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戦場に広がる血と鉄の匂いは、夜風に流されていく。
処理を終えた戦場は、まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。
ベルホック軍は迅速に撤収の準備を進め、捕虜となったガーナン帝国の兵士たちは、契約によって従順にまとめられていた。
戦場の片隅、簡易的に設営されたテントの周りには、小さな焚火が焚かれていた。
炎の明かりがゆらめき、夜の闇をほのかに照らす。
火のそばでは、ヴィルトンとヘルムデッセンが、それぞれ丸太に腰掛けていた。
ヴィルトンは鉄鍋の中をかき混ぜながら、香ばしい匂いを放つスープを木の器に注ぐ。
ヘルムデッセンも、黙ってそのスープを受け取り、一口すする。
「……ふぅ……。」
染み渡る温かさが、戦闘の緊張をほんのわずかだけ解きほぐしてくれるようだった。
空腹だったのもあり、ヘルムデッセンは無言でスプーンを動かす。
しばしの沈黙。
焚火のパチパチと弾ける音が、辺りの静寂の中で心地よく響く。
そんな中、ヴィルトンがふと口を開いた。
「さて、ヘルムデッセン殿。」
ヘルムデッセンはスープを飲みながら、視線だけをヴィルトンへ向ける。
「娘が、君との子を作りたくないと思ってると、本気で思っているのか?」
「……っ!!」
スプーンを持つ手が、一瞬止まる。
——まさか、話題がそこに向かうとは思わなかった。
「……そ、それは……。」
戸惑いながら、思わず目をそらす。
ヴィルトンはそんな彼をじっと見つめると、ふっと笑った。
「案の定だな。」
「……何が、ですか。」
スープを飲むふりをしながら、ヘルムデッセンは必死に気を逸らそうとするが、ヴィルトンの視線は鋭いままだった。
「君は、ヴィーラが"子を作りたくない"から避けているとでも思っていたんだろう?」
図星だった。
思わず、ヘルムデッセンは器の中のスープを睨みつける。
「……違うのですか?」
低く、絞り出すような声。
ヴィルトンは肩をすくめ、愉快そうに笑う。
「馬鹿だな、お前は。」
「……っ!」
「ヴィーラが子を作るのを先延ばしにしている理由はな、"君がしたいと言っていた結婚式をするため" だ。」
「…………は?」
思考が、止まった。
「ヴィーラはな、"君が望む式"をちゃんとやってやりたいんだよ。」
焚火の炎がゆらめく中、ヴィルトンはどこか優しげな表情で続ける。
「君は最初の結婚が形だけで終わってしまったことを、少なからず気にしていただろう?」
「……それは……。」
確かに、二年前の結婚は、名ばかりのものだった。
戦場に明け暮れ、結婚式らしい結婚式もできず、その後の夫婦生活すらまともに築けなかった。
当初、ヴィーラとの結婚に特別な感情を抱いていたわけではない。
ただの政略の一環——それ以上でも、それ以下でもなかった。
領地の経営など、自分には関係のないことだとすら思っていた。
だが、戦場から戻るたび、目にする領地の変化は驚異的だった。
以前は荒れ果て、誰もが希望を失いかけていたはずの土地が、
いつの間にか整備され、活気を取り戻していく。
それを成したのは、たった一人の少女だった。
小さな身体で、誰にも頼らず、冷静に、そして着実に領地を立て直していくヴィーラ。
彼女の知略、根気、そして貴族社会の逆風に屈しない強さ。
それを知るたびに、彼女をただの"妻"としてではなく、一人の人間として意識するようになった。
気づけば、彼女を想う時間が増えていた。
気づけば、彼女の存在が自分にとって大きくなっていた。
——だからこそ、今度こそ正式に迎えたかった。
心からの敬意と愛情を込めて、ただの"契約"ではなく、真の意味で自分のものにしたいと、本能が叫んでいた。
それが、自分の"望み"だった。
「ヴィーラはそれを分かってる。だから、お前が望んだ結婚式を終えるまで、子を作るのを待っているんだ。」
「…………。」
ヘルムデッセンは、何も言えなかった。
自分の考えが、あまりにも愚かだったことに気づいたからだ。
——俺がしたいと言った結婚式のために……?
そう、言われてみればヴィーラは"避けている"のではなく、"理由があって待っている"だけだった。
そもそも、彼女はそんな"誤魔化す"ようなことをする性格ではない。
「……つまり、俺は……とんでもなく馬鹿な勘違いを……。」
「はっはっは!!!」
ヴィルトンが豪快に笑う。
「それに気づくまで、どれだけ時間がかかった? お前、戦場では鋭いくせに、こういうことになると鈍すぎるぞ!」
「ぐっ……!」
ヘルムデッセンは、羞恥に顔を覆いたくなった。
(俺は、一体何をしていたんだ……。)
ただの誤解で、傭兵として戦場に出てしまった。
妻が自分を拒んでいるのではと勝手に思い込み、何の確認もせず、無謀な戦場に飛び込んだ。
(俺は……馬鹿か!?)
焚火の炎が静かに揺らめく中、戦場に訪れた束の間の平穏。
ヘルムデッセンは、まだ熱の残るスープをすすりながら、己の愚かしさをかみしめていた。
(ヴィーラは、俺が望んだ結婚式のために待ってくれていた……。)
誤解だったのだ。
それなのに、勝手に思い詰め、戦場に飛び出し——今こうして、義父の手によって戦争すら終わらせられようとしている。
あまりの恥ずかしさに、焚火に飛び込みたくなる。
「……っ!!」
頭を抱えたまま、ヘルムデッセンは肩を落とす。
「お、お義父上……俺は……死にたい……!!」
「はっはっは! まだ死ぬのは早いぞ、婿殿!!」
ヴィルトンは腹を抱えて大笑いしながら、豪快にヘルムデッセンの肩を叩く。
「まぁ、娘の気持ちを知れたなら、それでよし! あとはさっさとこの戦争を終わらせて、帰るだけだ!!」
「……っ!!」
ヘルムデッセンは、焚火の炎をじっと見つめる。
帰ったら、ヴィーラに何て言えばいい?
(……いや、その前に……ちゃんと謝らないとな……。)
その思いを噛みしめるように、焚火を見つめていた彼だったが——
ヴィルトンは、そんな雰囲気をあっさりと吹き飛ばすように、さらりと言った。
「だが、まだ帰さんぞ。」
「……は?」
ヘルムデッセンは、目を丸くして義父を見つめる。
「今から帝国民全てを支配する。」
焚火の赤い光の中で、ヴィルトンの黄金の瞳が鋭く光る。
「なっ……!? そこまでする必要が?」
「娘に滅ぼしてこいと言われている。できる限り生け捕りにしてな。」
「ヴィーラ……いったい何を……。」
ヘルムデッセンは、思わず背筋を正した。
(彼女は、一体何を考えているんだ? 滅ぼすとは言ったが、生け捕りにする必要まで……?)
ヘルムデッセンの困惑をよそに、ヴィルトンは肩をすくめながら笑う。
「お前もあまり娘を怒らせないようにしないとな。あれはな、一族の中でも一番の切れ者だ。」
「は……はい。肝に銘じます。」
思わず、ヘルムデッセンは真剣な声で返事をする。
ヴィルトンは満足げに頷き、スープを飲み干すと、焚火の向こうをじっと見つめた。
「うむ。さて——」
彼はスープの器を放り投げると、笑みを浮かべながら立ち上がった。
「些細な痴話喧嘩が生んだ結末を、その目にしかと焼き付けて帰ってもらうぞ。」
その瞬間——
ベルホック軍の兵士たちが、一斉に静かに動き出した。
夜闇に紛れるように、影が広がっていく。
その狙いはただひとつ。
——ガーナン帝国全域の"支配"。
ヘルムデッセンは、再び頭を抱えたくなる衝動に駆られた。
(……俺は、やっぱり…とんでもない家の婿になってしまったのかもしれん。)
焚火が、戦場に新たな野心を燃やしながら、静かに揺れていた——。




