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月明かりが寝室の薄いカーテン越しに差し込む。
窓の外では、王都の祝宴がまだ続いているのか、かすかに賑わいの音が聞こえていた。
しかし、この寝室だけは、まるで時間がゆっくりと流れているかのように静かだった。
ヘルムデッセンは、ベッドの片隅で背を向け、深く息を吐く。
心臓が、まだ早鐘のように打っていた。
(……こんなことをするのか……。)
枕に顔を埋めながら、ゴロンと寝返りを打つ。
戦場ではどんな激戦でも平然と眠れたのに、今夜ばかりはどうにも落ち着かない。
「ね、眠れん……。」
ポツリと漏れた言葉に、隣にいたヴィーラがクスクスと微笑むのがわかった。
「……嫌だった?」
ふいに、彼女の柔らかい声が響く。
ヘルムデッセンは、反射的に振り向きかけたが、恥ずかしさに耐えきれずまた背を向けた。
「む……むしろ……。」
喉が乾く。どう言えばいいのかわからない。
唇を引き結びながら、正直な気持ちを搾り出した。
「……癖にならないか心配だ……。」
ヴィーラは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに口元を緩めた。
「ふふ、どうして?」
「……ヴィーラに負担をかけていた気がする。」
ようやく振り返ると、そこには穏やかに微笑むヴィーラの顔があった。
金色の髪が枕の上に広がり、薄いネグリジェのシルクが月光を受けてかすかに光る。
彼女は、そっと彼の髪に手を伸ばし、優しく撫でた。
「そんなことないわよ。」
彼女の指が、まるで子どもを宥めるように、ゆっくりと彼の髪を梳く。
ヘルムデッセンは、それに心地よさを感じながらも、同時に胸の奥がむず痒くなる。
「次は、子供が欲しいなら頑張らないとね?」
——バクンッ!
その一言に、彼の心臓が跳ね上がった。
「が、頑張る……。」
精一杯の声で答えると、ヴィーラはクスリと笑いながら、また彼の髪を優しく撫でる。
ヘルムデッセンは、彼女の細い指が額に触れるのを感じながら、しばらく黙ったままでいた。
——ずっと聞きたかったことがあった。
「ねぇ、そろそろ聞かせてくれない?」
ヴィーラの声が、少しだけ真剣な響きを帯びる。
「どうして2年間も私を放置してたのに、急に結婚式をしようって言ったの?」
ヘルムデッセンの胸の奥に、小さな痛みが走る。
彼は、ゆっくりと瞳を閉じた。
「………。」
そして——静かに目を開くと、ヴィーラに向き直った。
あの時のことを思い出す。
——過去、舞踏会の夜。
煌びやかな宮廷の大広間には、無数のシャンデリアが輝き、貴族たちの笑い声と音楽が満ちていた。
ヘルムデッセンは、その場にいることが、ただただ苦痛だった。
(……なんで、俺がこんな場所に。)
舞踏会など、彼にとっては無縁のものだった。
それなのに、無理やり王の命令で出席させられている。
(剣を握らせろ。こんな退屈な場所より、戦場の方がよほど落ち着く。)
そんなことを考えていた時だった。
——「男だけが働いて、女は黙って刺繍してろですって!?ふざけないで!!」
突然、遠くから凛とした声が響いた。
ヘルムデッセンは、思わずそちらに目を向ける。
大広間の一角、群がる貴族の輪の中心に、ひとりの少女がいた。
豪奢なドレスに身を包み、金色の髪を美しくまとめた彼女——
ヴィーラティーナ・ベルホック。
彼女は、その美しい顔に怒りの色を浮かべながら、貴族たちを睨みつけていた。
「女である前に、ヒトでしょう!? 仕事をするのに、男も女も関係ないわ!!」
「私は働くわ!!どれだけ反対されても!!」
周囲の貴族たちは、唖然とした顔で彼女を見ていた。
まるで「とんでもないことを言った」というように。
(……変わった女だ。)
ヘルムデッセンは、彼女を見つめながら、静かにそう思った。
女は黙って刺繍をしていろ?
そんなのが常識だと、彼も知っていた。
——彼は、8歳までは普通に王宮で育てられていた。
王族として、最低限の教育は受けていた。
だからこそ、ヴィーラが「おかしなこと」を言っているのが分かった。
(女が働く? …何を言ってるんだ、こいつは。)
しかし、それなのに——なぜか目が離せなかった。
度々、舞踏会に出るたびに、彼女は「女でも働きたい」と堂々と語っていた。
誰に何を言われようと、その信念は微塵も揺るがなかった。
さらに、ヴィーラが算術や経済学に長け、どれほど優秀なのかという噂も耳にしていた。
(そんな女が……いるのか?)
そして——あの日。
王が、ヘルムデッセンに告げた。
「さて、そなたには相応の褒美を取らせねばなるまい。この場にいる淑女たちの中より、望む者を伴侶として選ぶがよい。既に夫を持つ者は除くが、それ以外の者については、そなたの意思を尊重しよう」
その瞬間、ヘルムデッセンの脳裏に浮かんだのは、ただひとりの人物だった。
「——ヴィーラティーナ・ベルホック嬢を望みます。」
本能で思った。
(俺に必要なのは、コイツだ。)
その瞬間——
ヘルムデッセンは、すべてを決めたのだった。
―――――——
――———
ヴィーラがデュークデイモン辺境伯領の城に到着した日。
本当は、影から彼女の姿を見ていた。
(……俺は、何をしてしまったんだろう。)
遠くから馬車が到着し、扉が開く。
華奢な体で降り立つ彼女の姿を見た瞬間、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
(俺の一言が、彼女の人生を壊してしまったんじゃないか……?)
本能のままに、ただ"必要だ"と指名した。
しかし、それは本当に彼女のためになったのか?
この荒れ果てた城で、どうやって彼女を迎えればいいのか。
どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか——
まったく分からなかった。
だから、俺は隠れていた。
ただ、彼女の様子を見守ることしかできなかった。
——そして、衝撃を受けた。
俺はこの城を戦利品の倉庫代わりにしていた。
貴族や敵国から奪い取った品々を、乱雑に放り込み、ただの"物置"のようにしていた。
当然、人がまともに通れる隙間などなかった。
(こんな場所で、彼女が過ごせるはずがない。)
そう思っていたのに——
彼女は、それらを黙々と仕分けしていった。
何日も、何週間もかけて、きちんと整理し、使えるものを取り分け、
価値のあるものを適切に管理し、売却するべきものは市場に流した。
戦利品の山は、次第に領地を支える"財"へと変わっていった。
それだけではなかった。
日が経つにつれ、変化が現れた。
これまで滞っていた補給物資が、ようやく届くようになった。
長い戦のせいで不足していた食糧や武器、医療品までもが運ばれ、
兵士たちは久しぶりにまともな休息を得ることができるようになった。
(……まさか。)
俺は、その手配を誰が行ったのかすぐに察した。
ヴィーラだった。
戦に出ている俺に代わって、彼女がすべて手配してくれたのだ。
補給ルートの確保、軍需品の調達、物資の最適な分配。
誰よりも冷静に、効率的に、そして迅速に——。
その事実を知ったとき、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
(……俺は……。)
感極まった。
自分が命を賭けて守っている領地を、
彼女もまた、別の形で支えてくれている。
(……俺は、戦うことしかできないのに。)
彼女は戦場に立つことなく、兵士たちを守り、領地を発展させている。
俺が戦争に行き、戦が終わるたびに、彼女の様子を見に帰った。
窓から見える彼女の姿は、眩しくて仕方なかった。
いきいきと、働いていた。
喜々として、領地を発展させていた。
(——美しい。)
心の奥底から、そう思った。
俺は戦しか知らない。
剣を振るい、敵を討ち、領地を守ることしかできない。
しかし、彼女は——"生かして"いた。
兵士も、民も、城も、領地も。
その眩しさは、まるで陽光のようで——
彼女が生き生きと働けば働くほど、それが反射するように、領地が活性化していった。
——そして、二年が過ぎようとしていた。
気づけば、俺の領地は"立派な領地"になっていた。
そして、俺の妻は"美しすぎる妻"になっていた。
それに気づいた時、俺は初めて焦りを感じた。
(……どうすればいい。)
(どうすれば彼女をここに留まらせておける?)
俺のいない間に、彼女が誰かに求められたら?
他の貴族たちが、彼女の価値を知り、奪おうとしたら?
想像しただけで、どうしようもなく胸が苦しくなった。張り裂けそうだ。
気づけば——
俺はもう、どうしようもなく、心から本能がヴィーラティーナを愛していた。
(俺のすべてを捧げるから……俺のものになってくれ。)
そんな思いが、頭の中をぐるぐると巡っていた。
どうすれば、それを伝えられる?
どうすれば、彼女が俺の隣にずっといてくれる?
考えても答えが出なかった時、ふと、幼少期の記憶が蘇った。
——乳母に呼ばれ、王子が姫にプロポーズをする童話を聞いたあの日。
王子は、愛する姫に指輪を差し出し、誓いを立てた。
《私は、貴女を一生守る。》
《私は、貴女を幸せにする。》
《だから、私の妃になってくれ。》
……そうか。
プロポーズをすればいい。
自分のものだと、みんなに知らしめればいい。
「結婚式をしよう。」
あの時の俺は、ただ焦っていた。
彼女が誰かに奪われてしまう前に、正式に俺の妻として世界に示さなければならない。
(……俺のものだって、みんなに言っておかなければ……。)
でないと——
彼女は、誰かに取られてしまうかもしれないから。
それだけは、絶対に、許せなかった。
俺は剣を持たない戦に出たことがなかった。
だが、この時だけは、俺にとっての最大の"戦"だった。
ヴィーラティーナ・ベルホックを、この手に永遠に繋ぎ止めるために。
俺は、彼女にプロポーズをしにいった——。
――――――――
―――――—
ヘルムデッセンは、小さく息を吐く。
「ヴィーラ?……話が長くて寝てしまったか?」
隣に横たわる彼女の寝顔をじっと見つめる。
「……おやすみ、愛しいヴィーラ。」
そっと髪を撫でながら、囁くように告げた。
——ヴィーラは、寝てなどいなかった。
彼の言葉のひとつひとつが、まるで真っ直ぐな刃のように胸に刺さる。
(こんなに……純粋な気持ちで、私を見ていたなんて。)
泣いてしまいそうだった。
彼がどれほど不器用に、でも心から私を求めてくれていたのか、痛いほど伝わってくる。
だから——
ヴィーラは静かに目を閉じ、寝息を装った。
(……ありがとう、ヘル。…私はもう、あなたのものよ。)
胸にそっと誓いながら、彼の腕の中で、眠ったふりをし続け眠りに落ちた。




