㊳
——見慣れた天井が広がっていた。
窓の外から差し込む陽光がカーテン越しに柔らかく揺れ、鳥のさえずりが微かに聞こえる。
部屋は静かで、暖かく、どこか懐かしい空気に包まれている。
(……ここは……どこ……?)
ぼんやりとした思考の中、ゆっくりと意識が浮上していく。
ヴィーラは眉をひそめ、瞬きを繰り返した。
——そして、次の瞬間。
「……っ!!」
彼女はガバッと身を起こした。
「……!!」
急な動きに、近くで付き添っていた侍女が思わず悲鳴を上げる。
「ヴィ、ヴィーラ様!!?」
驚愕の表情で椅子を倒しそうになりながら、彼女は駆け寄る。
息を荒くするヴィーラの顔を覗き込み、涙ぐみそうなほどの表情を見せる。
だが——
ヴィーラの頭の中は、それどころではなかった。
「今……いつ!!?」
荒い息のまま、彼女は侍女の手を掴む。
強い力に驚いた侍女は、戸惑いながらも言葉を絞り出した。
「お、お休みになられて……二年が経ちました……。」
「……っ!」
言葉が頭に突き刺さる。
まるで時間の感覚が狂ってしまったかのように、彼女の思考が一瞬、真っ白になった。
(……二年……?)
あまりの衝撃に、胸の奥が締め付けられる。
二年も眠っていた?
あの馬車の中で意識を失ってから、そんなに長い時間が経ったというの……?
「そんな……そんなわけない……。」
信じられなかった。
だが、侍女の顔は本気だった。
(……ヘル……ヘルムデッセンは……!?)
全身が震え、彼女は咄嗟にベッドから降りた。
だが、長らく眠り続けていた身体は思うように動かず——
「……っ!!」
足がもつれて、床に崩れそうになる。
「奥様!!」
侍女が慌てて支える。だが、それでも——
「執務室……ヘルは……!!」
血相を変えたまま、ヴィーラは執務室へと走り出した。
(そんなに長い間……何が起きていたの!?)
寝間着のまま、裸足で廊下を駆ける。
侍女や通りがかった騎士たちが驚き、彼女を止めようとするが——
「お待ちください!!まだ安静に!!」
「奥様、お身体が……!」
「どいて!!」
彼女は、必死だった。
転びそうになりながらも、何度も体勢を立て直し、迷わず執務室へと走り続ける。
(ヘル……あなたはどこ!?)
執務室の扉が目の前に迫る。
ドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開いた。
——そこにいたのは、ヴィーラの知らない赤い瞳をした男だった。
―――――――――
―――――――
ヴィーラが眠りについた翌朝——
「ヴィーラ!!」
ヘルムデッセンは、ほとんど飛びかかるように彼女の元へ駆け寄った。
ベッドの上、彼女は確かに"起き上がって"いた。
(良かった……目を覚ましたんだ……。)
心の底から安堵し、喉の奥で詰まっていた息をようやく吐き出す。
けれど——
「ヴィーラ……良かった、目を覚まし——」
彼は言葉を止めた。
なぜなら——
「…………。」
彼女の黄金色の瞳は、まったく焦点を結んでいなかった。
瞼が半ば開かれたまま、虚ろなまま、まるで生気のない人形のようにただ座っているだけ。
「ヴィーラ……?」
呼びかけても、何の返事もない。
(おい……なんでだ……?)
まるで凍りつくような悪寒が背筋を走る。
彼女の肩に手を置き、そっと揺さぶってみる。
「なあ、ヴィーラ……俺の声が聞こえるか?」
「…………。」
何の反応もない。
「……嘘だろ……?」
彼女は、生きている。
だが、そこに"ヴィーラ"はいなかった。
「おい、なんとか言えよ……!!」
喉の奥から掠れた声が絞り出される。
彼女の頬を撫でる。
髪を梳く。
温もりはあるのに——
「頼む……ヴィーラ……!!」
何度、名前を呼んでも——
「…………。」
ただ、そこに"座っている"だけだった。
◆◇◆◇◆◇
ヴィーラが目を覚まさなくなってから——
ヘルムデッセンは、彼女の世話をしながら過ごしていた。
「……ヴィーラ、食事の時間だ。」
静かな寝室の中、ヘルムデッセンの低く落ち着いた声が響く。
テーブルの上には、温かいスープと柔らかく焼かれたパン。
スープからは、湯気がゆらゆらと立ち昇り、かすかに香草の香りが漂っていた。
しかし——
「…………。」
ヴィーラは、ただじっと前を見つめていた。
そこにあるのは、意志のない"目"。
何も映していない、ただ焦点の定まらない瞳。
ヘルムデッセンは、苦い息を吐いた。
「……おい。」
スプーンを手に取り、スープをすくう。
静かに彼女の口元へ持っていくが——
何の反応もない。
「頼む、食べてくれ……。」
以前なら「私の口に運ぶなんて、よほどお暇なのね」と皮肉のひとつも返していただろう。
だが、今は違う。
ヘルムデッセンは、軽く力を込めてスプーンをヴィーラの唇に押し当てる。
すると、わずかに口が開いた。
彼はそっとスプーンを押し込み、中の液体がゆっくりと彼女の喉を通るのを見届ける。
——ごくん。
飲み込んだ。
(……そうか。)
彼女は、口に運ばれれば飲み込むことはできる。
だが、それ以上の動作はしない。
咀嚼すらしない彼女に、パンを食べさせることはできない。
「……スープだけで十分だな。」
呟くように言いながら、再びスプーンをすくう。
ヴィーラはただ、されるがままに飲み込むだけだった。
それは——まるで赤子の世話のようだった。
ヘルムデッセンは、静かに息を吐いた。
「ヴィーラは、いつも文句ばかり言ってたのにな……。」
スプーンを彼女の口元へと運びながら、ぽつりと漏らす。
「恥ずかしいからやめて」とか、「人前ではだめよ」とか——
そんな言葉を聞けるのは、もうずっと先なのだろうか。
彼女は何も言わない。
ただ、彼が口に運んだものを飲み込むだけ。
◆◇◆◇◆◇
——噂はすぐに広がった。
「殿下が……奥様の世話を、すべてなさっているらしいわ。」
「食事も、お風呂も、……トイレまで……?」
「使用人にさえ、任せようとしないって……。」
「あれで壊れないのかしら?」
侍女や使用人たちは、誰もがひそひそと囁いていた。
気の毒だと思う者もいれば、異様だと感じる者もいた。
「まるで、囚われの姫と、それに仕える騎士のようだ……。」
そんな噂まで囁かれるようになった。
ヘルムデッセンは、それらの言葉を無視し続けた。
◆◇◆◇◆◇
——夜。
湯気の立つ浴槽の前で、ヘルムデッセンは静かに息をついた。
「……さあ、ヴィーラ。」
彼は、何の抵抗もない彼女の体を優しく支え、湯に沈める。
肌を傷つけぬよう、慎重に髪を洗い、指先まで丁寧に湯で流す。
侍女たちは、もうここにはいない。
最初のうちは入浴の介助を申し出ていたが、ヘルムデッセンがそれを拒否した。
——触れられるのが嫌だった。
「……ヴィーラは、本当に綺麗だな。」
指で髪を梳く。
細く、しなやかな金糸のような髪。
月明かりに照らされた横顔は、まるで眠る姫のように静かだった。
しかし、目を覚ますことはない。
◆◇◆◇◆◇
——夜、ベッドの上。
月明かりが静かに差し込み、シーツの上に淡い影を落とす。
ヘルムデッセンは、静かにヴィーラの寝顔を見つめていた。
何度目の夜だろうか。
何度、こうして彼女の隣に座り、目を覚ますのを待っただろうか。
(……まるで、普通の夜みたいだな。)
彼女は、どこにも行かない。
彼女は、ずっと俺の隣にいる。
彼女は、俺だけのものだ。
——そう、俺だけのもの。
彼女がこのまま目を覚まさなければ、ずっとこのまま一緒にいられる。
誰の手も届かない。
誰にも奪われない。
俺だけが、彼女のすべてを支配し、守り、抱きしめられる。
そう思うと、心の奥底に、奇妙な"満足感"が広がった。
「……なあ、ヴィーラ。」
囁きながら、そっと彼女の頬に触れる。
「お前は、俺のものなんだろう?」
かすかに指先が滑る。
柔らかな肌。
温もりを感じる身体。
だけど——
彼女の意志は、そこにはない。
「……俺がいなければ、何もできないだろう?」
そう呟くと、ふっと笑いがこぼれた。
——これが、俺の望んでいたことだったのか?
彼女を閉じ込めることができた。
彼女は俺の腕の中にいる。
俺の呼びかけに、逆らうこともない。
(なのに、どうして……。)
心臓を刺すような痛みが、奥底からじわじわと広がる。
(こんなに、虚しいんだ……。)
——違う。
俺が愛したのは、こんな"人形"じゃない。
俺が焦がれ、求め、奪ったのは、もっと——
「お前は、俺のものなんだ……。」
だが、答えは返らない。
ヘルムデッセンは、静かに目を伏せる。
そして、彼女の細い手を取ると、ぎゅっと強く握りしめた。
(お前を取り戻す……。)
たとえ、どんな手を使ってでも。
夜は、静かに更けていった——。




