㉖
昼下がりの客室には、柔らかな陽の光が差し込み、静かな空気が流れていた。
ヴィルトン・ベルホックは、ゆったりとした姿勢でソファに腰を下ろし、その膝の上にはデリー王子がちょこんと座っている。小さな王子は、父親の腕の中で無邪気に足をぶらぶらと揺らしながら、穏やかな表情を浮かべていた。
対するヴィーラティーナは、向かい側のソファに腰掛け、すっと背筋を伸ばしていた。彼女の手には一杯の紅茶。けれど、その表情はどこか険しく、何かを言い出すべきかどうか迷っているように見えた。
そんな空気を感じ取ったのか、ヴィルトンが軽く眉をひそめる。
「……突然呼び出してなんだ? 私ももう歳なんだがな。あっちへ行き、こっちへ行きと、忙しなく動くのはごめんこうむりたいんだが?」
軽くぼやきながらも、その口調はどこか楽しげだった。
ヴィーラは、そんな父を一瞥し、ゆっくりと紅茶のカップを置くと、小さく咳払いをした。
「それが——ヘルムデッセンったら、子作りの仕方を知らなくて。」
「……」
一瞬、客室の空気が止まる。
「適当に抱きしめて寝てればできるって言っちゃって、数日前に猫の交尾を見て、不思議に思って側近に子作りについて聞いたみたいで……それで、家出しちゃったの。」
静かに語られる話とは裏腹に、そこには驚愕の内容が詰まっていた。
そして——。
「ぶぅわっははははははは!!!!」
ヴィルトンは腹を抱えて笑い転げた。
「ぐっ、くく……! ば、馬鹿な、そんな……! あいつ、戦場の鬼とまで言われてるくせに、そっちの戦い方は知らなかったのか!!」
涙を浮かべるほど笑い転げる父の横で、デリー王子までもが楽しげな雰囲気を感じ取ったのか、キャッキャと手を叩いて笑っている。
「ちょっ! 笑わないでよ!」
ヴィーラはむっと唇を尖らせた。
「毎晩一緒に寝てるから、本当のことを言って抱かれでもしたら、ヘルが望んだ結婚式ができなくなっちゃうと思って……。」
「ひーっ、ひひひ……腹が……腹が痛い……!!」
ヴィルトンは苦しげにソファに仰向けになりながら、それでも笑いが止まらない様子だった。
「もう……!」
ヴィーラは思わず頬を膨らませるが、ふと視線を鋭くさせると、軽く腕を組んで言った。
「だから——エーデルスワップ国へ行って、ガーナン帝国を滅ぼしてきてほしいの。」
「……ん?」
さすがのヴィルトンも、笑いをぴたりと止めて、怪訝そうに娘を見た。
「ガーナンで獲れるチェスナットは非常に美味なのに、滅ぼさんといかんのか?」
「良い機会だし、滅ぼしても良いんじゃない?」
ヴィーラはさらりと答える。
「エーデルスワップ国が潰れたら、海の領土がぜーんぶガーナン帝国に取られちゃって、結局イーデュルス王国と戦争になるわよ?」
「……ふむ。」
ヴィルトンは顎を撫でながら、考え込むように目を細めた。
「そうか……。」
「お父様ったら、わかってるのにチェスナットのために潰さないでいたでしょ。」
「いや、そりゃ……ガーナン帝国は、母さんの出身国だからなぁ。」
「そのお母様はもう亡くなってるし、その親族も残っていないじゃない。」
「冷たいことを言うなよぉ……。」
「浪費家のお母様が残した負債を解決したのは、どこの誰?」
「うっ……。」
ヴィルトンは、ヴィーラの冷静な指摘に言葉を詰まらせた。
「わ、わかった。行く。行ってくる。」
「それでいいわ。」
ヴィーラは満足げに微笑んだ。
しかし、ヴィルトンはふと思いついたように、片眉を上げる。
「ヴィトーには頼めないのか?」
ヴィーラは一瞬だけ視線を伏せた。
(……私の兄、ヴィトー・ベルホックは——。)
彼は今、王城に監禁されている。
面会すら許されず、外界から完全に隔絶された状態だ。
大方、知恵に困った王が相談役として閉じ込めているのだろう。
王の決断を見れば、兄が何を助言しているかが手に取るようにわかる。
どの政策も、どの判断も、兄の思考と一致するのだから。
(……頼めるわけないでしょ。)
ヴィーラは、静かに微笑んだ。
うちの家は、その気になれば王家を滅ぼすことができる。
だが、それをしないのは、王が 操りやすい人間 だからということもある。
実際、監禁されている兄が提案していそうなことばかり、王は決断しているのだから——。
「兄は監禁されていながら、国を動かしているのよ。」
ヴィーラの声は、どこか淡々としていた。
それは、 揺るぎない事実 だからだ。
「……なるほどなぁ。」
ヴィルトンは、目を細めながら、苦笑を浮かべた。
その表情には、ほんの僅かに感慨が滲んでいるようにも見える。
娘がここまで政治の動きを読み、冷静に戦略を立てる姿は、誇らしくもあり——どこか寂しさも感じさせるものだった。
ヴィーラは、そんな父の視線を気にすることもなく、すっと背を伸ばし、静かに問いかけた。
「何か用意するものはある?」
彼女の声は落ち着いていた。
戦場へ向かう父を送り出すにあたって、必要なものを適切に準備するのは当然のこと。
ヴィルトンは、少し顎に手を当てて考え込み、やがて口を開いた。
「そうだな、煙幕を何箱か用意できるか?それから木材もな。」
「煙幕と……木材?」
ヴィーラは眉をひそめる。
「戦場に必要なものは、通常なら武器や食糧のはずだけれど。」
「ま、ちょっとした 演出 が必要でな。」
ヴィルトンはニヤリと笑う。
「大規模な戦闘を仕掛けるとなると、真正面からぶつかるだけじゃつまらん。煙幕があれば視界を奪えるし、木材をうまく使えば橋や防壁を利用した 罠 を作れる。ガーナン帝国を滅ぼすってことは、戦場をできるだけ有利に運ばなきゃならんからな。」
「……ふぅん。」
ヴィーラは納得したように頷き、すぐに侍従を呼びつけた。
「煙幕を五箱、木材は十分に手配して。」
「かしこまりました。」
侍従が足早に部屋を出て行く。
そのやり取りを見ていたヴィルトンは、感心したように笑った。
「やれやれ、本当にお前は頼もしいな。イーディルス王国はお前がいれば安泰だ。」
「おだてても何も出ませんよ。」
ヴィーラは淡々と返しながらも、父の言葉の裏にある信頼を感じ取っていた。
「いや、褒めてるだけさ。……さて、準備が整ったらすぐに出発するとしよう。」
そう言って、ヴィルトンはすっと立ち上がり、膝の上に座らせていたデリー王子をヴィーラに預けた。
デリーは小さな腕をヴィーラに絡めながら、無邪気な瞳で祖父を見上げる。
「デリー王子殿下。少しばかり戦場へ顔を出してきます。」
ヴィルトンはデリーの頬を軽くつつき、優しく微笑む。
その仕草には温かさが滲んでいたが、立ち上がった瞬間、彼の全身から放たれる雰囲気が変わった。
堂々たる風格。
長年の経験に裏打ちされた確固たる自信と、戦場に立つ者だけが持つ揺るぎない胆力。
「お父様、本当にすぐに行くの?」
ヴィーラは、デリーを抱えたまま父を見上げた。
「当たり前だろう。」
ヴィルトンは肩をすくめ、まるで「そんなことを聞くまでもない」とでも言うように笑った。
「どうせヘルムデッセン殿は、決着がつくまで帰ってこないんだろう?ならば、こちらも一刻も早く戦場に行って、形を整えた方がいい。」
「……まあ、それは確かに。」
ヴィーラは小さく息をついた。
父の決断の速さは、まさにベルホック家の真髄だ。
即断即決、必要ならば即行動——それが、彼が長年築いてきた生き方なのだろう。
「戦場では無理をしないでね。」
ヴィーラが少し心配そうに言うと、ヴィルトンはふっと目を細め、まるで王を見下ろすかのような圧倒的な風格で微笑んだ。
「誰に向かって言ってる?」
その声音には、絶対的な自信と威厳が満ちていた。
まるで戦場を掌握するのは当然だと言わんばかりの、圧倒的な"戦略家"の顔。
この言葉だけで、ヴィルトンがこの国の"影の支配者"であることを理解できる。
ヴィーラは苦笑しながら、父の上着の襟を軽く整えた。
「せめて、少しは慎重になってください。」
「はは、わかってるさ。」
ヴィルトンは豪快に笑い、娘の金の髪をくしゃりと撫でた。
その手つきは昔と変わらない——彼がまだヴィーラを小さな少女として扱っていた頃と、何ひとつ変わらない優しさがあった。
「さて、行くとするか。」
そして——その日のうちに、ヴィルトンは戦場へと旅立っていった。




