㉛
屋敷の一室に、ふんわりとした香りが広がった。
上質な布の香り、繊細な刺繍の糸の匂い、わずかに漂うローズのフレグランス。
それらすべてが、この部屋に並べられた豪奢な婚礼衣装の一部だった。
「奥様、専属のドレスショップから婚礼衣装が届きました。」
侍女が恭しく告げると、ヴィーラは椅子から立ち上がり、目の前に広がる純白のドレスに目を奪われた。
美しい刺繍が施された繊細なレース。
光を受けてきらめく宝石が散りばめられたベール。
何層にも重ねられたシルクが、しなやかに流れるように揺れる。
"やっと、この日が来た"
彼女の胸の奥で、何かがじんわりと温かく広がっていく。
——「ヘルが結婚式をしようって言ってから色々あったけど、やっと結婚式ができそうね。」
感慨深く呟くと、背後から近づいてきたヘルムデッセンが、ぽつりと一言。
「あぁ……。」
それは、いつもの彼らしからぬ、どこか迷いを孕んだ声だった。
ヴィーラは彼の横顔をちらりと見上げる。
端正な顔立ちは変わらないが、どこか沈んだような影が瞳に落ちていた。
「どうしたの?」
ヘルムデッセンは、ゆっくりとドレスを見つめたまま、低く囁くように言った。
「……俺は、もっと色々学んでおくべきだった。」
ヴィーラは瞬きをする。
「こんなにたくさん苦労をかけて……俺なんかで、本当に良いのかなって……。」
その言葉が、部屋の空気をゆるやかに沈ませた。
ヘルムデッセンは、剣一つで戦場を駆け抜けた男だった。
領地経営も貴族社会の作法も知らずに、ただ"強さ"だけを持ってここに立っていた。
だが今、その"強さ"だけでは足りないことを痛感し、彼は自分に疑問を抱いている。
(これは……まさか……。)
ヴィーラは、彼の落ち込んだ顔をじっと見つめ、心の中で確信する。
(もう結婚して二年半たとうとしているけど、これは……マリッジブルーってやつ?)
戦場の鬼と呼ばれる男が、まさかの結婚に対する不安を抱えているとは。
ヴィーラは思わず微笑みを浮かべそうになったが、真剣に悩んでいる彼を前に、それはぐっと堪えた。
代わりに、彼の腕をそっと引き、自分の方へと向かせる。
そして、真っ直ぐに彼を見上げた。
「少なくとも私は……着飾って笑顔を浮かべる毎日でなく、こうしてやりがいを感じられる仕事ができること、あなたに感謝してるわ。」
ヴィーラの言葉に、ヘルムデッセンの瞳が揺れる。
「……ヴィーラ……?」
彼女はゆっくりと微笑み、彼の手をそっと握る。
「あなたがいなかったら、私はただ"貴族の娘"として、何もできずに過ごしていたでしょうね。」
「でも今は違うわ。私は自分の力で未来を作ることができる。あなたがその"自由"を与えてくれたのよ。」
ヘルムデッセンは驚いたように彼女を見つめた。
彼女の強さを知っている。
その知性も、才覚も、誰よりも優れていることも。
でも、彼女が "自分の存在を肯定してくれている" という事実は、彼の胸に温かく、深く染み入る。
「……俺は、君に……何を与えられているんだろうな。」
呟くような言葉。
ヴィーラはくすっと笑いながら、そっとヘルムデッセンの手を握り返した。
「十分すぎるほど、もらっているわ。」
彼女の言葉に、ヘルムデッセンは深く息を吸い込む。
静かに彼女を見つめる瞳には、愛しさと安堵が滲んでいた。
「……ヴィーラ。」
彼はゆっくりと顔を近づける。
ヴィーラも、彼の意図を察し、瞳を閉じる。
距離が縮まり、唇が触れそうになった、その瞬間——
「ヘルムデッセン様ー!手伝いに来ましたー!!」
執務室の扉が勢いよく開き、ディルプールの快活な声が部屋に響き渡った。
「……っ!」
ヘルムデッセンの肩がピクリと揺れる。
ヴィーラも驚きつつも、思わず吹き出しそうになった。
「……あ、あぁ……。」
ヘルムデッセンは、咳払いをしながらゆっくりと後ろへ退く。
先ほどまでの甘い雰囲気は、一瞬で崩れ去ってしまった。
ディルプールはまったく気づいていない様子で、にこにこと笑いながら荷物を運び込む。
「ちょうど婚礼衣装の試着をされると聞いたので、手伝いに参りました!」
(……完全に邪魔されたな。)
ヘルムデッセンは内心、ディルプールを睨みつけたかったが、そんなことを言える立場でもなく、静かに息を吐いた。
「……そうか。」
ヴィーラは肩をすくめながらも、「では、始めましょうか」と優雅に微笑む。
こうして、二人は婚礼衣装の試着を始めた。
・
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試着室の仕切りを隔て、それぞれ衣装に袖を通す。
ヘルムデッセンは普段の軍装とは違い、格式高い刺繍が施された白の正装を身にまとっていた。
ヴィーラは、シルクとレースが織りなす純白のドレスに身を包む。
「……準備できたわ。」
ヴィーラが静かにカーテンを開ける。
そして、目の前に立っていたのは——
「……。」
ヘルムデッセンは息を飲んだ。
目の前にいるヴィーラは、まるで幻想のようだった。
陽の光を受けて柔らかに揺れる金の髪。
純白のドレスが、彼女の美しさを際立たせる。
「……綺麗だ。」
無意識に呟いた言葉に、ヴィーラはふっと微笑む。
「あなたも、なかなかよ。」
彼女の黄金の瞳が、静かに彼を見つめる。
普段は戦場でばかり見てきた彼が、こうして格式ある衣装に身を包むと、王族のような威厳すら感じさせた。
互いに視線を交わし、次第に胸が高鳴るのを感じる。
そして——
ふとした拍子に、二人は近づき、唇が触れそうになった、その時——
「サイズ変わってなくてよかったですね!手紙で報告でよろしいですか?」
ディルプールが元気な声で言いながら、返事を待つ。
「……。」
「……。」
またしても邪魔が入ったことに、ヘルムデッセンはぎこちなくヴィーラから離れる。
が——すぐに振り返り、ディルプールに低い声で命令を下した。
「お前、手紙でなく領地へ行って直接伝えてこい。」
「へ? でもサイズもぴったりですし、手紙でも十分では?」
「早く行け……。」
ヘルムデッセンの瞳が鋭く光る。
「ひっ……! 了解しましたあああ!!」
ディルプールは一瞬で青ざめ、弾かれたように屋敷を飛び出していった。
扉が閉まると、ヴィーラは一瞬沈黙し——次の瞬間、吹き出すように笑い出した。
「ふふふっ、あはははっ。おっかし。」
ヘルムデッセンも、つられるように口元を緩め、笑みをこぼす。
「……まったく、アイツは空気が読めないな。」
「それがディルプールのいいところよ。」
二人はしばらく笑い合いながら、静かに夜を迎えることになった。
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―――————
その夜。
ヴィーラの寝室は、暖炉の火が静かに揺れていた。
柔らかなベッドの上、二人はいつものように横になっていた——が。
(……なんだか、今日は距離があるわね。)
ヴィーラは薄暗がりの中で、隣に寝転ぶヘルムデッセンをちらりと見る。
普段なら、彼は当然のようにヴィーラを抱きしめながら寝る。
だが今日は——どことなく"距離はないが、距離がある"。
(……さては、学んだのね。)
ヴィーラは、わざと意地悪な声で囁く。
「ヘル、あててあげましょうか?」
一瞬で、ヘルムデッセンの体が硬直する。
「……あたってるよ。」
低く、消え入りそうな声。
ヴィーラは、くすくすと笑った。
「ふふふ。とうとう学んだのね。」
ヘルムデッセンは、枕に顔をうずめながら、ぼそっと答えた。
「……学んださ。」
顔を赤らめながら、目を逸らす姿に、ヴィーラはますます愉快な気分になる。
(彼はとうとう房事について学んだそうだ。)
「学んだからって、他の女性で試そうとしないでね?」
ヴィーラが微笑みながら、さらりと言うと、ヘルムデッセンはさらに顔を真っ赤にしながら、ぎこちなくうつ伏せになった。
「……お心のままに。」
そう言いながらも、耳まで赤く染まっている。
ヴィーラは、そんな彼を眺めながら、小さく笑う。
「ヘル……おやすみなさい。」
「……あぁ、おやすみ。」
静かに目を閉じ、二人はゆっくりと眠りに落ちていった。
暖かな夜の静寂に包まれながら——。




