㉒
ダンスが終わると、広間にはまた穏やかな音楽が流れ、貴族たちはそれぞれの会話を再開していた。
ヘルムデッセンとヴィーラは、ダンスの余韻を胸に秘めながら、優雅に立食のテーブルへと向かった。
会場の中央には、美しく並べられた料理の数々が彩り豊かに並び、王都の最高級食材を贅沢に使用した品々が目を惹く。
香ばしく焼き上げられた肉料理、繊細に盛り付けられた海鮮の冷製、黄金色のソースが輝くパイ料理——どれもが一流の味を保証するかのように、美しく仕立てられていた。
ヘルムデッセンは、銀のトングを使いながら、ふと目に留まった一品を手に取る。
串に刺された香ばしい肉料理——上質なハーブとスパイスで丁寧に味付けされ、香りだけでも食欲をそそる。
「ヴィーラ、これを試してみないか?」
彼は落ち着いた口調で言いながら、小皿に料理を乗せて彼女へと差し出す。
「あなたにしては、随分と優雅な言い方ね。」
ヴィーラは小さく微笑みながら、それを受け取った。
「貴族の場だからな。」
ヘルムデッセンは軽く肩をすくめながら、彼女が料理を口に運ぶのを見つめる。
ヴィーラは、慎重に小さく一口かじると——その瞬間、黄金色の瞳がわずかに輝いた。
口の中に広がる豊かな香りと柔らかい肉の食感。スパイスの風味が絶妙に絡み合い、驚くほど洗練された味わいが舌の上で踊る。
「……確かに、美味しいわね。」
彼女は感嘆の声を漏らした。
「気に入ったか?」
ヘルムデッセンは満足げに微笑みながら、ワイングラスを手に取る。
「ええ。想像以上に繊細な味ね。」
「ならば、選んだ甲斐があった。」
彼はゆったりとした動作でグラスを傾け、深紅のワインを一口含む。
そして、ふと微笑みながら彼女の瞳を覗き込んだ。
「こうして君が楽しんでいる姿を見るのは、俺にとっても嬉しいものだ。」
「……そんなことを真顔で言わないで。」
ヴィーラはワイングラスの縁に指を滑らせながら、わずかに頬を染める。
彼の言葉は、まるでワインのように心地よく染み渡る。
かつて粗野であったはずの彼が、こうして自然にエスコートし、貴族の振る舞いを身につけた姿を見せるのは——どこか誇らしくもあり、そして、少しだけ彼の変化に戸惑いを感じる瞬間でもあった。
そう思った瞬間——
「ほう……華麗なダンスだったな。」
低く、よく通る声が背後から響いた。
ヴィーラの背筋が、瞬時にこわばる。
(——デヘリム・イーデュルス!?)
思わず目を見開いた。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、深紅の衣装を纏った男。
美しく整った金の髪に、端整な顔立ち。
そして、王族らしい鋭い眼差しを持つ男——
イーデュルス王国の第一王子、デヘリム・イーデュルスだった。
(まずいわ……どうしよう……。)
心の中で警鐘が鳴る。
ヘルムデッセンの素性を知る数少ない人物——それが、この男、デヘリムだった。
王の嫡子であり、将来国を背負う立場にある彼が、今ここでヘルムデッセンと対峙するということは——。
(もし彼が、ここでヘルムデッセンの血筋について何か言及すれば……。)
ここにいる貴族たちは、一瞬で察するだろう。
彼が単なる辺境伯ではなく、王族の血を引く者であることを。
しかし——
「デヘリム第一王子殿下。」
その場の空気を揺るがせたのは、ヘルムデッセンだった。
彼は何事もなかったかのように、一歩前へと進み、深く礼を取る。
まるで、彼と王族の間に何の繋がりもないかのように。
その動作は、驚くほど完璧だった。
まるで長年社交界に馴染んできた貴族のように、優雅で堂々とした振る舞いだった。
「今宵の宴にてお目にかかれたこと、光栄に存じます。」
デヘリムは、その様子をじっと見つめ、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「辺境伯としての振る舞いは、よく心得ているな。」
「恐れ入ります。」
ヘルムデッセンは淡々とした口調で答えた。
デヘリムの瞳が、一瞬だけ冷ややかに光る。
「……この王都の社交界では、お前の存在を興味深く思っている者が多い。
戦場の獣が、これほどの貴族に成長するとはな。」
「貴族として学ぶ機会を得たこと、僥倖でございました。」
微動だにしない。
彼の声には、王族の血筋など一切関係がないとでも言うような、完璧な貴族の落ち着きがあった。
その態度に、ヴィーラは言葉を失う。
(……ヘル、あなた、どれほど…。)
彼がどれだけの努力を積み重ね、この場に立つことを自分のものとしたのか。
デヘリムが何を言おうと、彼は決して動揺しない。
まるで、自分は最初からただの貴族だったかのように——。
(この短期間で、ここまで洗練されるなんて。)
デヘリムは、そんなヘルムデッセンを見つめながら、くつくつと小さく笑った。
「なるほど……わきまえているじゃないか。」
そして、ふと彼の耳元に寄ると、静かに囁いた。
「——大人しくしていろよ、兄上。」
その瞬間、ヴィーラの心臓が跳ねる。
(やっぱり……!)
ヘルムデッセンの赤い瞳がわずかに細められた。
しかし、何も言わない。
ただ、わずかに口元を吊り上げるだけだった。
デヘリムはその反応を見て、満足げに口角を上げると、ゆっくりと背を向けた。
そして、何事もなかったかのように、広間の奥へと去っていく。
彼の姿が見えなくなると同時に、ヴィーラは静かに息を吐いた。
「……。」
ヘルムデッセンは、わずかに視線を落としながら、ワイングラスの中の液面を揺らす。
その赤いワインが、まるで彼の内に潜む激情のように波打った。
「ヘル……。」
ヴィーラは彼の表情を見つめながら、そっと彼の手に触れた。
彼の手のひらは、確かに温かいのに——
どこか、孤独な影が滲んでいる気がした。
「気にするな。」
ヘルムデッセンはふっと笑う。
まるで、何もなかったかのように——。
けれど、ヴィーラにはわかっていた。
彼の中に、確かに何かが生まれたことを。
"兄上"という囁きが、彼に何をもたらしたのかを。
(このまま……何事もなければいいけれど。)
そんなことを思いながら、ヴィーラは彼の手の温もりを、ただ静かに感じ続けていた——。
――――――――――
―――――――
王都の夜空に、馬車の車輪が静かに響く。
華やかな舞踏会の熱気がまだ肌に残る中、ヴィーラとヘルムデッセンは王都の屋敷へ向かっていた。
窓の外を眺めれば、夜の街灯が規則的に並び、王都の夜景が穏やかに広がっている。
しかし、馬車の中の雰囲気は、どこか沈んでいた。
ヘルムデッセンは腕を組み、少し俯きながら、窓の向こうをぼんやりと眺めていた。
無言のまま、表情を読み取ることはできない。
(ヘル……。)
ヴィーラは、彼の横顔をじっと見つめる。
デヘリムとの対峙が、何か影を落としてしまったのだろうか。
このまま沈んだ気持ちのまま屋敷へ戻るのは嫌だった。
だから、彼を励まそうとそっと口を開きかけた——その瞬間。
「ヴィーラ!」
突然、ヘルムデッセンが勢いよく振り向いた。
「俺、うまくできてたか!?」
満面の笑顔。
彼の赤い瞳が、まるで少年のように輝いている。
「……え?」
あまりの切り替えの速さに、ヴィーラは言葉を失う。
「どうだった!? 貴族らしく振る舞えてたか!? 礼儀もちゃんとしてたし、言葉遣いも間違ってなかったよな!?」
彼はまるで戦場で初陣を飾った若き兵士のように、目を輝かせながら尋ねてくる。
(……この人、沈んでたんじゃないの?)
脱力しそうになりながらも、ヴィーラは彼の純粋な期待の眼差しに応えるべく、微笑んだ。
「え、えぇ……とっても素敵だったわ。」
「そうか!」
ヘルムデッセンは、力強く頷き、嬉しそうにヴィーラの手をぎゅっと握る。
「俺のものだって、ちゃんと証明できた!」
彼はそう言って、ヴィーラを優しく見つめる。
その瞳は、まるで夜の灯火のように温かく、揺るぎない。
「……っ!」
ヴィーラは、彼の真っ直ぐな言葉に一瞬息を詰める。
証明できた——それは、貴族社会に対しても、そして彼自身の心の中でも、きっと同じ意味なのだろう。
だが——。
「……あなたねぇ……。」
ヴィーラは肩の力を抜き、ため息をついた。
沈んでいたと思ったら、これだ。
「弟に会ったのに……。」
「あぁ?」
「デヘリムよ。あなたの弟。」
「ああ、デヘリムか。」
ヘルムデッセンは、気の抜けたような声で答えた。
そして、ワインを飲むように静かに言葉を続ける。
「そうだな。デヘリムに会えたな。」
「……嫌な気分にならなかったの?」
少し慎重に問いかける。
王の婚外子として生まれ、王宮ではなく戦場へ送られたヘルムデッセンにとって、正嫡の王子たちと対面するのは、決して簡単なことではないはずだった。
それこそ、普通なら屈辱を感じたり、怒りを覚えたりしてもおかしくない。
だが——彼は静かに微笑んだ。
「俺は、戦場でああいう奴をよく見る。」
「……?」
「恐いんだよ、ああいう奴らは。」
彼の言葉に、ヴィーラは驚いたように瞬きをする。
「恐い?」
「ああ。恐いから、強い言葉を使う。権威で人を押さえつける。そんな奴は、戦場にもたくさんいる。」
ヘルムデッセンの瞳が、一瞬だけ遠くを見つめた。
「デヘリムも、王宮という戦場で戦ってるんだろう。」
その言葉には、嘲笑や軽蔑はなかった。
ただ、理解があった。
(ちゃんと……わかってるのよね。)
ヴィーラは彼をじっと見つめる。
(デヘリムも、王族としての重責を背負っている。彼もまた、王宮という戦場で生き抜かなければならない。)
ヘルムデッセンは、王宮にはいなかった。
だが、彼はただの辺境伯として生きる中で、貴族社会の本質を見抜いていた。
そして、彼はふっと微笑んだ。
「……俺は、ヴィーラの夫でよかった。ただ、それだけだ。」
「……!」
ヴィーラは、思わず彼の顔を見つめる。
彼は、確かに王の血を引いている。
だが、彼の選んだ道は——王ではなく、辺境伯として、そして、ヴィーラの夫として生きることだった。
その赤い瞳には、何の迷いもない。
(……本当に、この人は。)
ヴィーラは、彼の大きな手をそっと握る。
「……えぇ。私も、あなたが旦那でよかったわ。」
静かな夜の馬車の中で——
二人の手がしっかりと繋がれていた。




