㉑
ウィンターン公爵家の広間は、華やかな音楽と貴族たちの談笑で満たされていた。
シャンデリアの輝きが、磨き上げられた大理石の床に反射し、まるで夜空に輝く星のように会場を照らしている。
ワインが注がれる音、軽やかに響くグラスの音、優雅な舞踏の足音。すべてが貴族社会の一部であり、そこには無駄のない洗練された空気が流れていた。
そんな中、ヴィーラは堂々とした姿勢で貴族たちと会話を交わしていた。
「ベルホック子爵家の才女は、やはりただ者ではないな。」
「まさかここまで経済に精通しておられるとは。」
「いやはや、女性であるのが惜しいほどだ。」
彼らの口から次々と賞賛の言葉が零れる。
ヘルムデッセンは、そんなヴィーラの姿を誇らしげに見つめながら、彼女の腰にしっかりと腕を回していた。
まるで「彼女を誰にも渡すつもりはない」とでも言うように、彼の手は決してヴィーラから離れようとしなかった。
(……お前が評価されるのが、こんなに誇らしいとはな。)
貴族たちが彼女の知性と手腕を褒め称えるたびに、彼の胸は満たされていく。
だが、それと同時に、彼らが「女性であることが惜しい」と言うたびに、少しだけ眉をひそめた。
(惜しい? いや、違うな。こいつは"女性だから"ではなく、ヴィーラだからこそ素晴らしいんだ。)
貴族たちの中には、彼女の実力を認めつつも、心の底では「女がここまで活躍するのはおかしい」と考えている者もいるのだろう。
だが、ヘルムデッセンにとっては違う。
(ヴィーラは、ヴィーラであるからこそ完璧なんだ。)
腕に力を込めながら、彼は心の中で確信した。
彼の隣に立つのは、戦場の猛者でも、計算高い貴族の男でもなく——
"この世界で最も聡明な女"、ヴィーラティーナ・デュークデイモンなのだから。
「ヘル、少し腕の力を抜いて。」
「……あぁ、すまん。」
彼が無意識のうちに強く抱き寄せていたらしく、ヴィーラが小さく笑いながら彼の腕を軽く叩いた。
「でも、こうしている方が落ち着く。」
「まったく……あなたって本当に。」
ため息混じりに呆れながらも、ヴィーラの頬にはどこか柔らかな笑みが浮かんでいた。
だが、その微笑みを嘲笑うかのように、貴族夫人たちの小さな囁きが耳に入った。
「……デュークデイモン夫人、調子に乗っているわね。」
「去年まではあんなによれよれのドレスを着ていたくせに。」
「いつも一人だったのに、旦那がいるだけで、まるで女王様気取りね。」
「戦場帰りの夫を手なずけたとでも思っているのかしら?」
彼女たちは、さも楽しげにくすくすと笑いながら、ヴィーラを侮辱する言葉を並べていた。
その内容は、昨年のパーティーのことを指しているのだろう。
——あの時のことを、ヴィーラはよく覚えていた。
あの年、領地がようやく安定し始めたばかりで、予算をやり繰りしながら王都へ赴いた。
ドレスは急いで仕立てたものの、王都の貴族たちが纏う煌びやかな衣装とは比べ物にならなかった。
さらに、道中では襲撃に遭い、なんとか命からがらたどり着いたというのに——。
(それでも私は……孤独でも、戦うことをやめなかったわ。)
けれど、彼女たちはそんな背景を知る由もなく、ただ表面だけを見て嘲笑っている。
その会話を聞いていたヘルムデッセンは、静かに視線を落とした。
(……そんなふうに言われていたのか、お前は。)
心が痛んだ。
それでも彼女は決して折れず、こうして戦い続けてきた。
彼女の背負ってきた孤独と、痛みを、ヘルムデッセンは想像した。
(あの時、俺が側にいたら……お前を一人にしなかったのに。)
貴族たちとの話が終わり、ヴィーラがふと彼を見上げる。
「ん? どうしたの?」
ヘルムデッセンは、ただじっと彼女を見つめた。
その目には、言葉にできないほどの感情が宿っていた。
(……何か言いたいことがあるのかしら?)
そう思った瞬間——。
ヘルムデッセンの大きな手が、そっとヴィーラの頤に添えられた。
「……ヘル?」
彼は何も言わない。
ゆっくり、ゆっくりと——その距離を縮める。
ヴィーラが戸惑い、わずかに目を見開く。
(まさか、こんな場所で……!?)
だが、彼はためらうことなく、彼女の唇に静かに触れた。
——甘く、優しく、まるで誓いを交わすように。
ざわめく会場。
息を呑む貴族たち。
女たちの囁きが止まる。
ヴィーラの心臓は、一瞬にして高鳴った。
(……な、何を……っ!)
ほんの数秒。
けれど、それは永遠のように長く感じられた。
彼は、堂々と彼女を奪ったのだ。
ようやく唇が離れると、ヘルムデッセンは静かに目を細め、低く囁いた。
「君が……とても……愛おしい……。」
ヘルムデッセンの低く囁く声が、彼女の耳をくすぐる。
「……っ!」
頬が熱い。
(ず、ずるいわ……!)
こんなに堂々と、皆が見ている前で。
彼の手が、そっと彼女の頬を撫でる。
荒々しさはない。ただ、どこまでも優しく、まるで宝物を扱うように——。
その瞳には、深い愛情が宿っていた。
貴族社会の冷たい空気など関係ないと言わんばかりの、真っ直ぐな眼差し。
——その瞬間、会場は息を呑んだ。
デュークデイモン夫妻は、ただの夫婦ではない。
彼らは、互いに深く結ばれた、揺るぎない絆を持つ二人なのだと。
彼女を嘲笑っていた者たちは、言葉を失った。
冷ややかに笑っていた貴族夫人たちは、一様に目を見開き、そして視線を逸らす。
まるで、自分たちの言葉がどれほど浅はかだったのかを悟ったかのように。
——その時。
流れていた会話のざわめきが、ふと変化した。
新たな旋律が広間に響き渡る。
ダンスの時間。
身分の高い者から順に、舞踏会のフロアへと進み、踊り始める。
先に踊り出すのは、この場で最も格式のある貴族たち。
そして、彼らに続くように、次々とダンスの輪が広がっていく。
「——行こう。」
ヘルムデッセンが、ゆっくりとヴィーラの手を取る。
その手は温かく、そしてしっかりと彼女を包み込む。
ヴィーラは、一瞬だけ躊躇した。
まだ、彼の口づけの余韻が残っている。
心臓が落ち着かないまま、踊ることなんて——。
しかし、ヘルムデッセンの瞳には迷いがなかった。
(……まったく、どうしてこの人はこうも堂々としているのかしら。)
彼に引かれるまま、ヴィーラはそっと手を重ねた。
——二人は、舞踏のフロアへと足を踏み入れる。
ワルツの旋律が高らかに響く。
広間の中央、ヘルムデッセンとヴィーラの姿が、美しく舞い始める。
ヘルムデッセンは彼女の腰にしっかりと手を添え、もう片方の手で彼女の指を優雅に包み込んだ。
ヴィーラは自然と身を委ね、彼の導くままに足を運ぶ。
流れるような動き、無駄のないステップ——。
二人の呼吸はぴたりと合い、まるで音楽の一部であるかのように滑らかに踊っていた。
(ヘルったら、どこでキスなんて覚えてきたのかしら……。)
彼の足取りには迷いがない。
少し前まで、彼は貴族らしい舞踏を苦手としていたはずなのに——今は完璧なリードで彼女を誘う。
「……ファーストキスを、あんなところで……。」
ヴィーラはふと呟いた。
拗ねたような、けれどどこか甘えた声音だった。
ヘルムデッセンの赤い瞳が、わずかに細められる。
「奇遇だな。俺もはじめてだ。」
「……っ!」
彼の言葉に、ヴィーラは思わず顔を上げた。
(はじめて……それはそうだろうけど…。本能で動いちゃったのかしら。)
驚いたように見上げると、ヘルムデッセンは微かに口角を上げる。
「まったく……。」
ヴィーラは、唇を尖らせながらも、目を逸らす。
心臓が落ち着かない。
彼はただ真実を口にしただけなのに、その誠実さが、余計に胸を締めつける。
だが——
ヘルムデッセンは、彼女のそんな反応すらも愛おしそうに見つめながら、満足げに踊り続けた。
頬を染めるヴィーラを抱きながら、ヘルムデッセンはご満悦な表情を浮かべる。
それもそのはず。
彼は、王都の貴族たちが見守る中で、はっきりと示したのだ。
【この女性は、俺のものだ。】
彼の腕の中で、彼女は誰よりも美しく、誇らしかった。
二人の舞は、静かに広間の空気を変えていた。
優雅で、洗練されていて、それでいてどこか情熱的——
そのダンスは、まるで音楽そのものと一体化しているようだった。
驚きの声が、次々と貴族たちの間から漏れる。
「……こんなデュークデイモン辺境伯を、見たことがない。」
「彼は戦場の獣ではなかったのか……?」
「いや、それだけではない。この動き……貴族の舞踏としても完璧ではないか?」
ダンスに目を奪われた貴族たちは、一様に息を呑む。
誰もが知っていた。
彼は戦士であり、武人であり、決して舞踏を好むような男ではなかったはずだ。
だが今、目の前にいる彼は、優雅にヴィーラをエスコートし、貴族としての品格すら漂わせていた。
彼の視線は、ただひたすらヴィーラを見つめている。
愛おしさと誇り——
まるで、【俺のすべてはこの女性のためにある】と言わんばかりに。
「(……信じられない。)」
「(本当にデュークデイモン辺境伯なのか?)」
「(これは……デュークデイモン夫人の影響)」
「(いや、それだけではない。彼自身が——)」
貴族たちの囁きが広がっていく。
その中で、ただ一つだけ、誰もが確信していたことがあった。
——ヘルムデッセンは、もはや戦場の獣ではない。
彼は、堂々と貴族社会の舞台に立ったのだ。
そして——
彼の隣には、まるで夜空に輝く星のようなヴィーラがいた。
ヘルムデッセンは、誇らしげに彼女を抱き寄せる。
彼女を、そして自分を見つめるすべての視線に、ただ静かに微笑んだ。
彼は戦場でも、社交界でも、たった一つのことを貫いていた。
それは——
【ヴィーラを、誰にも奪わせない。】
その決意を秘めながら、二人の舞は、さらに優雅に、美しく広間を彩っていく——。




