㉚
朝焼けが王都の空を赤く染める頃、
ヴィルトン・ベルホックは すでに行動を開始していた。
王都の門を出た先、視界の限りに広がる "人の海"。
1億人規模の ガーナン帝国の捕虜たち——。
彼らの手には鎖も縄もない。
しかし、 逃げる者はいない。
それは、彼らの身に刻まれた "魔法契約" のせいだった。
契約がある限り、彼らは "反逆"の選択肢を持たない。
そして今、彼らには新たな役割が課せられていた。
"国境の外壁のさらに外に海を引く"——。
それを実現するための 巨大な穴を掘る作業員 となることが、彼らの 新たな生 だった。
「さぁ、出発するぞ!」
ヴィルトンの号令が響くと、ベルホック軍の兵士たちが 的確な動き で捕虜たちを整列させる。
誰も騒がない。
誰も反抗しない。
捕虜たちは不安げな表情を浮かべながらも、列に従うしかなかった。
それを 見下ろすヴィルトン は、まるで 戦場の覇者 のように 馬上で優雅に微笑む。
「戦争で滅びるのも地獄だが、生かされたまま働かされるのもまた地獄だな。」
その言葉に、感情はなかった。
そこにあるのは、ただの合理的な判断。
(生かして使うか、殺して終わるか……。)
彼は この選択 を "情け" だとは思っていなかった。
生きる道を与えるのは、戦争における "最も効率の良い処理" だからだ。
しかし、それが どれほど過酷な未来なのか を、彼は理解していた。
ガーナン帝国の捕虜たちは 祖国を失い、かつての誇りを奪われた。
彼らの前には、 "自由のない人生" だけが残されている。
だが——
"死ぬよりはマシ"。
ヴィルトンは、それを わかっているからこそ、何の憐れみも抱かない。
「まぁ、心配するな。食事は与えるし、労働環境も悪くはないさ。存分に汗を流してもらうぞ!」
ヴィルトンの 明るすぎる声 が響く。
捕虜たちの間に どよめき が広がる。
「労働環境が悪くない……?」
「まさか……何かの罠では……。」
「でも、死刑にはならなかった……。」
静かな 希望と諦めの間 で揺れる捕虜たちの表情を、ヴィルトンは 楽しげに観察する。
(……生かされた先に何が待つのか、じっくりと味わうがいい。)
捕虜たちを乗せた 馬車の列が、朝焼けの光の中へと動き出していく。
その場に 残されたヴィルトン は、去っていく背中を見送りながら、静かに息をついた。
「さて……戦争が終われば、次は 国づくり だな。」
——戦争の終わりは、次の "始まり" でもある。
ヴィルトンの瞳は、すでに 次の戦場 を見据えていた——。
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一方、執務室では。
「……なんて規模なの。」
ヴィーラは、目の前に "山" のように積み上げられた戦利品を見つめ、そっと額を押さえた。
宝飾品、金貨、貴族の家宝、名だたる武具、そして膨大な財産証書。
どれも ガーナン帝国から回収されたもの だった。
王国史に残る戦利品の量——といっても過言ではない。
これらすべてを "有効活用" するのが、彼女の役目だった。
「……さて、どこから仕分けを始めましょうか。」
ヴィーラは筆を取り、机の上に並べられた 戦利品用途のリスト に目を落とした。
王室への献上品(表向き)
ベルホック家の資産(実質的な利益)
デュークデイモン領の発展資金(ヘルムデッセンの領地へ)
売却品(市場に流し、金に変える)
外交用の贈答品(友好国との取引に)
手際よく分類しながら、同時に別の案件にも目を通す。
結婚式の準備——。
こちらも順調に進んではいるが、
招待客の調整や式典の準備、ドレスの仕立て、料理の選定……
やるべきことは 山積み だった。
ヴィーラは素早く指示を出しながら、
昨夜の ヘルムデッセンの姿 を思い出していた。
——「俺の身も心も……ヴィーラのものだ。」
彼は、まるで抜け殻のようだった。
ヴィルトンに "地獄" を見せられた結果、
自分の些細な誤解から 帝国ひとつが滅びかけた ことを理解し、
心が砕けそうになっている。
(……早く、立ち直ってもらわないと。)
筆を動かしながら、ヴィーラは無意識に 溜息をついた。
ヘルムデッセンは、確かに不器用な男だ。
だが、彼の 本能 というものは、時に恐ろしく鋭い。
(……わかってるんだか、わかってないんだか。)
ヘルムデッセンは、無意識のうちに "大切なもの" を守ろうとする。
そして、その本能が 私を選んだ。
選んだのは彼自身——。
(だったら、しっかりしなさい。)
彼は、ただ剣を振るうだけの 戦士 ではない。
彼は、デュークデイモン領を背負う 領主 であり、 私の夫 なのだから。
ヴィーラは小さく微笑むと、 新たな書類を手に取った。
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また、その頃、ヘルムデッセンは屋敷の一室にこもり、ひたすら書類と向き合っていた。
彼の前に広がるのは、デュークデイモン領の 財政資料、農業政策、軍の管理体制、税収の仕組み、貴族社会のルール——。
まるで要塞のように積み上げられた文書の山が、彼を圧倒するかのようにそびえ立っていた。
「……っ。」
ヘルムデッセンは、握りしめた羽ペンを一瞬だけ持ち上げ、また静かにインク壺に浸す。
滑らかな羊皮紙の上を走らせようとするが、頭の中に叩き込まねばならない情報の多さに、手が止まる。
(これは……剣で斬り伏せるより厄介だな。)
戦場で敵を討つことならば、身体が覚えている。
だが、数字と文字を相手にすることには、未だに慣れない。
それでも——
ヴィーラがこれを "戦わずして戦う" ために、日々一人で背負っていたことを考えると、投げ出すわけにはいかなかった。
(こんなにも複雑なことを、ヴィーラはずっと……たった一人で……。)
数字のひとつひとつが、民の生活に直結している。
税率が1%変わるだけで、農民の生活が苦しくなるかもしれない。
兵士の給金が遅れれば、軍の士気に影響が出る。
——それを理解するまでに、彼はあまりにも時間をかけすぎてしまった。
「……俺は、こんなことすら分かっていなかったのか……。」
奥歯を噛みしめ、ヘルムデッセンは静かに拳を握る。
(俺が、もっと早くこの"戦い"を学んでいれば……。)
戦争の勝敗だけが、領地を守る手段ではない。
領地経営のすべてが、国を守るための戦いなのだと——今になってようやく痛感していた。
「……もう、間違えたくない。」
静かに呟くと、彼は羽ペンを持ち直し、再び羊皮紙の上に記す。
—— 1日でも早く、ヴィーラの手伝いをするために。
これが、今のヘルムデッセンにとっての "戦場" だった。
そして——この戦いに、彼は絶対に負けるわけにはいかなかった。
――――――――
――数日後
————————
「ヴィーラ!!!」
昼下がりの静かな屋敷に、
突如として 雷鳴のような声 が響き渡った。
—— ヘルムデッセンの声だった。
ヴィーラは驚いて筆を止め、
執務室の扉に視線を向ける。
「……何?」
次の瞬間——。
ドン!!!!!
勢いよく扉が開き、
そこに 真っ赤な瞳を輝かせた男 が立っていた。
「君って! 最高だ!!!」
「……え?」
言葉の意味を理解する間もなく——。
ヒュッ!!
ふわりと体が浮いた。
「きゃっ!? ちょっ、ヘル!?」
ヘルムデッセンは 迷いもなく ヴィーラを抱き上げると、
そのまま 勢いよく一回転 する。
「なっ、何!? 今度は何を習ったの!?」
戸惑うヴィーラ に構わず、
ヘルムデッセンは 心からの感動 を込めて叫んだ。
「ヴィーラ……君は俺を、どこまで守ろうとしているんだ!?」
「……は?」
彼の言葉に、ヴィーラの眉が僅かに動く。
(……何を言っているの?)
ヘルムデッセンの腕の中で、彼の顔を 改めて見上げる。
——そこには、
いつもの 戦場の鬼 の姿はなかった。
彼の瞳は、ただ 深い感動 に揺れていた。
まるで 宝物を見つけた子供のように。
「俺は、今まで……。戦場で生きることしか考えてこなかった。誰もが、俺を"戦士"としてしか見ていなかった。……でも、君は違った。君は、俺が"戦士"じゃなくなった時のことまで考えていた……。俺が、戦場で剣を振るえなくなっても、生きられるように。俺が、万が一王族に狙われたとしても、守られる未来を作ってくれていた……!君は、俺の"生きる未来"を築いてくれていたんだ……!!」
ヘルムデッセンの声は震えていた。
彼はようやく気づいたのだ。
ヴィーラが 用意した未来の構造——
それは 彼の命を、絶対に守るためのもの だった。
万が一、王族が俺に何かしてきても——
この国の仕組みごと、俺を守るように作られている。
ヘルムデッセンは、拳を握る。
(俺は……ここまで考えられたことがあったか?)
今まで 戦場 で生きてきた。
勝つか、死ぬか、それだけの世界で生きてきた。
だが、ヴィーラは もっと先の未来 を見据えていた。
——"俺が生きる未来"。
——"俺が戦わなくてもいい未来"。
——"俺が、俺のままでいられる未来"。
(……この人は、俺を戦士ではなく、一人の人間として見てくれていたんだ。)
ヴィーラが、どれほど 自分のことを大切に思ってくれていたのか。
その 重み を、ようやく理解した。
(俺は……こんなにも……。)
「ヴィーラ……」
彼は、もう 言葉が出なかった。
ただ、強く抱きしめることしかできなかった。
ヴィーラは 驚いたまま 彼の肩に手を置く。
「ヘル……?」
「……ありがとう。」
彼は、そっと呟いた。
「俺は……君を、絶対に守る。…命に代えても。戦場だけじゃない。君が築いてくれた、この未来ごと——俺は、守り抜く。」
ヴィーラの心が わずかに揺れた。
(こんな真剣な顔……初めて見たかも。)
「……ふふっ。」
「そんなの当然でしょ。」
ヴィーラは、ヘルムデッセンの頬に手を当て、
微笑みながら そっと囁く。
「だって、私はあなたの妻なんだから。」
その言葉に、ヘルムデッセンの 胸が熱くなる。
(……ああ。)
(俺は、本当に……この人が、愛おしくてたまらない。)
彼は、もう一度 強く、強く、ヴィーラを抱きしめた。
執務室の窓の外、昼下がりの陽の光が 優しく二人を包んでいた——。




