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王城の最上階——
月明かりだけが頼りの薄暗い部屋。高級な家具が整えられ、まるで芸術品のように飾られた空間に、不釣り合いなすすり泣きが響いていた。
第一王子は、深いソファの上に座り、謎の男の膝に頭をあずけていた。彼の肩は小刻みに震え、こらえきれない嗚咽が喉の奥から漏れる。
「……成功するって……言ってたじゃないか……。」
かすれた声。
「お前が言ったことは、今まで……一度も、はずれたことがなかったのに……。」
彼はまるで幼子のように、悔しさと悲しみを滲ませながら男の服をぎゅっと握る。
男は、静かに微笑んだ。
金髪に金眼。長く、絹のような髪が背中を流れ、端正な顔立ちは女性のように美しい。白い指が王子の髪を優しく梳く。
まるで慈しむように、ゆったりとした声で囁いた。
「そうですね……申し訳ございません。」
声色は淡々としているのに、どこかに甘さが滲む。その手つきに、王子はさらに涙をこぼした。
「……次の助言は、もう必要ありませんか?」
指先が、王子の額に触れる。まるで子どもをあやすように、優しく撫でる仕草。
王子は僅かに目を伏せ、唇を噛み締めた。
「……次は何をすればいい?」
静寂が訪れる。
男は、ふっと微笑んだ。
「次は……。」
月明かりが、彼の金眼を怪しく照らす。
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―――――――
デュークデイモン家———
窓から見える景色は、まるで宝石箱のように煌めいていた。
王都での結婚式と社交の時間も終わり、いよいよ領地へ戻る時がきた。
大広間で出立の準備を進めながら、ヴィーラは手元の文書を確認していた。領地運営に関する資料が何枚も綴じられており、その目はすでに"次"を見据えている。
そんな彼女の隣で、ヘルムデッセンは肩の鎧を調整しながら、ちらりとヴィーラを見る。
彼女の表情はどこか晴れやかで、それでいて気が引き締まったような雰囲気があった。
「ヘル。」
彼女がふと顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめる。
「そろそろ領地へ帰るわよ。」
ヘルムデッセンはゆっくりと頷いた。
「わかった。……もう社交はいいのか?」
「十分よ。」
ヴィーラは微笑み、手に持っていた書類を鞄にしまいながら続ける。
「これからは領地が忙しくなるわ。」
その言葉には、確かな決意があった。
彼女はすでに、"領主の妻"として、いや、それ以上の立場として、未来を見据えている。
ヘルムデッセンは、そんな彼女をしばし眺め——口角をわずかに上げた。
「そうか……。」
彼はゆっくりと歩み寄り、ヴィーラの頬に触れることもなく、ただ彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お心のままに。」
それは、彼の揺るぎない信頼を示す言葉だった。
ヴィーラはふっと微笑んだ。
そして——数日間、帰郷の準備に追われながらも、夫婦としての時間も大切にした。
荷造りに励みながら、ヘルムデッセンの求めに応じ、子作りにも精を出した。
お互いに愛を深め、未来を育むように——。
そして、いよいよ領地へ帰る日がやってきた。
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――――――
朝日が王都の石畳を照らし、出立の時間を告げる。
ヴィーラは落ち着いた動作でドレスの裾を整え、馬車へ向かった。
ヘルムデッセンは当然のように隣に立ち、彼女が乗り込むのを見守っている。
しかし——
(……何かがおかしい。)
ヴィーラの足が、馬車の入り口で止まる。
手を伸ばした瞬間、わずかに漂う違和感。
扉の装飾、取っ手の冷たさ、そして——御者の動き。
「……。」
ヴィーラはそっと視線を動かし、前方に立つ御者を見つめた。
(いつもの者じゃない。)
普段の御者とは違う体格、異様な静けさ、そしてほんのわずかに伝わる違和感。
「ヴィーラ?」
ヘルムデッセンが不審そうに彼女を見た。
ヴィーラは笑みを繕いながら、彼の腕を取って馬車に乗り込む。
扉が閉まり、馬車が静かに動き出す。
そして——
「ヘル、御者の様子が変だわ。」
その一言で、ヘルムデッセンの空気が一瞬で変わった。
「……なんだと?」
低い声が響く。
彼の目は鋭くなり、瞬時に剣の柄に手をかけると、馬車から飛び出そうとした。
——が。
「ヘル、待って。」
ヴィーラは咄嗟に彼の手を握り、引き留める。
「……っ!?」
ヘルムデッセンの瞳が、大きく揺れた。
「良く聞いて。今から言うことを、ちゃんと聞いて。」
ヴィーラの真剣な声に、彼は思わず動きを止めた。
(彼の本能が…察しているみたいね。)
普段、どんな状況でも動じないヘルムデッセンが、まるで"泣きそうな子供"のような顔をしていた。
「王家の宝物庫には、様々な魔法道具があるわ。……魔法契約を作るペンも、魔法道具ね。」
「……今そんな話をしている場合じゃ……!!」
「ヘル。」
ヴィーラは静かに彼の手を握り締めた。
「ちゃんと聞いて。」
その言葉に、ヘルムデッセンはギリッと歯を食いしばる。
震える拳を握りしめながらも、彼は大人しく座り直した。
「ここで下手に手を出すと、まずい相手だということを、わかって。」
「……お心のままに……。」
彼は、それ以上逆らえなかった。
ヴィーラが、何かを確信しているのがわかる。
それに——彼女の表情が、悲しげにすら見えたから。
「もし、宝物庫から私に使われるものがあるとしたら——最も安全で、命の危険がなく、意識のみを眠らせる薬があるわ。」
「……!」
「私が知る"あの人"なら、きっとそうする。」
ヘルムデッセンは、まるで息が詰まるような表情を浮かべる。
「心配しないで。解毒方法があるの。」
ヴィーラの声は、驚くほど冷静だった。
「領地の中心街に"ケイオス"って名前の医者がいるの。彼以外を信用しちゃだめよ。」
「……ケイオス……。」
ヘルムデッセンは、今にも涙をこぼしそうな顔で、必死に彼女の言葉を聞いていた。
「必ず彼に治してもらって。……あきらめないで。」
ヴィーラの手が、そっと彼の頬に触れる。
「何年かかってもいいから。」
ヘルムデッセンの瞳から、静かに涙が零れた。
「……っ。」
彼は自分の意思とは関係なく、涙がこぼれ落ちていくのを止められなかった。
その姿が——愛おしくて。
ヴィーラは、思わず微笑んでしまう。
「それから……私に何かあっても、ヘルがちゃんと前に進めるように。」
彼女は、そっと囁いた。
「領地の寝室のベッドの下に、すべての日記と書類を隠してあるの。」
「……。」
「最近のものは、ディルプールに持たせて、先に領地に帰ってもらってるわ。」
「……ヴィーラ……。」
ヘルムデッセンの声が震える。
まるで、"俺を置いていかないでくれ"と、言いたげな顔で。
ヴィーラは、その涙を、優しく指先で拭った。
「……ヘル。」
彼の赤い瞳を真っ直ぐに見つめる。
「——大丈夫よ。心配しないで…死なないわ。」
彼の涙を拭いながら、ヴィーラは微笑み続けた。
彼は、ただ、彼女の顔を見つめることしかできなかった。
(何もできない……。)
自分は、戦場であらゆる敵を薙ぎ払ってきた。
どんなに強大な敵でも、剣さえあれば戦える。
しかし——
ヴィーラの言葉を聞いていると、今はただ、拳を握り締めることしかできない。
それが、悔しかった。
「……でも、きっと、あなたに沢山迷惑をかけるわ。」
ヴィーラは微笑みながら、小さく息を吐く。
「私が戻るまで……頑張ってね……。」
そう言った次の瞬間——
ヘルムデッセンは、ヴィーラの肩を引き寄せた。
「……っ!」
一瞬のうちに、彼の腕の中に包まれる。
そして——
深く、深く、口づけられた。
(……!!)
驚く間もなく、彼の唇が強く重なった。
熱を帯びたキスだった。
まるで、彼女をこのまま閉じ込めてしまいたいかのような。
彼の指が、そっとヴィーラの頬を撫でる。
(ヘル……。)
彼の腕の力は強く、それでいて優しかった。
——行かせたくない。
——奪われたくない。
彼の心の声が、唇を通して伝わってくるようだった。
「……ヴィーラ……。」
唇が離れた後、ヘルムデッセンは低く掠れた声で彼女の名を呼んだ。
彼の赤い瞳には、抑えきれない"愛"と"絶望"が混ざっていた。
「……戻ってこい。」
まるで、願うような声だった。
ヴィーラは静かに微笑み、彼の頬にそっと手を添えた。
「ええ。……必ず。」
馬車は、静かに進み続ける。




