㊴
——夢の中。
どこまでも続く闇の中で、微かな声が響いた。
「……しっかりなさい!ヘルムデッセン!!」
——ヴィーラの声だった。
はっと目を開けた瞬間、ヘルムデッセンの胸に熱いものがこみ上げた。
(そうだ……お前なら、俺をそう叱るだろう。)
彼女はいつだって、俺を導いてくれた。
間違えれば正し、弱気になれば叱り、道を示してくれた。
(このままじゃ、駄目だ。)
ヘルムデッセンは、ゆっくりと起き上がる。
いつまでも沈んでいる場合ではない。
深く息を吸い込み、強く拳を握りしめた。
「待っていろ、ヴィーラ。」
決意の言葉を小さく呟きながら、彼は寝室を出て、静まり返った廊下を一直線に進む。
「ディルプール。」
執務室へ向かう途中、ヘルムデッセンは側近の名を呼んだ。
「……殿下?」
ディルプールは驚いたように振り向いた。
「馬を用意しろ。」
「……どちらへ?」
「ケイオスという医者を探す。」
ディルプールは一瞬目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「ケイオスなら……領地の中心街にいます。」
「案内しろ。」
「かしこまりました。」
ヘルムデッセンは、大股で屋敷を出ると、用意された黒い軍用馬の手綱を取り、一息に跨った。
「行くぞ。」
強く馬の腹を蹴ると、馬は勢いよく駆け出した。
◇◆◇◆◇◆
——領地の中心街。
夜明け前の空に、まだ薄暗さが残る頃。
石畳を打つ馬蹄の音が、静かな街の中に響いた。
ヘルムデッセンは、ディルプールの案内でケイオスの居場所を探すが、どうにも進みが悪い。
「おい、ディルプール……本当に分かっているのか?」
「ええっと……確かこの辺りのはずですが……。」
「……確か、とはなんだ……。」
ヘルムデッセンは軽く眉を寄せ、苛立ちを覚えたが、すぐに気持ちを切り替えた。
(急ぐんだ……。)
その時——
「おおっ!? ヘルムデッセン様ではないか!」
商店の主人らしき男が、驚きながら駆け寄ってきた。
さらに、周囲にいた住民たちも、一斉に顔を上げる。
「本当に!?」 「おお、久しぶりにお姿を拝見します!」 「おかげで領地は安全です、ありがとうございます!」
次々に、民たちの歓声があがる。
ヘルムデッセンは、短く頷きながら、手綱を引いて馬を止めた。
「……急ぎの用だ。」
「何かお手伝いできることがあれば!」
「ケイオスという医者を探している。居場所を知らないか?」
すると、周囲の人々の顔色が僅かに変わった。
「……ケイオスを?」
「それは……まさか、ヴィーラティーナ様のことで……?」
その言葉に、ヘルムデッセンの肩が僅かに揺れる。
(なぜ……もう知っている?)
ヘルムデッセンの疑問を察したのか、一人の女性が口を開いた。
「噂で聞きました……ヴィーラティーナ様が倒れられたと。」
「領地を発展させてくださった方が……神よ……。」
周囲に集まる人々の表情が、沈痛なものへと変わる。
次々と、彼の元へ果物や食材を差し出す者が現れた。
「どうか、ヴィーラティーナ様のために。」 「これを……少しでもお力になれば。」
ディルプールが、申し訳なさそうな顔で果物の山を抱える羽目になった。
「ちょっ……俺が持つんですかこれ……。」
ヘルムデッセンは、そんなディルプールを一瞥すると、再び馬を進める。
「ケイオスの居場所を知っている者は?」
すると、一人の老人がゆっくりと前に出た。
「ケイオスなら、町の南の方に診療所を構えております。」
「案内できるか?」
「ええ、もちろん!」
ヘルムデッセンは深く頷くと、手綱を強く握った。
「行くぞ。」
民の声援を背に、彼は馬を駆る。
◇◆◇◆◇
南の診療所へと辿り着いたヘルムデッセンは、馬を引きながら建物を見上げた。
「……おい、ディルプール。どう見ても、これは薬屋にしか見えんが?」
屋根の上には薬草を乾燥させるための棚が並び、入口には「万病に効く秘薬」と書かれた木製の看板がかかっている。
どう見ても、普通の薬屋にしか見えなかった。
ディルプールは、大量の果物や食材の詰まった荷物を馬に括りつけながら、軽く肩をすくめる。
「ここで合っていますよ。間違いなく、"ケイオス"の診療所です。」
「……どう見ても、腕のいい医者の雰囲気じゃないがな。」
少なくとも、命を預けるような外科医には到底思えない。
だが、ヴィーラが唯一信じろと言った男だ。
ヘルムデッセンは深く息を吸い込み、迷いなくドアを押し開けた。
◇◆◇◆◇
扉が軋む音とともに、かすかに薬草の匂いが漂う。
「……いらっしゃい。」
ゆるりとした声が、室内から響いた。
そこに立っていたのは——
黒髪に赤い瞳、長髪でだらしない服装をした男だった。
椅子に座り、面倒くさそうに片手で髪をかきあげている。
ヘルムデッセンは思わず目を見開いた。
(……俺に、少し似ている……?)
筋肉はなく、どこか気怠げな雰囲気。
だが、顔の造りや目元の印象が、どこか自分と重なるように見えた。
「わぁお。」
男は、ヘルムデッセンの顔を見た瞬間、驚いたように微笑む。
「こんなに似ている人が来るだなんて……もしかしてヴィーラティーナ様の旦那様でいらっしゃったりします?」
「……そうだが。」
男——ケイオスは、頷きながら立ち上がり、ゆったりと歩み寄る。
「ようこそ、いらっしゃいました。領主様。盲腸ですか?それとも、胆石?臓器を摘出しましょうか?」
「……ここは、外科医なのか?」
ヘルムデッセンが眉をひそめると、ケイオスは肩をすくめて答える。
「専門は外科ですが、一応多方面で診ることが可能ですよ。」
「……そんなものか。」
「ええ、まぁ。で、本日はどのようなご用件で?」
ヘルムデッセンは、短く息を吐き、真剣な眼差しを向けた。
「ヴィーラティーナが、王家の家宝……魔法の水とやらで、意識が……というよりは、自我がなくなった。治してくれ。」
その瞬間——ケイオスの表情が僅かに変わった。
「魔法……ですか。」
わずかに目を細め、ヘルムデッセンの言葉を吟味するように沈黙する。
その時だった——
(『ケイオスに会ったら、こう言うのよ』)
——ヴィーラの声が、まるで耳元で囁かれるように響いた。
ヘルムデッセンは無意識のうちに、言葉を口にしていた。
「俺の母は、魔法都市ベルノホルンのドーラだ。」
——カタン。
ケイオスの手が、一瞬止まる。
「……ははっ。」
くすくすと笑いを漏らし、口元を手で覆った。
「それはまた……そうか……そうですか。」
まるで"待っていました"とでも言うかのように、ケイオスはゆっくりと深く頷いた。
「ヴィーラティーナ様のところへ案内してください。」
そう言うと、彼は指を鳴らした。
——バサッ。
瞬間、診療所のあちこちに散らかっていた道具や本、薬草の瓶が、ひとりでに宙に浮かび、次々とバッグに収まっていく。
ヘルムデッセンは、無意識のうちに腰の剣へと手をかけた。
「……魔法使い、なのか?」
ケイオスは、ニヤリと笑うと、軽く指を動かしながら答える。
「ええ、まぁ。そこそこには。」
そして、彼は愉快そうに言葉を続けた。
「自分の叔父のことくらいは、覚えておくといいですよ?」
——叔父?
ヘルムデッセンは眉を寄せた。
(どういうことだ? そもそも……俺の母はドーラじゃなくて、テルミラなんだがな……。)
心の中で呟く。
だが、今はそれを問い詰めている場合ではなかった。
「行くぞ。」
ヘルムデッセンは、強く手綱を握る。
ケイオスは肩をすくめながら、ゆるりとついてきた。
こうして——
謎めいた医者を連れ、ヘルムデッセンはヴィーラのもとへと急ぐのだった。




