㉙
時は過ぎ、一ヶ月が経った。
ヴィーラティーナは王都の屋敷で執務に追われていた。
山積みの書類に目を通し、貴族たちから送られてくる報告を整理する。
結婚式の準備も着々と進み、招待状の返答が次々と届く中——
「奥様、ヘルムデッセン様が王都入りされたとの報告が入りました。」
ディルプールが執務室の扉を叩き、静かに告げた。
(ヘルが……帰ってきた。)
ヴィーラは筆を止め、手元の書類に目を落とす。
一瞬だけ胸がざわつくが、表情は変えない。
(ということは、あと数分かしら?)
彼女は何事もなかったかのように、再びペンを取った。
報告をまとめながら、気づけば机の上の書類は半分ほど片付いていた。
(そろそろかしら。)
淡々と処理を終え、椅子から立ち上がる。
冷静さを保とうとしていたが、指先に少し力が入っていることに気づいた。
それが、ほんの少しだけ自分の感情を表しているようで、内心苦笑する。
扉へと歩き、ゆっくりと手をかける。
「ヘル……」
扉を開けた瞬間、そこに立っていたのは——
髪を濡らし、髭を剃り落としたヘルムデッセンだった。
どうやら湯浴みをしたばかりなのだろう。
水滴が首筋を伝い、清潔感のある香りが微かに漂う。
けれど——
「…………。」
彼の赤い瞳は、虚ろだった。
まるで生気を失い、戦場に打ち捨てられた死人のような目。
彼がどれほどの地獄を見てきたのか、その瞳がすべてを物語っていた。
「ヘル……帰ってたの?」
ヴィーラが声をかけると、ヘルムデッセンは一歩踏み出し——
そのまま、力なく彼女の肩に倒れ込んだ。
「ヘル?」
ヴィーラは驚き、思わず彼を支える。
普段なら決して見せない、弱り切った姿。
「……すまなかった。」
低く、掠れた声が耳元で囁かれる。
「もう……逆らいません。」
「…………はい?」
ヴィーラは思わずまばたく。
ヘルムデッセンが、そんな言葉を口にするなんて——。
「俺の身も心も……ヴィーラのものだ。」
彼は虚ろな瞳のまま、静かに告げた。
まるで全てを諦めたような声。
その響きに、ヴィーラの背筋がぞくりとした。
「……そもそも、ヴィーラの心が欲しいと思った俺がおこがましかった……。」
「ちょ、ちょっと待って!? 何をそんなに……!」
ヴィーラは慌てて彼を支え直し、顔を覗き込む。
(ヘル、どうしたの……? そんな目をしないで。)
「ヘル、私が悪かったのよ……。ちゃんと説明しなかったから……。」
「……もういい。」
ヘルムデッセンはゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。
「俺が悪かった……俺の愚かさのせいで……。」
――――――――
彼の脳裏に焼きつくのは、この一ヶ月間の記憶。
―――――
ただの戦争のはずだったのに——
ヘルムデッセンは、ただの傭兵としてこの戦に参加したはずだった。
あくまで、一兵士として剣を振るい、敵を討つ。それだけのつもりだった。
だが——。
「生け捕りにしろ。」
ヴィルトンのその一言から、戦いはまるで異質なものへと変貌していった。
戦場で剣を交えるのではなく、敵を殺さずに制圧する。
降伏した者たちは魔法契約によって支配され、逃げることも、抵抗することも許されなかった。
彼は次々と敵兵を捕虜にし、街を落としていった。
戦意を喪失した兵士たちに剣を突きつけ、ただひとつの選択を迫る。
「契約書に指印を押せ。」
命が惜しければ、受け入れるしかない——そうして、次々とガーナン帝国の住民が"デュークデイモン領民"となっていく。
この戦いにおいて、死者は驚くほど少なかった。
皮肉なことに、それは"奇跡の戦"とすら呼べるほどだった。
だが——。
(……これは、本当に戦争なのか?)
ヘルムデッセンは、次第に感じるようになっていた。
何かが違う。
今までの戦場とは、何かが決定的に違う。
民衆の泣き叫ぶ声。
崩れ落ちる家々。
王都に逃げる貴族たち。
何も知らぬ子供たちが、怯える姿。
これまでも、何度となく見てきたはずの光景だった。
だが、今の彼には、それが胸に重くのしかかっていた。
今までなら、気に留めることはなかった。
戦争とはそういうものだと割り切っていた。
だが——今の彼は、違った。
ヴィーラがいる。
彼女が築いたものを知ってしまった。
今まで、自分がどれほどのものを奪い、踏みにじってきたのか——それを考えることはなかった。
だが、今の彼は違う。
人々が生きるために積み上げたもの。
苦しみながらも守ろうとしていたもの。
戦争の中で無残に壊されるそれらを見て、心がざわついた。
(俺は……これまでの戦いで、何を見ていた?)
さらに、追い打ちをかけるように、ヴィルトン——お義父上のやり方が、彼の心を抉った。
「ふむ、ガーナン帝国の王族が逃げたか。では、城に行こうか。」
ヴィルトンの軽やかな声が、耳に刺さる。
「——ついてこい、婿殿。皇帝を"処理"するぞ。」
そこに、怒りも、憎しみもない。
ただ、冷酷なまでに効率的で、合理的な"侵略"。
それは、ヴィルトンという男の"戦争"だった。
そして——その戦争を生み出した原因は、間違いなくヘルムデッセン自身にあった。
(俺の、些細な誤解から……ここまでのことになったのか。)
俺が、ただの嫉妬と誤解で王都を飛び出し——
その結果、ヴィルトンを戦場に呼び込み——
そして、ガーナン帝国そのものが滅びることになった。
(俺の……俺のせいで……。)
すべてが繋がる。
自分が何をしたのか、何を引き起こしたのか。
(ヴィーラを怒らせた代償が、これなのか……。俺は、ただヴィーラの心が欲しかっただけだったのに……。)
己の未熟さが生んだ、あまりにも大きな結果。
ヘルムデッセンは、ただ無言で剣を握りしめた。
握ったところで、何も変えられないと分かっていながら——。
――――—————
――———―
「地獄を見せられたんだよ……。」
ヘルムデッセンは、ヴィーラの肩に寄りかかったまま、呻くように言葉を絞り出した。
彼の身体はひどく重く、まるで魂そのものが削り取られたかのようだった。
「俺は…、俺は、ただ……君に愛されたかっただけだったのに……。」
ヴィーラの黄金色の瞳が揺れる。
(ヘル……。)
目の前の男は、誰よりも強く、戦場で無敵を誇った英雄ではなかった。
今の彼は、心が擦り切れ、全てを失ったかのような男だった。
「……っ。」
ヴィーラは息をのむ。
彼の苦しみが、肌に伝わるほどに痛々しかった。
この男は、誤解から戦場へ飛び出し、そこで己の無力さと向き合わされ、戦いの果てに絶望を知ったのだ。
その結果、彼は"戦場の英雄"ではなくなっていた。
ただ、愛を乞う、一人の男になっていた。
だからこそ——。
ヴィーラは、彼の腕を強く握った。
「しっかりなさい!!ヘルムデッセン!」
思わず、声を張り上げる。
ヘルムデッセンは、驚いたようにヴィーラを見た。
彼の赤い瞳に映るのは、迷いのないヴィーラの顔。
彼女はまっすぐに彼を見つめ、はっきりと言い放った。
「あなたは私を選んだの。あなたの苦しみはいずれ解放される。だから今は耐えるの。」
「……。」
「私と、あなたのために。」
ヴィーラの言葉は、鋼のように強く、そして温かかった。
ヘルムデッセンは、それを聞いてようやく気づいた。
ヴィーラは——決して彼を拒んだことなどなかったのだと。
彼の胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
そして、それが涙になりそうなのを、彼は必死にこらえた——。
――――———————
―――――――
その夜——。
王都の夜は静かだった。
戦の喧騒もなく、冷たい風が窓を揺らし、月明かりが静かに屋敷の廊下を照らしている。
ヴィーラは、執務を終えた後、自室ではなく客間へ向かっていた。
その扉の向こうに、今夜戻ってきたばかりの人物がいる。
——ヴィルトン・ベルホック。
扉を開けると、そこには戦を終えたばかりの父が、ゆったりとソファに腰掛け、ワイングラスを傾けていた。
彼の隣には、何も知らぬようにスヤスヤと眠るデリー王子。
その様子を見て、ヴィーラは軽く息を吐いた。
「お父様、やり過ぎです。」
ヴィルトンは、ワイングラスを持ったまま、くるりとグラスの中の赤い液体を揺らした。
そして、ゆっくりと娘を見上げる。
「そんなことないって、お前も分かっているだろう。」
ヴィーラは、その軽い調子に思わず眉をひそめる。
「……それは……。」
言葉に詰まる。
本当なら、ここで「いいえ」とはっきり言いたかった。
けれど——それができない自分がいることもまた、彼女は理解していた。
ヴィーラは、父と視線を合わせることなく、そっと窓の方へ目をやる。
夜の闇の向こうにある、かつて"敵国"だったガーナン帝国。
今はすでに、デュークデイモン領の一部となった土地。
(知恵を持ち始めたヘルムデッセンには——一度、強い地獄を見せておく必要があった。)
彼はこれまで、"戦い"しか知らなかった。
だが、戦の勝敗がただの"生死"で終わるものではないと知る時が来ると、ヴィーラは思っていた。
領主として、夫として、未来を築く者として——。
ヘルムデッセンは、ただ"剣で勝てばいい"のではなく、
その勝利の先に何があるのかを知るべきだったのだ。
そして、それを教えられるのは、この国でただ一人。
——ヴィルトン・ベルホックしかいなかった。
「お前は、ヘルムデッセンを"育てる"つもりなんだろう?」
父の声に、ヴィーラは小さく肩を震わせた。
「……違います。」
「違わんさ。」
ヴィルトンは笑う。
だが、その笑みの奥には、確かな戦略家の目があった。
「だから、お前は私を責めることはできない。」
ヴィーラは、静かに目を閉じた。
——そう、責めることはできない。
彼女は、この戦が、ヘルムデッセンを"未来の領主"へと変えるための試練だったことを、最初から理解していたのだから。
どうも、あとがきを書く気はなかったのですが…。アーキエイジという今は終わってしまったゲームで戦争や、村社会の縮図等様々なことを経験したせいで、おかげで?ガチの政治や戦争っぽいのに力が入ってしまい。大変困っております。あれ?これ…恋愛………ん? 大丈夫か?………エイジオブエンパイア2とかも好きで…\(^o^)/オワタ




