヴィーラは古い資料や貴族名鑑を引っ張り出し、机の上に広げる。紙をめくる音だけが室内に響き、慎重に情報を探る。
ヘルムデッセンの名が記載されている記録を見つけ、目を走らせる。
(……? これは……)
指先が止まる。
記述には、彼の父親の名前が記されていた。
「……王?」
ヴィーラの目が大きく見開かれる。
ヘルムデッセンは王の婚外子だった。
思わず背筋が伸び、心臓が軽く跳ねる。
(そんなこと、彼は一度も言わなかった……)
驚きと共に、彼の幼少期がどんなものだったのかを考える。
王家に生まれながら、戦場に送り込まれた彼。幼い頃から戦火の中を生き抜き、そして今も剣を握り続ける彼の人生。
ヴィーラは、知らなかった彼の過去にそっと息を飲んだ。
ヴィーラは震える手で資料をめくる。目の前に広がる文字の数々が、ヘルムデッセンの歩んできた過酷な人生を赤裸々に描き出していた。
彼は王の婚外子。正統な王子として認められることなく、ただ「不要な存在」として扱われた。記録には、8歳のときに戦場へ送り出されたことが明確に記されている。
(王はきっと……死んでほしかったのね)
胸が苦しくなった。
(ヘルが邪魔だったんだわ。でも……でも、ヘルは生き抜いた。ただ、ひたすら戦い続けた)
戦場での勝利が彼の存在を証明する唯一の手段だったのだろう。彼は王が望んだ運命に屈することなく、血と汗を流しながら、ただ前に進み続けた。その結果が、今の彼の地位なのだ。
(彼は……8歳で時間が止まってるんだわ)
ふと気づくと、熱いものが頬を伝っていた。
指でそっと触れると、それは涙だった。
知らず知らずのうちに流れていた涙。
自分でも気づかないうちに、彼の苦しみが胸を締めつけていたのだ。
そのとき——
コンコン。
「飯の時間……っ!?」
扉の向こうから聞こえたヘルムデッセンの声が途切れた。
次の瞬間、バンッと勢いよく扉が開かれ、彼が駆け寄ってきた。彼の鋭い赤い瞳がヴィーラをまっすぐに捕らえ、表情が険しく歪む。
「……誰に泣かされた?」
その声は低く、獣のような怒気を孕んでいた。
ヘルムデッセンは素早く手を伸ばし、ヴィーラの顎をそっとクイッと持ち上げる。その瞳には、激しい怒りと焦りが混じっていた。
「俺が殺してやる!!」
剣を振るう時と同じ、恐ろしいまでの決意を感じさせる声。
ヴィーラは驚きながらも、そっと彼の手に触れ、静かに首を横に振った。
「ううん。違うの……」
涙を拭いながら、彼の赤い瞳を見つめる。
「ヘルが今までどれだけ頑張ってたか、それを見ていて……」
言葉が詰まりそうになる。自分の中に押し寄せる感情が、胸の奥で波打っていた。
この人は、ずっと戦い続けてきた。生きるために、ただひたすらに剣を振るい続けてきた。
それを思うと、涙が止まらなかった。
「どうすればいい?どうすれば……。」
ヘルムデッセンは明らかに動揺し、落ち着きなく視線をさまよわせていた。まるで初めて戦場に出た兵士のように、どうすればいいのか分からず、ただおろおろとするばかり。
その様子を見て、ヴィーラは優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。さぁ、食事にしましょう。」
そう言って、そっと彼の頭に手を伸ばし、温かく撫でてあげる。
ヘルムデッセンは一瞬驚いたように目を見開くが、そのままじっと撫でられるままにしていた。彼の肩の力が少し抜け、荒々しかった呼吸も落ち着いていく。
それから二人は食堂へ向かった。
食堂に入ると、昨夜とは違い、ヘルムデッセンは静かに席につき、ナイフとフォークを丁寧に手に取った。
ヴィーラは驚いて彼を見つめる。
彼の所作は昨日とは比べものにならないほど洗練されていた。ぎこちなかったナイフさばきも、今ではすっかり板についており、スープを飲む仕草さえも優雅に見える。
「すごいわ!ヘル!ちゃんとマナーを覚えたのね!」
思わず声を上げると、ヘルムデッセンはフォークを口に運ぶ手を一瞬止め、わずかに顔を赤らめた。
「こ、これくらいは……。」
照れ臭そうに目をそらしながらも、手は止めず、しっかりと食事を続けている。
ヴィーラはその姿を微笑ましく見つめた。
食事が終わり、二人が食堂を出ようとしたとき、側近のディルプールがヴィーラの傍へ静かに寄ってきた。彼は声を落とし、周囲に聞かれないように囁く。
「奥様、実は昨夜……」
ヴィーラはディルプールの真剣な表情に、思わず歩みを止める。
「ヘルムデッセン様は、奥様がマナーを教えるためにご自身の食事を取られていなかったことを、とても気にされていました。奥様がちゃんと食事をとれるようにと、朝からずっと必死にマナーを覚えていたんですよ。」
その言葉に、ヴィーラの目がゆっくりと見開かれる。
(ヘルが……?)
不器用ながらも、彼なりに気遣ってくれていたのだ。
今朝、食卓で見せた落ち着いた振る舞い。まるで何事もなかったかのように振る舞っていたが、実際は彼なりの努力があったのだ。
ふと、前を歩くヘルムデッセンの背中に視線を向ける。
彼は振り返ることもなく、無言のまま歩き続けていた。
ヴィーラは気づけば、駆け出していた。
ためらうことなく、彼の背中へと飛び込み、その逞しい体にそっと腕を回す。
「ヴィ、ヴィーラ!?」
突然の抱擁に、ヘルムデッセンは驚いたように体をこわばらせる。
だが、彼の反応など気にせず、ヴィーラは彼の温もりを感じながら、静かに囁いた。
「今日も一緒に寝ましょうね。」
その言葉に、ヘルムデッセンの体がさらに固まり、耳まで真っ赤になっていくのがわかった。
「お、おお……!」
彼はかすれた声でそう返事をしながら、戸惑いと嬉しさが入り混じった表情を見せた。
ヴィーラは彼の鼓動を感じながら、そっと微笑んだ。