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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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31/53

屋敷の一室に、ふんわりとした香りが広がった。

上質な布の香り、繊細な刺繍の糸の匂い、わずかに漂うローズのフレグランス。

それらすべてが、この部屋に並べられた豪奢な婚礼衣装の一部だった。


「奥様、専属のドレスショップから婚礼衣装が届きました。」


侍女が恭しく告げると、ヴィーラは椅子から立ち上がり、目の前に広がる純白のドレスに目を奪われた。


美しい刺繍が施された繊細なレース。

光を受けてきらめく宝石が散りばめられたベール。

何層にも重ねられたシルクが、しなやかに流れるように揺れる。


"やっと、この日が来た"


彼女の胸の奥で、何かがじんわりと温かく広がっていく。


——「ヘルが結婚式をしようって言ってから色々あったけど、やっと結婚式ができそうね。」


感慨深く呟くと、背後から近づいてきたヘルムデッセンが、ぽつりと一言。


「あぁ……。」


それは、いつもの彼らしからぬ、どこか迷いを孕んだ声だった。


ヴィーラは彼の横顔をちらりと見上げる。

端正な顔立ちは変わらないが、どこか沈んだような影が瞳に落ちていた。


「どうしたの?」


ヘルムデッセンは、ゆっくりとドレスを見つめたまま、低く囁くように言った。


「……俺は、もっと色々学んでおくべきだった。」


ヴィーラは瞬きをする。


「こんなにたくさん苦労をかけて……俺なんかで、本当に良いのかなって……。」


その言葉が、部屋の空気をゆるやかに沈ませた。


ヘルムデッセンは、剣一つで戦場を駆け抜けた男だった。

領地経営も貴族社会の作法も知らずに、ただ"強さ"だけを持ってここに立っていた。

だが今、その"強さ"だけでは足りないことを痛感し、彼は自分に疑問を抱いている。


(これは……まさか……。)


ヴィーラは、彼の落ち込んだ顔をじっと見つめ、心の中で確信する。


(もう結婚して二年半たとうとしているけど、これは……マリッジブルーってやつ?)


戦場の鬼と呼ばれる男が、まさかの結婚に対する不安を抱えているとは。

ヴィーラは思わず微笑みを浮かべそうになったが、真剣に悩んでいる彼を前に、それはぐっと堪えた。


代わりに、彼の腕をそっと引き、自分の方へと向かせる。

そして、真っ直ぐに彼を見上げた。


「少なくとも私は……着飾って笑顔を浮かべる毎日でなく、こうしてやりがいを感じられる仕事ができること、あなたに感謝してるわ。」


ヴィーラの言葉に、ヘルムデッセンの瞳が揺れる。


「……ヴィーラ……?」


彼女はゆっくりと微笑み、彼の手をそっと握る。


「あなたがいなかったら、私はただ"貴族の娘"として、何もできずに過ごしていたでしょうね。」

「でも今は違うわ。私は自分の力で未来を作ることができる。あなたがその"自由"を与えてくれたのよ。」


ヘルムデッセンは驚いたように彼女を見つめた。


彼女の強さを知っている。

その知性も、才覚も、誰よりも優れていることも。


でも、彼女が "自分の存在を肯定してくれている" という事実は、彼の胸に温かく、深く染み入る。


「……俺は、君に……何を与えられているんだろうな。」


呟くような言葉。


ヴィーラはくすっと笑いながら、そっとヘルムデッセンの手を握り返した。


「十分すぎるほど、もらっているわ。」


彼女の言葉に、ヘルムデッセンは深く息を吸い込む。

静かに彼女を見つめる瞳には、愛しさと安堵が滲んでいた。


「……ヴィーラ。」


彼はゆっくりと顔を近づける。

ヴィーラも、彼の意図を察し、瞳を閉じる。

距離が縮まり、唇が触れそうになった、その瞬間——


「ヘルムデッセン様ー!手伝いに来ましたー!!」


執務室の扉が勢いよく開き、ディルプールの快活な声が部屋に響き渡った。


「……っ!」


ヘルムデッセンの肩がピクリと揺れる。

ヴィーラも驚きつつも、思わず吹き出しそうになった。


「……あ、あぁ……。」


ヘルムデッセンは、咳払いをしながらゆっくりと後ろへ退く。

先ほどまでの甘い雰囲気は、一瞬で崩れ去ってしまった。


ディルプールはまったく気づいていない様子で、にこにこと笑いながら荷物を運び込む。


「ちょうど婚礼衣装の試着をされると聞いたので、手伝いに参りました!」


(……完全に邪魔されたな。)


ヘルムデッセンは内心、ディルプールを睨みつけたかったが、そんなことを言える立場でもなく、静かに息を吐いた。


「……そうか。」


ヴィーラは肩をすくめながらも、「では、始めましょうか」と優雅に微笑む。

こうして、二人は婚礼衣装の試着を始めた。





試着室の仕切りを隔て、それぞれ衣装に袖を通す。

ヘルムデッセンは普段の軍装とは違い、格式高い刺繍が施された白の正装を身にまとっていた。

ヴィーラは、シルクとレースが織りなす純白のドレスに身を包む。


「……準備できたわ。」


ヴィーラが静かにカーテンを開ける。


そして、目の前に立っていたのは——


「……。」


ヘルムデッセンは息を飲んだ。


目の前にいるヴィーラは、まるで幻想のようだった。

陽の光を受けて柔らかに揺れる金の髪。

純白のドレスが、彼女の美しさを際立たせる。


「……綺麗だ。」


無意識に呟いた言葉に、ヴィーラはふっと微笑む。


「あなたも、なかなかよ。」


彼女の黄金の瞳が、静かに彼を見つめる。

普段は戦場でばかり見てきた彼が、こうして格式ある衣装に身を包むと、王族のような威厳すら感じさせた。


互いに視線を交わし、次第に胸が高鳴るのを感じる。


そして——

ふとした拍子に、二人は近づき、唇が触れそうになった、その時——


「サイズ変わってなくてよかったですね!手紙で報告でよろしいですか?」


ディルプールが元気な声で言いながら、返事を待つ。


「……。」


「……。」


またしても邪魔が入ったことに、ヘルムデッセンはぎこちなくヴィーラから離れる。

が——すぐに振り返り、ディルプールに低い声で命令を下した。


「お前、手紙でなく領地へ行って直接伝えてこい。」


「へ? でもサイズもぴったりですし、手紙でも十分では?」


「早く行け……。」


ヘルムデッセンの瞳が鋭く光る。


「ひっ……! 了解しましたあああ!!」


ディルプールは一瞬で青ざめ、弾かれたように屋敷を飛び出していった。


扉が閉まると、ヴィーラは一瞬沈黙し——次の瞬間、吹き出すように笑い出した。


「ふふふっ、あはははっ。おっかし。」


ヘルムデッセンも、つられるように口元を緩め、笑みをこぼす。


「……まったく、アイツは空気が読めないな。」


「それがディルプールのいいところよ。」


二人はしばらく笑い合いながら、静かに夜を迎えることになった。


――――—————

―――————


その夜。


ヴィーラの寝室は、暖炉の火が静かに揺れていた。

柔らかなベッドの上、二人はいつものように横になっていた——が。


(……なんだか、今日は距離があるわね。)


ヴィーラは薄暗がりの中で、隣に寝転ぶヘルムデッセンをちらりと見る。

普段なら、彼は当然のようにヴィーラを抱きしめながら寝る。


だが今日は——どことなく"距離はないが、距離がある"。


(……さては、学んだのね。)


ヴィーラは、わざと意地悪な声で囁く。


「ヘル、あててあげましょうか?」


一瞬で、ヘルムデッセンの体が硬直する。


「……あたってるよ。」


低く、消え入りそうな声。


ヴィーラは、くすくすと笑った。


「ふふふ。とうとう学んだのね。」


ヘルムデッセンは、枕に顔をうずめながら、ぼそっと答えた。


「……学んださ。」


顔を赤らめながら、目を逸らす姿に、ヴィーラはますます愉快な気分になる。


(彼はとうとう房事について学んだそうだ。)


「学んだからって、他の女性で試そうとしないでね?」


ヴィーラが微笑みながら、さらりと言うと、ヘルムデッセンはさらに顔を真っ赤にしながら、ぎこちなくうつ伏せになった。


「……お心のままに。」


そう言いながらも、耳まで赤く染まっている。


ヴィーラは、そんな彼を眺めながら、小さく笑う。


「ヘル……おやすみなさい。」


「……あぁ、おやすみ。」


静かに目を閉じ、二人はゆっくりと眠りに落ちていった。


暖かな夜の静寂に包まれながら——。

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