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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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38/53

——見慣れた天井が広がっていた。


窓の外から差し込む陽光がカーテン越しに柔らかく揺れ、鳥のさえずりが微かに聞こえる。

部屋は静かで、暖かく、どこか懐かしい空気に包まれている。


(……ここは……どこ……?)


ぼんやりとした思考の中、ゆっくりと意識が浮上していく。

ヴィーラは眉をひそめ、瞬きを繰り返した。


——そして、次の瞬間。


「……っ!!」


彼女はガバッと身を起こした。


「……!!」


急な動きに、近くで付き添っていた侍女が思わず悲鳴を上げる。


「ヴィ、ヴィーラ様!!?」


驚愕の表情で椅子を倒しそうになりながら、彼女は駆け寄る。

息を荒くするヴィーラの顔を覗き込み、涙ぐみそうなほどの表情を見せる。


だが——

ヴィーラの頭の中は、それどころではなかった。


「今……いつ!!?」


荒い息のまま、彼女は侍女の手を掴む。

強い力に驚いた侍女は、戸惑いながらも言葉を絞り出した。


「お、お休みになられて……二年が経ちました……。」


「……っ!」


言葉が頭に突き刺さる。

まるで時間の感覚が狂ってしまったかのように、彼女の思考が一瞬、真っ白になった。


(……二年……?)


あまりの衝撃に、胸の奥が締め付けられる。


二年も眠っていた?

あの馬車の中で意識を失ってから、そんなに長い時間が経ったというの……?


「そんな……そんなわけない……。」


信じられなかった。

だが、侍女の顔は本気だった。


(……ヘル……ヘルムデッセンは……!?)


全身が震え、彼女は咄嗟にベッドから降りた。

だが、長らく眠り続けていた身体は思うように動かず——


「……っ!!」


足がもつれて、床に崩れそうになる。


「奥様!!」


侍女が慌てて支える。だが、それでも——


「執務室……ヘルは……!!」


血相を変えたまま、ヴィーラは執務室へと走り出した。


(そんなに長い間……何が起きていたの!?)


寝間着のまま、裸足で廊下を駆ける。

侍女や通りがかった騎士たちが驚き、彼女を止めようとするが——


「お待ちください!!まだ安静に!!」

「奥様、お身体が……!」


「どいて!!」


彼女は、必死だった。


転びそうになりながらも、何度も体勢を立て直し、迷わず執務室へと走り続ける。


(ヘル……あなたはどこ!?)


執務室の扉が目の前に迫る。


ドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開いた。


——そこにいたのは、ヴィーラの知らない赤い瞳をした男だった。


―――――――――

―――――――


ヴィーラが眠りについた翌朝——


「ヴィーラ!!」


ヘルムデッセンは、ほとんど飛びかかるように彼女の元へ駆け寄った。


ベッドの上、彼女は確かに"起き上がって"いた。


(良かった……目を覚ましたんだ……。)


心の底から安堵し、喉の奥で詰まっていた息をようやく吐き出す。

けれど——


「ヴィーラ……良かった、目を覚まし——」


彼は言葉を止めた。


なぜなら——


「…………。」


彼女の黄金色の瞳は、まったく焦点を結んでいなかった。

瞼が半ば開かれたまま、虚ろなまま、まるで生気のない人形のようにただ座っているだけ。


「ヴィーラ……?」


呼びかけても、何の返事もない。


(おい……なんでだ……?)


まるで凍りつくような悪寒が背筋を走る。

彼女の肩に手を置き、そっと揺さぶってみる。


「なあ、ヴィーラ……俺の声が聞こえるか?」


「…………。」


何の反応もない。


「……嘘だろ……?」


彼女は、生きている。

だが、そこに"ヴィーラ"はいなかった。


「おい、なんとか言えよ……!!」


喉の奥から掠れた声が絞り出される。


彼女の頬を撫でる。

髪を梳く。


温もりはあるのに——


「頼む……ヴィーラ……!!」


何度、名前を呼んでも——


「…………。」


ただ、そこに"座っている"だけだった。


◆◇◆◇◆◇


ヴィーラが目を覚まさなくなってから——

ヘルムデッセンは、彼女の世話をしながら過ごしていた。


「……ヴィーラ、食事の時間だ。」


静かな寝室の中、ヘルムデッセンの低く落ち着いた声が響く。

テーブルの上には、温かいスープと柔らかく焼かれたパン。

スープからは、湯気がゆらゆらと立ち昇り、かすかに香草の香りが漂っていた。


しかし——


「…………。」


ヴィーラは、ただじっと前を見つめていた。

そこにあるのは、意志のない"目"。

何も映していない、ただ焦点の定まらない瞳。


ヘルムデッセンは、苦い息を吐いた。


「……おい。」


スプーンを手に取り、スープをすくう。

静かに彼女の口元へ持っていくが——


何の反応もない。


「頼む、食べてくれ……。」


以前なら「私の口に運ぶなんて、よほどお暇なのね」と皮肉のひとつも返していただろう。

だが、今は違う。


ヘルムデッセンは、軽く力を込めてスプーンをヴィーラの唇に押し当てる。

すると、わずかに口が開いた。

彼はそっとスプーンを押し込み、中の液体がゆっくりと彼女の喉を通るのを見届ける。


——ごくん。


飲み込んだ。


(……そうか。)


彼女は、口に運ばれれば飲み込むことはできる。

だが、それ以上の動作はしない。

咀嚼すらしない彼女に、パンを食べさせることはできない。


「……スープだけで十分だな。」


呟くように言いながら、再びスプーンをすくう。

ヴィーラはただ、されるがままに飲み込むだけだった。


それは——まるで赤子の世話のようだった。


ヘルムデッセンは、静かに息を吐いた。


「ヴィーラは、いつも文句ばかり言ってたのにな……。」


スプーンを彼女の口元へと運びながら、ぽつりと漏らす。

「恥ずかしいからやめて」とか、「人前ではだめよ」とか——

そんな言葉を聞けるのは、もうずっと先なのだろうか。


彼女は何も言わない。

ただ、彼が口に運んだものを飲み込むだけ。


◆◇◆◇◆◇


——噂はすぐに広がった。


「殿下が……奥様の世話を、すべてなさっているらしいわ。」


「食事も、お風呂も、……トイレまで……?」


「使用人にさえ、任せようとしないって……。」


「あれで壊れないのかしら?」


侍女や使用人たちは、誰もがひそひそと囁いていた。

気の毒だと思う者もいれば、異様だと感じる者もいた。


「まるで、囚われの姫と、それに仕える騎士のようだ……。」


そんな噂まで囁かれるようになった。


ヘルムデッセンは、それらの言葉を無視し続けた。


◆◇◆◇◆◇


——夜。


湯気の立つ浴槽の前で、ヘルムデッセンは静かに息をついた。


「……さあ、ヴィーラ。」


彼は、何の抵抗もない彼女の体を優しく支え、湯に沈める。

肌を傷つけぬよう、慎重に髪を洗い、指先まで丁寧に湯で流す。


侍女たちは、もうここにはいない。

最初のうちは入浴の介助を申し出ていたが、ヘルムデッセンがそれを拒否した。


——触れられるのが嫌だった。


「……ヴィーラは、本当に綺麗だな。」


指で髪を梳く。

細く、しなやかな金糸のような髪。

月明かりに照らされた横顔は、まるで眠る姫のように静かだった。


しかし、目を覚ますことはない。


◆◇◆◇◆◇


——夜、ベッドの上。


月明かりが静かに差し込み、シーツの上に淡い影を落とす。


ヘルムデッセンは、静かにヴィーラの寝顔を見つめていた。


何度目の夜だろうか。

何度、こうして彼女の隣に座り、目を覚ますのを待っただろうか。


(……まるで、普通の夜みたいだな。)


彼女は、どこにも行かない。

彼女は、ずっと俺の隣にいる。

彼女は、俺だけのものだ。


——そう、俺だけのもの。


彼女がこのまま目を覚まさなければ、ずっとこのまま一緒にいられる。

誰の手も届かない。

誰にも奪われない。

俺だけが、彼女のすべてを支配し、守り、抱きしめられる。


そう思うと、心の奥底に、奇妙な"満足感"が広がった。


「……なあ、ヴィーラ。」


囁きながら、そっと彼女の頬に触れる。


「お前は、俺のものなんだろう?」


かすかに指先が滑る。

柔らかな肌。

温もりを感じる身体。


だけど——

彼女の意志は、そこにはない。


「……俺がいなければ、何もできないだろう?」


そう呟くと、ふっと笑いがこぼれた。


——これが、俺の望んでいたことだったのか?


彼女を閉じ込めることができた。

彼女は俺の腕の中にいる。

俺の呼びかけに、逆らうこともない。


(なのに、どうして……。)


心臓を刺すような痛みが、奥底からじわじわと広がる。


(こんなに、虚しいんだ……。)


——違う。

俺が愛したのは、こんな"人形"じゃない。

俺が焦がれ、求め、奪ったのは、もっと——


「お前は、俺のものなんだ……。」


だが、答えは返らない。


ヘルムデッセンは、静かに目を伏せる。

そして、彼女の細い手を取ると、ぎゅっと強く握りしめた。


(お前を取り戻す……。)


たとえ、どんな手を使ってでも。


夜は、静かに更けていった——。



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