㉕
食堂に広がる沈黙。
それは、ディルプールの口から放たれた 「衝撃的な一言」 によるものだった。
「ヘルムデッセン様は、隣国エーデルスワップ国とガーナン帝国の戦争に、傭兵として出兵されました。」
「……は?」
ヴィーラの瞳がわずかに揺れる。
今、何て言ったのかしら。
傭兵?
戦争に?
いや、待って。
ヘルムデッセンが、 傭兵として ??
そして——。
「はああああああああああああああああ!?!?」
バン!!!!!
テーブルを叩く音が、食堂全体に響き渡る。
使用人たちが一斉に肩を震わせ、その場の空気がピリッと張り詰めた。
「ま、ま、まさか、あの ヘルが、王都を抜け出して戦争に行ったっていうの!?」
信じられない。
いや、むしろ信じたくない。
彼が単独で戦場に行くなど、どう考えても ありえない選択肢 だった。
昼下がりの食堂——。
ヴィーラは足を組んで椅子に座り、 半分土下座状態 のディルプールを前に、額を押さえていた。
(……もう頭が痛い。)
目の前には、申し訳なさそうに視線を泳がせるディルプール。
冷静に話を聞こうとは思うものの、ヴィーラの中の理性が崩壊しそうになる。
「……で?」
静かに、けれど鋭く問いかける。
「止めなかったの?」
「はい、それが……とても落ち込まれていて……。」
ディルプールは、恐る恐る言葉を選びながら答えた。
「……落ち込む?」
ヴィーラは片眉をピクリと動かした。
(寝る前までは、彼はいつも通りだったはずよね? まさか今朝に何かあったの?)
「今朝、何かあったの?」
「特に思い当たるふしは……。」
ディルプールは考え込むように、顎に手を当てた。
「何でもいいわ。今朝の様子を聞かせて。些細なことでもいいから、何か変わったことはなかった?」
「今朝ですか?」
彼は目を細め、記憶を辿るように小さくうなずく。
「本当にこれといって特別なことは……あ、そういえば 猫が外で交尾をしていて、かなりうるさかった ことくらいですかね。」
「…………。」
ヴィーラは ピタリ と動きを止めた。
(猫が交尾……交尾……。)
「…………はぁ。」
彼女は 深々と溜息 をついた。
「あの馬鹿。」
静かに、けれど 心底呆れた ように呟く。
(そういうことね……。)
完全に理解した。
ヘルムデッセンが落ち込んでいた理由を。
そして、なぜ 傭兵として戦場に行く という 飛躍した決断 をしたのかを——。
(……まったく、なんて面倒くさいのかしら、あの人は。)
ヴィーラは スッと立ち上がり、ディルプールを鋭く見下ろした。
「原因がわかったわ。」
「え?」
「あの馬鹿を連れ戻してきて。今すぐ!!」
「は、はい!!!!!」
ディルプールは、まるで 戦場へ送り出される兵士のように、背筋をピンと伸ばし 敬礼 する。
そして、そのまま 勢いよく駆け出していった——。
(まったく……。)
ヴィーラは頭を押さえながら、再び溜息をついた。
——彼は、単純すぎる。
けれど、その 単純さ が、時には 可愛くもあり、厄介でもあり……。
「……帰ってきたら、謝らないといけないわね。」
ヴィーラは、ふっと微笑んだ。
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それから数日間、ヴィーラは 息つく間もなく 忙しい日々を過ごしていた。
社交活動に結婚式の準備、招待状の作成、出席者の確認—— やることは山積み で、次から次へと仕事が舞い込んでくる。
机の上には、山のように積まれた書類と 招待状の束。
一通一通、宛名を確認し、手書きでサインを入れていく。
「……次はウィルサード侯爵家へ。」
インクをつけ直しながら、 素早くペンを走らせる。
その表情には疲れの色が見えるものの、手は止まらない。
(誰をどこに座らせるか、外交関係も考えなきゃ……。)
戦場での政略があるなら、王都の貴族社会では 宴の席が戦場 だ。
適当に決めた席次が 後々の大きな火種になる ことだってある。
(面倒ね……。)
溜息をつく暇もないほど、作業に没頭していた、その時——。
「奥様、そろそろウィンターン公爵夫人が主催のお茶会の時間です。」
扉の向こうから、執事の落ち着いた声が響いた。
「——もうそんな時間?」
ヴィーラは ぴたりと手を止める。
窓から差し込む陽光を見上げると、すでに午後の陽が傾きかけていた。
(しまった、集中しすぎて時間を忘れてた。)
次の瞬間、彼女は 椅子を引き、勢いよく立ち上がった。
「行かなきゃ……!」
急いで近くに置いていたクロークを羽織り、鏡を覗き込む。
化粧は崩れていないか、髪の乱れはないか——
短時間で最低限の身だしなみを整える。
(公爵夫人のお茶会を 欠席するなんてありえない わ。)
この茶会は単なる社交イベントではない。
王都の貴族女性たちが集う、政治的な駆け引きの場。
情報交換、噂の裏取り、貴族同士の 微妙な関係性 の確認——
どんな些細なやり取りも、 今後の立場を左右しかねない重要な場 なのだ。
——だからこそ、遅刻は厳禁。
「奥様、馬車の準備は整っております。」
執事が扉を開けると、屋敷の外にはすでに馬車が待機していた。
すべての手配は完璧、あとは 自分が向かうだけ だ。
「ありがとう、すぐ行くわ。」
ヴィーラは 書類を片付ける時間すら惜しみ、軽やかに足を踏み出した。
(もう……ヘルがやろうって言い出した結婚式なんだから、さっさと帰ってきて手伝いなさいよね……。)
軽く唇を尖らせながら、それでも足を止めることなく、ヴィーラは王都の午後の光の中へと歩みを進めた——。
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夕暮れ時、王都の空は茜色に染まり、穏やかな風が通りを吹き抜けていた。
ウィンターン公爵夫人主催の茶会を終えたヴィーラは、屋敷の門をゆっくりと出る。
優雅な談笑の余韻が残る中、彼女の思考は次の予定へと移ろうとしていた——その時だった。
「奥様ぁぁぁ……!!」
妙に芝居がかった、今にも倒れそうな声が門の向こうから響いた。
(……何かしら。)
半ば呆れたような気持ちで視線を向けると——
そこには、よれよれになりながら、大袈裟に杖をついて歩くディルプールの姿があった。
髪は乱れ、服は埃を被り、まるで何日も彷徨ってきた旅人のように疲れ果てた様子だ。
それでいて、妙に芝居がかっているのが、さらに疑わしい。
「……その姿は何?」
冷静な視線を向けると、ディルプールは大袈裟に肩を落としながら、杖にすがるようなポーズを取った。
「申し訳ございません……ヘルムデッセン様は……一度出兵したら、決着がつくまで帰られないとのことで……!」
「……はぁ。」
ヴィーラは、額に手を当て、深く深く息を吐いた。
(やっぱり……。)
もはや、心のどこかでこうなることは分かっていた。
彼の性格を考えれば、一度戦に出た以上、「途中で帰る」なんて選択肢はあるはずがない。
(本当に……どうしようもないわね。)
静かに目を閉じ、落ち着いた気持ちで考えを整理する。
このままでは、ヘルムデッセンがいつ帰るのかも分からない。
ならば——
「帰りましょう。」
静かにそう言い、ヴィーラは優雅に踵を返した。
ディルプールは、彼女の反応に少し驚いたようだった。
「え……?」
「お父様に手紙を書かないといけないわ。」
「そ、そうでしたか……。」
(どうせ、ヘルのことだから死ぬことはないでしょうけど……。)
一刻も早く状況を把握し、次の手を打たなければならない。
それが、ヘルムデッセンの妻であり、ベルホック家の娘であるヴィーラティーナの役目だった。
王都の夕暮れの中、彼女は静かに屋敷へと歩き出した。
赤く染まる空の下、黄金の瞳には、決意の色が宿っていた——。




