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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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「——よーく、聞いてください。」


甘やかな囁きが、静寂の部屋に響いた。


謎の男は、王子の髪を優しく撫でながら、まるで子守歌を歌うように言葉を紡ぐ。


「王家の宝物庫の中に、瓢箪があります。その中の水を馬車のドアノブに塗っておきなさい。」


王子は、涙で濡れた頬を拭いながら、僅かに顔を上げる。


「……毒、か?」


問いかける声は、まだ不安げだった。


男は、微笑んだままゆっくりと首を振る。


「いいえ、少し眠るだけの魔法の水です。すぐに蒸発してしまうので、アナタが直接御者になりすますと良いでしょう。」


「……そうすれば……」


「はい、きっと。」


男は王子の頬に手を添え、金眼を細める。


「これで、貴方の"望む未来"に近づくことでしょう。」


王子は深く息を吸い込み、瞳の奥に微かな決意を宿した。


(そうだ、これで……僕が……。)


彼は、ゆっくりと立ち上がった。


——その水は、触れただけで皮膚から吸収され、意識を奪う。


やがて、すべてを眠りに誘う魔法の水——。


――――――――――

―――――


馬車の中——

ヴィーラの意識が、じわじわと薄れていく。

まるで霧がかかるように、視界が霞み、体の力が抜けていった。


(……始まったわね。)


わずかに笑みを浮かべながら、ヴィーラは思考を巡らせる。


(ドアノブに塗ってあったのかしら……。)


警戒していたとはいえ、やはり"あの男"の策だった。

皮膚に触れるだけで吸収される魔法の水——

これほどまでに手際よく仕組まれた罠なら、やはり敵は"王家の力"を利用している。


(……でも、私は負けない。)


残された時間は、ほんのわずか。

意識があるうちに、伝えられることをすべて伝えなければならなかった。


ヴィーラはヘルムデッセンに寄りかかりながら、小さく息を吸い込む。

そして——


(どの使用人が信用できて、誰が怪しいか。)

(領地の現状と、今後の計画の詳細。)

(財務状況、交易のルート、税の管理方法。)


次々と、頭の中の情報を整理し、彼に伝える。

彼女の声は、次第に小さくなっていく。

だが、それでも、最後まで——


(……ヘル。)


彼の大きな手が、そっと彼女の手を握るのを感じた。

ヴィーラは、最後の力を振り絞って微笑む。


——そして、静かに目を閉じた。


―――――――――

――――


ヘルムデッセンは、寄り添うヴィーラの静かな寝息を聞きながら、彼女が疲れて眠ったのだと思っていた。


(……そうか、無理をさせたな。)


彼女はずっと忙しく動いていた。

王都での社交、領地の準備、結婚式、そして新婚の時間も——


(安心したのかもしれない。)


彼は微笑みながら、ヴィーラの肩を優しく抱き寄せた。


だが、その時はまだ、気づいていなかった。


——この眠りが、意図的に仕組まれたものだということに。


―――――――――

――――


夜の帳が降りた頃、馬車は静かに城門をくぐった。

石畳に車輪が響き、静寂の中に足音が溶けていく。


城の扉が、ゆっくりと開かれた。


ヘルムデッセンは、眠ったままのヴィーラを腕に抱いたまま、馬車から降り立つ。


そして——


「ヴィーラ、着いたぞ……。」


呼びかけながら、彼はヴィーラの体を優しく揺さぶる。


——返事はない。


「ヴィーラ……?」


——微動だにしない。


(……まさか!!)


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

無意識のうちに歯を噛み締めた。


彼女の頬に手を添える。


温かい。


だが、どこか違和感がある。


(おかしい。)


ヘルムデッセンの脳裏に、"ある可能性"がよぎる。


(事故の可能性……? 崖から落とされる? だが、そうではない。)


確かに、道中に異変はなかった。

馬車も、道も、何一つ問題はない。


なのに——


(なぜ、ヴィーラが目を覚まさない?)


彼女を抱きかかえたまま、ゆっくりと屋敷の扉へと歩き出す。


無言のまま。


側近や使用人たちが、異様な空気を察し、遠巻きに見守る。

誰も、言葉をかけることができなかった。


そして——


ヘルムデッセンは、ふと馬車の御者をチラリと見る。


(……第一王子。)


ヘルムデッセンの目が、一瞬、鋭く光った。


変装しているが、目元の特徴は隠せない。


(こいつが、ヴィーラを……?)


拳が無意識に握られる。


(今すぐ……切り殺してしまいたい。)


だが——


今ここで手を出せば、王族への反逆とみなされる。


ヘルムデッセンは、強く歯を食いしばる。


(弟よ……ヴィーラに感謝するんだな……。)


もしヴィーラが「ここで手を出すな」と言わなかったら——

もしヴィーラが「まずい相手」だと警告していなかったら——


ヘルムデッセンは、迷わず剣を振るっていただろう。


だが、今は——


一瞬で冷静さを取り戻し、そのまま無言で御者を無視する。


第一王子の目が、一瞬、わずかに揺れた気がした。


しかし、ヘルムデッセンは、何も言わなかった。


ただ——


愛しい妻を抱きしめながら、まっすぐに屋敷の中へと歩き続けた。


―――――――――

――――


寝室——

重厚な扉が静かに閉まり、微かな軋み音だけが響いた。

屋敷の中はしんと静まり返っていて、誰もこの部屋に近づこうとしない。


ヘルムデッセンは、腕に抱えたヴィーラをそっとベッドへ横たえた。

白いシーツの上に沈む彼女の姿は、まるで繊細な人形のように儚く、美しかった。


「ヴィーラ……。」


彼はしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込む。


眠るように静かな彼女の瞼は閉じられ、長い金のまつ毛が影を落としている。

柔らかく整えられた髪が枕に広がり、月明かりが淡く照らしていた。


——いつもなら、目を開けば黄金色の瞳がこちらを見つめるのに。

何か鋭い言葉を投げかけてくるのに。


(……どうして、こんなことに……。)


ヘルムデッセンは、震える手でそっとヴィーラの頬を撫でた。


肌は温かい。

けれど、その温もりがまるで遠く感じる。


呼吸は落ち着いていて、鼓動もしっかりと脈打っている。

けれど——何をしても、彼女は目を覚まさない。


(なんで……。)


喉の奥が、ひどく締めつけられる。


彼は戦場で幾度も死線を潜り抜けてきた。

どれだけ傷ついても、どれだけ血を流しても、自分の力で乗り越えてきた。


だが——


今、目の前のこの光景は。


何もできない。


剣を振るえば敵は倒せる。

軍を率いれば戦に勝てる。


けれど、この眠るヴィーラを目の前にして、どうすればいいのか。

何をすれば彼女が目を覚ますのか。


まるで分からなかった。


「ヴィーラ……!!」


——ポロッ。


熱い雫が、ヴィーラの頬に落ちる。


それが自分の涙だと気づいた瞬間、こらえていたものが一気に溢れ出した。


「……っく……ヴィーラ……!!」


声が震え、嗚咽が喉を突く。


「起きろ……!! おい……!! 俺を……ひとりにするな……!!」


そう言いながらも、ヴィーラは静かに眠ったまま、何の反応もない。


ヘルムデッセンは、震える手で彼女の手を取り、強く握りしめた。


その手はまだ温かく、しっかりとした感触があった。


(生きている……。)


けれど、それがどれほど残酷なことか。


彼女が死んだわけではない。

だが、生きているのに"届かない"。


何をしても、どれだけ呼びかけても、彼女の意識は閉ざされたまま——

まるで、遥か遠くへ行ってしまったかのように。


「こんなこと……許さない……!!」


拳が震え、シーツをぎゅっと掴む。


悔しい。


彼女を守れなかった。

気づいた時には遅かった。

すべてヴィーラに頼り、彼女の知略に守られ、導かれてきたのに——

結局、何もできなかった。


「俺が……必ず、お前を助けるから……。」


言葉に誓いを込め、強く囁いた。


その時——


ヴィーラの手が、小さく、かすかに動いた気がした。


「……ヴィーラ?」


けれど、それはただの錯覚かもしれない。


彼女の指先に意識が戻ることはなく、呼びかけにも応じない。


けれど、それでも——


ヘルムデッセンは、その手を離さなかった。


どれだけ時間がかかっても、どれだけ絶望しようとも、彼女をこのままにするつもりはなかった。


「……っ……!」


涙をこらえることもできず、嗚咽が静かに漏れた。


——誰にも見せたことのない、大きな涙を流しながら。


そして、深く誓った。


(必ず……取り戻す。)


ヴィーラを、もう一度、俺の隣に。


この手で、必ず。


夜は、静かに更けていった——。

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