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辺境伯の妻になりました。2年間の放置の末、突然の熱愛が降ってきた。  作者: 無月公主


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28/53

戦場に広がる血と鉄の匂いは、夜風に流されていく。

処理を終えた戦場は、まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。

ベルホック軍は迅速に撤収の準備を進め、捕虜となったガーナン帝国の兵士たちは、契約によって従順にまとめられていた。


戦場の片隅、簡易的に設営されたテントの周りには、小さな焚火が焚かれていた。

炎の明かりがゆらめき、夜の闇をほのかに照らす。

火のそばでは、ヴィルトンとヘルムデッセンが、それぞれ丸太に腰掛けていた。


ヴィルトンは鉄鍋の中をかき混ぜながら、香ばしい匂いを放つスープを木の器に注ぐ。

ヘルムデッセンも、黙ってそのスープを受け取り、一口すする。


「……ふぅ……。」


染み渡る温かさが、戦闘の緊張をほんのわずかだけ解きほぐしてくれるようだった。

空腹だったのもあり、ヘルムデッセンは無言でスプーンを動かす。


しばしの沈黙。


焚火のパチパチと弾ける音が、辺りの静寂の中で心地よく響く。


そんな中、ヴィルトンがふと口を開いた。


「さて、ヘルムデッセン殿。」


ヘルムデッセンはスープを飲みながら、視線だけをヴィルトンへ向ける。


「娘が、君との子を作りたくないと思ってると、本気で思っているのか?」


「……っ!!」


スプーンを持つ手が、一瞬止まる。


——まさか、話題がそこに向かうとは思わなかった。


「……そ、それは……。」


戸惑いながら、思わず目をそらす。


ヴィルトンはそんな彼をじっと見つめると、ふっと笑った。


「案の定だな。」


「……何が、ですか。」


スープを飲むふりをしながら、ヘルムデッセンは必死に気を逸らそうとするが、ヴィルトンの視線は鋭いままだった。


「君は、ヴィーラが"子を作りたくない"から避けているとでも思っていたんだろう?」


図星だった。


思わず、ヘルムデッセンは器の中のスープを睨みつける。


「……違うのですか?」


低く、絞り出すような声。


ヴィルトンは肩をすくめ、愉快そうに笑う。


「馬鹿だな、お前は。」


「……っ!」


「ヴィーラが子を作るのを先延ばしにしている理由はな、"君がしたいと言っていた結婚式をするため" だ。」


「…………は?」


思考が、止まった。


「ヴィーラはな、"君が望む式"をちゃんとやってやりたいんだよ。」


焚火の炎がゆらめく中、ヴィルトンはどこか優しげな表情で続ける。


「君は最初の結婚が形だけで終わってしまったことを、少なからず気にしていただろう?」


「……それは……。」


確かに、二年前の結婚は、名ばかりのものだった。

戦場に明け暮れ、結婚式らしい結婚式もできず、その後の夫婦生活すらまともに築けなかった。


当初、ヴィーラとの結婚に特別な感情を抱いていたわけではない。

ただの政略の一環——それ以上でも、それ以下でもなかった。

領地の経営など、自分には関係のないことだとすら思っていた。


だが、戦場から戻るたび、目にする領地の変化は驚異的だった。

以前は荒れ果て、誰もが希望を失いかけていたはずの土地が、

いつの間にか整備され、活気を取り戻していく。


それを成したのは、たった一人の少女だった。


小さな身体で、誰にも頼らず、冷静に、そして着実に領地を立て直していくヴィーラ。

彼女の知略、根気、そして貴族社会の逆風に屈しない強さ。

それを知るたびに、彼女をただの"妻"としてではなく、一人の人間として意識するようになった。


気づけば、彼女を想う時間が増えていた。

気づけば、彼女の存在が自分にとって大きくなっていた。


——だからこそ、今度こそ正式に迎えたかった。

心からの敬意と愛情を込めて、ただの"契約"ではなく、真の意味で自分のものにしたいと、本能が叫んでいた。


それが、自分の"望み"だった。


「ヴィーラはそれを分かってる。だから、お前が望んだ結婚式を終えるまで、子を作るのを待っているんだ。」


「…………。」


ヘルムデッセンは、何も言えなかった。


自分の考えが、あまりにも愚かだったことに気づいたからだ。


——俺がしたいと言った結婚式のために……?


そう、言われてみればヴィーラは"避けている"のではなく、"理由があって待っている"だけだった。

そもそも、彼女はそんな"誤魔化す"ようなことをする性格ではない。


「……つまり、俺は……とんでもなく馬鹿な勘違いを……。」


「はっはっは!!!」


ヴィルトンが豪快に笑う。


「それに気づくまで、どれだけ時間がかかった? お前、戦場では鋭いくせに、こういうことになると鈍すぎるぞ!」


「ぐっ……!」


ヘルムデッセンは、羞恥に顔を覆いたくなった。


(俺は、一体何をしていたんだ……。)


ただの誤解で、傭兵として戦場に出てしまった。

妻が自分を拒んでいるのではと勝手に思い込み、何の確認もせず、無謀な戦場に飛び込んだ。


(俺は……馬鹿か!?)


焚火の炎が静かに揺らめく中、戦場に訪れた束の間の平穏。

ヘルムデッセンは、まだ熱の残るスープをすすりながら、己の愚かしさをかみしめていた。


(ヴィーラは、俺が望んだ結婚式のために待ってくれていた……。)


誤解だったのだ。

それなのに、勝手に思い詰め、戦場に飛び出し——今こうして、義父の手によって戦争すら終わらせられようとしている。

あまりの恥ずかしさに、焚火に飛び込みたくなる。


「……っ!!」


頭を抱えたまま、ヘルムデッセンは肩を落とす。


「お、お義父上……俺は……死にたい……!!」


「はっはっは! まだ死ぬのは早いぞ、婿殿!!」


ヴィルトンは腹を抱えて大笑いしながら、豪快にヘルムデッセンの肩を叩く。


「まぁ、娘の気持ちを知れたなら、それでよし! あとはさっさとこの戦争を終わらせて、帰るだけだ!!」


「……っ!!」


ヘルムデッセンは、焚火の炎をじっと見つめる。

帰ったら、ヴィーラに何て言えばいい?


(……いや、その前に……ちゃんと謝らないとな……。)


その思いを噛みしめるように、焚火を見つめていた彼だったが——

ヴィルトンは、そんな雰囲気をあっさりと吹き飛ばすように、さらりと言った。


「だが、まだ帰さんぞ。」


「……は?」


ヘルムデッセンは、目を丸くして義父を見つめる。


「今から帝国民全てを支配する。」


焚火の赤い光の中で、ヴィルトンの黄金の瞳が鋭く光る。


「なっ……!? そこまでする必要が?」


「娘に滅ぼしてこいと言われている。できる限り生け捕りにしてな。」


「ヴィーラ……いったい何を……。」


ヘルムデッセンは、思わず背筋を正した。


(彼女は、一体何を考えているんだ? 滅ぼすとは言ったが、生け捕りにする必要まで……?)


ヘルムデッセンの困惑をよそに、ヴィルトンは肩をすくめながら笑う。


「お前もあまり娘を怒らせないようにしないとな。あれはな、一族の中でも一番の切れ者だ。」


「は……はい。肝に銘じます。」


思わず、ヘルムデッセンは真剣な声で返事をする。


ヴィルトンは満足げに頷き、スープを飲み干すと、焚火の向こうをじっと見つめた。


「うむ。さて——」


彼はスープの器を放り投げると、笑みを浮かべながら立ち上がった。


「些細な痴話喧嘩が生んだ結末を、その目にしかと焼き付けて帰ってもらうぞ。」


その瞬間——

ベルホック軍の兵士たちが、一斉に静かに動き出した。


夜闇に紛れるように、影が広がっていく。

その狙いはただひとつ。


——ガーナン帝国全域の"支配"。


ヘルムデッセンは、再び頭を抱えたくなる衝動に駆られた。


(……俺は、やっぱり…とんでもない家の婿になってしまったのかもしれん。)


焚火が、戦場に新たな野心を燃やしながら、静かに揺れていた——。

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