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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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36/53

王城の最上階——


月明かりだけが頼りの薄暗い部屋。高級な家具が整えられ、まるで芸術品のように飾られた空間に、不釣り合いなすすり泣きが響いていた。


第一王子は、深いソファの上に座り、謎の男の膝に頭をあずけていた。彼の肩は小刻みに震え、こらえきれない嗚咽が喉の奥から漏れる。


「……成功するって……言ってたじゃないか……。」


かすれた声。


「お前が言ったことは、今まで……一度も、はずれたことがなかったのに……。」


彼はまるで幼子のように、悔しさと悲しみを滲ませながら男の服をぎゅっと握る。


男は、静かに微笑んだ。


金髪に金眼。長く、絹のような髪が背中を流れ、端正な顔立ちは女性のように美しい。白い指が王子の髪を優しく梳く。


まるで慈しむように、ゆったりとした声で囁いた。


「そうですね……申し訳ございません。」


声色は淡々としているのに、どこかに甘さが滲む。その手つきに、王子はさらに涙をこぼした。


「……次の助言は、もう必要ありませんか?」


指先が、王子の額に触れる。まるで子どもをあやすように、優しく撫でる仕草。


王子は僅かに目を伏せ、唇を噛み締めた。


「……次は何をすればいい?」


静寂が訪れる。


男は、ふっと微笑んだ。


「次は……。」


月明かりが、彼の金眼を怪しく照らす。


―――———————

―――――――


デュークデイモン家———


窓から見える景色は、まるで宝石箱のように煌めいていた。


王都での結婚式と社交の時間も終わり、いよいよ領地へ戻る時がきた。


大広間で出立の準備を進めながら、ヴィーラは手元の文書を確認していた。領地運営に関する資料が何枚も綴じられており、その目はすでに"次"を見据えている。


そんな彼女の隣で、ヘルムデッセンは肩の鎧を調整しながら、ちらりとヴィーラを見る。


彼女の表情はどこか晴れやかで、それでいて気が引き締まったような雰囲気があった。


「ヘル。」


彼女がふと顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめる。


「そろそろ領地へ帰るわよ。」


ヘルムデッセンはゆっくりと頷いた。


「わかった。……もう社交はいいのか?」


「十分よ。」


ヴィーラは微笑み、手に持っていた書類を鞄にしまいながら続ける。


「これからは領地が忙しくなるわ。」


その言葉には、確かな決意があった。


彼女はすでに、"領主の妻"として、いや、それ以上の立場として、未来を見据えている。


ヘルムデッセンは、そんな彼女をしばし眺め——口角をわずかに上げた。


「そうか……。」


彼はゆっくりと歩み寄り、ヴィーラの頬に触れることもなく、ただ彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「お心のままに。」


それは、彼の揺るぎない信頼を示す言葉だった。


ヴィーラはふっと微笑んだ。


そして——数日間、帰郷の準備に追われながらも、夫婦としての時間も大切にした。

荷造りに励みながら、ヘルムデッセンの求めに応じ、子作りにも精を出した。

お互いに愛を深め、未来を育むように——。


そして、いよいよ領地へ帰る日がやってきた。


―――――――――

――――――


朝日が王都の石畳を照らし、出立の時間を告げる。


ヴィーラは落ち着いた動作でドレスの裾を整え、馬車へ向かった。

ヘルムデッセンは当然のように隣に立ち、彼女が乗り込むのを見守っている。


しかし——


(……何かがおかしい。)


ヴィーラの足が、馬車の入り口で止まる。


手を伸ばした瞬間、わずかに漂う違和感。

扉の装飾、取っ手の冷たさ、そして——御者の動き。


「……。」


ヴィーラはそっと視線を動かし、前方に立つ御者を見つめた。


(いつもの者じゃない。)


普段の御者とは違う体格、異様な静けさ、そしてほんのわずかに伝わる違和感。


「ヴィーラ?」


ヘルムデッセンが不審そうに彼女を見た。


ヴィーラは笑みを繕いながら、彼の腕を取って馬車に乗り込む。

扉が閉まり、馬車が静かに動き出す。


そして——


「ヘル、御者の様子が変だわ。」


その一言で、ヘルムデッセンの空気が一瞬で変わった。


「……なんだと?」


低い声が響く。


彼の目は鋭くなり、瞬時に剣の柄に手をかけると、馬車から飛び出そうとした。


——が。


「ヘル、待って。」


ヴィーラは咄嗟に彼の手を握り、引き留める。


「……っ!?」


ヘルムデッセンの瞳が、大きく揺れた。


「良く聞いて。今から言うことを、ちゃんと聞いて。」


ヴィーラの真剣な声に、彼は思わず動きを止めた。


(彼の本能が…察しているみたいね。)


普段、どんな状況でも動じないヘルムデッセンが、まるで"泣きそうな子供"のような顔をしていた。


「王家の宝物庫には、様々な魔法道具があるわ。……魔法契約を作るペンも、魔法道具ね。」


「……今そんな話をしている場合じゃ……!!」


「ヘル。」


ヴィーラは静かに彼の手を握り締めた。


「ちゃんと聞いて。」


その言葉に、ヘルムデッセンはギリッと歯を食いしばる。

震える拳を握りしめながらも、彼は大人しく座り直した。


「ここで下手に手を出すと、まずい相手だということを、わかって。」


「……お心のままに……。」


彼は、それ以上逆らえなかった。


ヴィーラが、何かを確信しているのがわかる。

それに——彼女の表情が、悲しげにすら見えたから。


「もし、宝物庫から私に使われるものがあるとしたら——最も安全で、命の危険がなく、意識のみを眠らせる薬があるわ。」


「……!」


「私が知る"あの人"なら、きっとそうする。」


ヘルムデッセンは、まるで息が詰まるような表情を浮かべる。


「心配しないで。解毒方法があるの。」


ヴィーラの声は、驚くほど冷静だった。


「領地の中心街に"ケイオス"って名前の医者がいるの。彼以外を信用しちゃだめよ。」


「……ケイオス……。」


ヘルムデッセンは、今にも涙をこぼしそうな顔で、必死に彼女の言葉を聞いていた。


「必ず彼に治してもらって。……あきらめないで。」


ヴィーラの手が、そっと彼の頬に触れる。


「何年かかってもいいから。」


ヘルムデッセンの瞳から、静かに涙が零れた。


「……っ。」


彼は自分の意思とは関係なく、涙がこぼれ落ちていくのを止められなかった。


その姿が——愛おしくて。


ヴィーラは、思わず微笑んでしまう。


「それから……私に何かあっても、ヘルがちゃんと前に進めるように。」


彼女は、そっと囁いた。


「領地の寝室のベッドの下に、すべての日記と書類を隠してあるの。」


「……。」


「最近のものは、ディルプールに持たせて、先に領地に帰ってもらってるわ。」


「……ヴィーラ……。」


ヘルムデッセンの声が震える。


まるで、"俺を置いていかないでくれ"と、言いたげな顔で。


ヴィーラは、その涙を、優しく指先で拭った。


「……ヘル。」


彼の赤い瞳を真っ直ぐに見つめる。


「——大丈夫よ。心配しないで…死なないわ。」


彼の涙を拭いながら、ヴィーラは微笑み続けた。


彼は、ただ、彼女の顔を見つめることしかできなかった。


(何もできない……。)


自分は、戦場であらゆる敵を薙ぎ払ってきた。

どんなに強大な敵でも、剣さえあれば戦える。


しかし——


ヴィーラの言葉を聞いていると、今はただ、拳を握り締めることしかできない。


それが、悔しかった。


「……でも、きっと、あなたに沢山迷惑をかけるわ。」


ヴィーラは微笑みながら、小さく息を吐く。


「私が戻るまで……頑張ってね……。」


そう言った次の瞬間——


ヘルムデッセンは、ヴィーラの肩を引き寄せた。


「……っ!」


一瞬のうちに、彼の腕の中に包まれる。


そして——


深く、深く、口づけられた。


(……!!)


驚く間もなく、彼の唇が強く重なった。


熱を帯びたキスだった。

まるで、彼女をこのまま閉じ込めてしまいたいかのような。


彼の指が、そっとヴィーラの頬を撫でる。


(ヘル……。)


彼の腕の力は強く、それでいて優しかった。


——行かせたくない。


——奪われたくない。


彼の心の声が、唇を通して伝わってくるようだった。


「……ヴィーラ……。」


唇が離れた後、ヘルムデッセンは低く掠れた声で彼女の名を呼んだ。


彼の赤い瞳には、抑えきれない"愛"と"絶望"が混ざっていた。


「……戻ってこい。」


まるで、願うような声だった。


ヴィーラは静かに微笑み、彼の頬にそっと手を添えた。


「ええ。……必ず。」


馬車は、静かに進み続ける。

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