③
夜の静けさが城を包み込む中、ヴィーラは風呂上がりの火照った頬を冷ますようにゆっくりと廊下を歩いていた。髪を軽く乾かしながら、柔らかな寝間着が肌に心地よい。。窓の外では月明かりが静かに差し込み、石造りの廊下にほのかな光を落としていた。
その穏やかな時間を壊すように、寝室の前で妙な動きをする人影が目に入る。
ヘルムデッセンだった。
彼は枕を抱え、寝巻のままで部屋の前をうろうろとしている。
「ヘル……?」
ヴィーラが声をかけると、ヘルムデッセンはビクリと肩を揺らし、慌てて枕を背中に隠した。
「あっ、いや……これは……その……」
目を泳がせながら、どうにか誤魔化そうとする姿は、いつもの堂々とした戦場の英雄とは程遠い。
「今度はどうしたのですか?」
ヴィーラは首をかしげながら尋ねる。
ヘルムデッセンはちらりと彼女を見つめ、躊躇いがちに小さな声で呟いた。
「……一緒に、寝たくて……」
その言葉に、ヴィーラは一瞬言葉を失う。
帰ってきてから彼はずっと自室で寝ていたはずなのに、どうして突然そんなことを言い出すのだろうか。
けれど、目の前の彼の姿を見ると、どうしても可愛い子供のように見えてしまう。
思わず微笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「いいですよ。」
その言葉を聞いた途端、ヘルムデッセンの顔がぱっと明るくなった。
まるで子犬のように嬉しそうに笑う彼の姿に、ヴィーラはついクスリと笑ってしまう。
二人はそのまま寝室へと入った。
(まあ、もともと夫婦の部屋として使う予定の部屋だったし)
そんなことを思いながら、ヴィーラはベッドに腰を下ろした。
ヘルムデッセンも続いてベッドに座るかと思いきや、彼はヴィーラの横に立ったまま、もじもじと足を動かしている。
「ヘル?」
ヴィーラが不思議そうに見上げると、ヘルムデッセンは唇をぎゅっと結び、視線をさまよわせた。
どうやら、ベッドに入るタイミングがつかめないらしい。
そんな彼の姿が、どこか健気で微笑ましく感じられ、ヴィーラは小さく息を吐くと、ベッドをポンポンと叩いた。
「ほら、座ってください。」
その指示に、ヘルムデッセンは素直にちょこんとベッドの端に座る。
大きな体を小さくまとめようとしている様子が、なんだかペットのように見えてしまい、ヴィーラはまたしてもクスリと笑った。
「さ、横になりましょう。」
ヴィーラは自然な動作でベッドに横になり、軽く布団をかける。そして、少し躊躇いながらも、ヘルムデッセンの腕を軽く引いた。
「ほら、こうやって……」
ヘルムデッセンはヴィーラの動きに合わせ、ぎこちなくベッドに横たわる。
大きな体が隣に横たわると、布団が少し持ち上がるような感覚がした。
お互いに微妙な沈黙が流れる。
ヴィーラはふと、隣のヘルムデッセンの長い髪に指先を触れた。
「髪は伸ばしているのですか?」
何気なく聞くと、ヘルムデッセンは少しだけ視線を上げ、考えるように口を開いた。
「いや、切ってもすぐ伸びるし……。それに、1日でも早くヴィーラに会いたくて……切る時間がなかった。」
その言葉に、ヴィーラは一瞬動きを止める。
(私に会いたくて……?)
思わず胸がくすぐったくなるような気持ちになるが、照れ隠しのように、次の言葉を口にした。
「あの……不思議に思っていたのですが、私のこと、好きなんですか?」
問いかけると、ヘルムデッセンは一瞬驚いたように目を見開き、次の瞬間、眉をぐっと寄せた。
「好きに決まってるだろ!!」
即答だった。
ヴィーラはその勢いに思わず肩をすくめた。
「あ、はい。失礼しました。……でも、いつから?」
「そ、そんなもん知るか!」
ヘルムデッセンは顔を赤くしながらそっぽを向いた。
その姿が、なんだか可愛らしく見えてしまう。
(本当に、私のことが好きなのね……)
心の中でそう考えると、なんだか温かい気持ちになった。
ふと、別のことが気になり、ヴィーラは静かに問いかける。
「何歳から戦争に?」
ヘルムデッセンは少しの間沈黙し、それからぽつりと答えた。
「……8歳。」
「8……ですって?」
ヴィーラは息をのんだ。
8歳といえば、普通の貴族の子供ならまだ学問や礼儀作法を学び、家族のもとで穏やかに育つ年齢だ。それなのに、この男は戦場にいたというのか。
どうして8歳で戦場に行かなくてはならなかったのか。
本当ならすぐにでも聞きたかったが、色々考えると、まだ聞いてはいけない気がした。
彼がどんな過去を生きてきたのか、簡単に踏み込むべきではない気がして――。
ヴィーラはそっとヘルムデッセンの頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「では、よく頑張ってこられましたね。ヘル。」
ヘルムデッセンの体がピクリと反応し、次の瞬間、顔を真っ赤にして布団を頭まで引っ張った。
「……寝る!!」
ヴィーラはその姿に微笑みながら、布団の上から軽くぽんぽんと叩いた。
「はい、おやすみなさい。」
部屋の中は静まり返り、穏やかな空気が漂う。
―――――――――
―――――――
翌朝。
柔らかな朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を穏やかに照らしていた。静寂の中で、ヴィーラはゆっくりとまぶたを開ける。
視界に映ったのは、ヘルムデッセンだった。
彼はベッドの端に座り、ヴィーラの髪をそっと指先で撫でていた。
まるで宝物に触れるかのような、慎重で優しい仕草。その赤い瞳は穏やかで、どこか愛おしさに満ちていた。
(……何をしているの?)
ぼんやりとした意識の中で彼の視線を感じ、ヴィーラはゆっくりと目を開けた。
すると、ヘルムデッセンの動きがピタリと止まり、まるで不意を突かれたように目を見開く。
「……!」
彼は一瞬の間を置いた後、ハッとしたように顔を赤らめ、そっぽを向いた。
不器用に咳払いをしながら、視線を逸らし、慌てて立ち上がる。
「お、おはよう。」
ヴィーラは、まだ半分眠気の残るまま、穏やかに微笑みながら起き上がった。
「おはようございます。」
彼の不自然な様子に小さな笑みを浮かべながら、ヴィーラは髪を手ぐしで梳かし、ふと気になったことを口にする。
「髪の毛、切ってみますか?」
ヘルムデッセンは、意外そうにこちらを振り返った。
「……切ったほうがいいか?」
珍しく真剣に悩んでいる様子だった。
ヴィーラは彼の長い黒髪をじっと見つめ、考える。
「う~~ん。この体格ですから、切ったほうが清潔感があって印象がよくなるかもと……。」
ヘルムデッセンは無骨な戦士だが、これから王都で結婚式を開くことになる。その場に集まる貴族たちに与える印象を考えると、すっきりと整えておいたほうが無難だった。
「切りましょうか?」
そう提案すると、ヘルムデッセンの目がぱっと輝いた。
「切ってくれるのか!?」
想像以上に喜んでいる様子に、ヴィーラは驚きながらも小さく頷く。
「まぁ、はい。」
彼の反応があまりにも嬉しそうで、思わず微笑んでしまう。
(ここへ来た頃は、自分で切っていたし。今もそうだけど……)
領地での生活に慣れた今では、使用人たちの髪をたまに切ってあげることもあった。切り慣れているので、ヘルムデッセンの髪を整えること自体は難しくない。
けれど、こんなに喜んでいるのだから――。
(当分は、内緒にしておこう。)
そう心の中でくすりと笑いながら、彼の黒髪を優しく撫でた。