㉓
王都の屋敷の寝室には、深い夜の静けさが満ちていた。
窓の外では月が穏やかに輝き、風に揺れるカーテンが微かに揺らめく。
ヴィーラは、バスルームから出てきたばかりだった。
濡れた金の髪から滴る水をタオルで丁寧に拭きながら、寝室の暖かな灯りに目を細める。
「ヘル、お疲れ様。」
優しく労わるような言葉をかけると、部屋の奥でリラックスしていたヘルムデッセンがゆっくりと顔を上げた。
「……あぁ。」
彼の声は、どこかいつもより低く、少しだけ甘さを帯びていた。
次の瞬間——。
ヴィーラの背後に大きな影が覆いかぶさる。
「……ヘル?」
彼女が驚いて声を上げる間もなく、背後から力強い腕がそっと回される。
——バックハグ。
彼の腕は、まるで彼女を二度と離したくないと言わんばかりに、しっかりと腰を抱きしめる。
体温がじんわりと伝わり、彼の大きな手の温もりが心地よい。
「……子供が欲しい……。」
彼の低く抑えた声が、彼女の耳元で囁かれた。
「……っ!?」
ヴィーラの全身が一瞬で硬直した。
(こ、こ、こ、子供!? いきなり何を言い出すの!?)
顔に一気に熱が上り、タオルを持ったまま固まる。
思考が追いつかない。
何の前触れもなく、こんなことを言われるなんて——!!
「ど、ど、ど、どうしたの!? いきなり……!」
慌てふためくヴィーラの反応に、ヘルムデッセンはゆっくりと彼女の首筋に額を寄せる。
そして、真剣な声で続けた。
「確かな愛の証が欲しい。」
彼の声は穏やかで、それでいて揺るぎない決意に満ちていた。
「……!」
ヴィーラの心臓が大きく跳ねる。
(そんな真剣な顔で言われたら……)
赤くなった頬を隠すように、彼女はそっと視線を落とした。
彼はいつだって素直で、ストレートに想いを伝えてくる。
だからこそ、逃げ場がない——。
少しでも冷静になろうと、彼女はタオルをギュッと握りしめながら、ふと口を開いた。
「……子供の作り方……知ってる?」
一瞬の沈黙。
ヘルムデッセンの腕が、ピクリと動いた。
「……?」
彼女がゆっくりと振り返ると——
ヘルムデッセンは、微妙に困惑した表情を浮かべていた。
「愛が深まればできるんだろ?」
「——ぷっ……!」
ヴィーラは、思わず吹き出しそうになった。
(あんなに舞踏会で完璧に振る舞っていたのに……!)
あの堂々としたエスコート、完璧な話術、貴族たちを驚嘆させた美しいダンス——
まるで王都に昔から溶け込んでいたかのように振る舞っていた男が、こんなことを言うなんて。
そのギャップが可笑しくて、思わずクスリと笑ってしまう。
「何がおかしい?」
少しムッとしたように彼が言うと、ヴィーラは微笑を浮かべながら、そっと彼の頬に手を添えた。
「……私を抱きしめて寝ていれば、そのうちできるわよ。」
優しく、いたずらっぽく囁く。
ヘルムデッセンは真剣に考えるように黙り込んだあと——頷いた。
「そうか……なら、そうする。」
素直すぎる返事に、ヴィーラはまた吹き出しそうになる。
「えぇ……。」
彼の大きな胸にそっと額を預けながら、静かに目を閉じる。
彼の鼓動が伝わるほどの距離。
(ごめんね……結婚式が終わるまでは我慢してね。)
彼の気持ちは嬉しい。
けれど、もう少し、もう少しだけ待ってほしい。
彼の腕の中で、ヴィーラはそっと微笑んだ。
この温もりが、どこまでも心地よく感じられる夜だった——。
――――――――――
――――――――
ウィンターン公爵家の舞踏会が終わってから数日が経った。
王都の空は穏やかで、昼下がりの柔らかな陽光が、ベルホック家の屋敷の窓を優しく照らしていた。
私たちは、結婚式が終わるまで領地へは帰らない予定でいた。
ヘルムデッセンの希望を叶えるには、そうせざるを得なかった。
(……彼の言う"ちゃんとした結婚式"を挙げるために。)
彼は、「お前を正式に迎えたい」と言った。
領地の事情や戦場の忙しさで、二人の結婚式は最低限の形で済まされていたのだから、彼の想いは当然のものだったのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は執務室の机に向かっていた。
机の上には、王都での仕事の書類がきちんと整理され、ペンを走らせる音だけが静かな空間に響く。
それは、穏やかな午後の時間だった——。
「ヴィーラ!!!」
突如、廊下の向こうから大声が響いた。
(……ヘル?)
執務室の扉が勢いよく開かれ、そこには——血相を変えたヘルムデッセンが立っていた。
「家はなんともないのか!?」
彼は、息を荒げながら私に向かってまっすぐ歩み寄る。
そして——両肩をガシッと掴み、強く揺さぶった。
「ヴィーラ!お前、今までひどい扱いを受けてきたんじゃないのか!?」
「ちょ、ちょっとヘル……!」
「お前達家族はいっつも飄々としてるから、気付けない!!!」
(……何の話?)
ヘルムデッセンの真剣な表情に戸惑いながら、私は冷静に彼の言葉を整理する。
そして、ふと気付いた。
(……ああ、そういうことね。)
「ヘル。」
私は彼の手をそっと引き剥がし、静かに言った。
「ベルホック子爵家のことを習ったのね?」
「……あぁ、そうなんだ!」
彼は私の顔をじっと見つめ、焦燥と戸惑いの色を滲ませたまま、力強く頷く。
「それで、居ても立ってもいられなくて……!」
私はその必死な表情を見て、小さく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。その問題も、ちゃんと片付いていますから。」
(……全部ではないけどね。)
「そうか……。」
ヘルムデッセンは安堵したように肩の力を抜き、短く息をついた。
それでも、まだどこか腑に落ちていない様子で、眉を寄せている。
私は椅子から立ち上がり、彼の大きな手をそっと包むように握った。
「ほら、授業に戻って。」
彼は少し拗ねたような顔をしたが、しぶしぶ頷き、静かにドアへ向かう。
ノブに手をかけ、ゆっくりと開く——その時。
突然、彼はくるりと踵を返した。
「……!」
気づいた時には、目の前に彼の顔が迫っていた。
「ン……!!」
彼の手がそっと頬を包み込み、柔らかく——それでいて深く、私の唇に触れる。
一瞬、思考が止まる。
(ちょ、ちょっと!? いきなり……!?)
心臓が跳ね上がるのを感じる。
けれど、彼の唇は優しくて、あたたかくて——。
私が何かを言う前に、ヘルムデッセンはゆっくりと唇を離し、私を見つめた。
「ヴィーラのことを知って、より一層……愛おしくなった。」
低く、静かな声。
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込む。
(……もう、ずるいわね。)
彼は何も言わず、ただ微笑むと、今度こそ静かに執務室を後にした。
私は、唇に残る彼の温もりを指でなぞりながら、ゆっくりと息をついた。
(……そんな顔で言われたら、もう何も言えなくなるじゃない。)
赤く染まった頬を押さえながら、私はそっと微笑んだ——。
ベルホック子爵家――もともとは、名門 ベルホック侯爵家 だった。
長きにわたり王に仕え、宰相や側近として王国の中枢を担ってきた一族。
その知略と手腕は、王国随一とも称され、どの時代においても宮廷の権力の中心に立ち続けていた。
だが、それゆえに彼らは 「蛇」 と呼ばれた。
どんな状況でも冷静に、狡猾に立ち回り、己の利益を決して手放さない。
男であろうと、女であろうと、ベルホック家の者は誰もが才覚を持ち、敵を欺きながら国を動かしてきた。
その頂点に立っていたのが ヴィーラの祖父 だった。
彼は、国政を司る 宰相 として王の右腕となり、王国の政治を支えた。
その政策は的確で、経済の発展を促し、貴族社会の均衡を巧みに操っていた。
しかし—— 若き王の気に障った。
王は即位したばかりの頃から、祖父のことを 「気に入らない」 と思っていたのだ。
理由は単純だった。
—— まるで祖父が国を動かしているかのように見えたから。
若き王は、自身の影のように振る舞う老獪な宰相を 疎ましく思った。
どれほど的確な助言を与えようとも、それが 「支配されている」と感じさせる限り、王の誇りを傷つけた のだ。
「貴様の知恵など不要だ。」
ある日、王は冷ややかにそう言い放った。
「私の王国に、蛇はいらぬ。」
それが、全ての始まりだった。




