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男の笑顔が一瞬固まり、それからゆっくりと柔らかくなった。


「……なんだ、それは。忘れられたのか?」


 どこか拗ねたような、しかしどこか面白がっているような声音。


 ヴィーラは再び彼の顔をじっと見つめた。けれど、記憶の中の誰かと結びつかない。


 赤い瞳、黒髪――。


 頭の中で何かが引っかかる。


「黒髪に赤い瞳……?」


 呟いた途端、胸の奥で何かが弾けるような感覚がした。そして、はっとしたように顔を上げる。


「もしかして……旦那様ですか!?」


 驚きと戸惑いが入り混じった声。


「そうだとも!ヴィーラ!」


 その瞬間、強い腕が彼女を抱きしめた。


「わっ、ちょっ……!」


 息をのむ間もなく、がっしりとした筋肉の腕に包まれる。力強い温もりが伝わり、呼吸が詰まるほどの密着感。


「あ、あの!え!?離れてください!」


 顔を真っ赤にしながら必死に押し返そうとするが、ビクともしない。


(いきなりなに!?どうなってるの!?)


 混乱の中、彼の体温と匂いがぐっと近づく。


「もう離れないさ」


 低く響く声が耳元で囁かれ、ヴィーラは思わず身をこわばらせた。


「イーディルス王国にあだなす敵国はすべて排除してきた!戦利品もがっぽり持って帰ってきたよ!」


 そう言いながら、さらに抱きしめ、頬をすりつけてくる。


「え、えええ!?ちょ、ちょっと!!」


 温もりに押しつぶされそうになりながら、ヴィーラは必死に状況を整理しようとする。


 これが本当に、あの……?


 あの恐怖の象徴みたいな、ヘルムデッセンなの!?


 ――ん?


 今、戦利品をがっぽり……?


 ヴィーラの混乱は一気に別の方向へと向かう。


 また仕事が増えた……。


 この二年間、定期的に届く戦利品を捌き、運用してきたのはヴィーラ自身だった。珍しい品や高価すぎるものは王へ献上し、領地に必要なものは再分配する。その作業には膨大な手間がかかる。


(また大忙しになってしまう……)


 気が遠くなりそうな思いでため息をついた。


「とりあえず、落ち着いてください。旦那様。」


 ヴィーラはヘルムデッセンの肩を軽く押しながら、冷静に言った。


 すると、彼はぴたりと動きを止め、赤い瞳を真っ直ぐにこちらへ向ける。


「ヘルと呼んでほしいな……ヴィーラ。」


 優しく、しかしどこか甘さを含んだ声。


 その瞬間、心臓が跳ねた。


「う……」


 なぜか視線を逸らしたくなったが、彼の真剣な瞳に逆らえず、ぎこちなく頷く。


「わかりました……ヘル。」


 口に出してみると、妙に馴染まない感じがした。


 しかし、それを聞いたヘルムデッセンは満足げに微笑む。


(とんでもない体格ね……)


 改めて彼を見上げる。


 背が高いだけでなく、近くで見ると胸板はまるで鉄のように硬そうだった。腕も太く、彼に抱きしめられた時の圧力が思い出される。


(顔はこんなに整っていたのね……)


 戦場ばかりの男だから、もっと荒々しい顔立ちを想像していたが、整った彫りの深い顔は、どこか端正で威厳があった。


「それで、何をしに帰ってきたのですか?」


 ヴィーラはできるだけ冷静を装いながら尋ねた。


 すると、ヘルムデッセンは目を輝かせながら、何の迷いもなく答えた。


「結婚式をしようと思って!もう当分は平和になるから。」


 ヴィーラは息をのんだ。


(本気……なの!?)


 彼の顔には冗談の色はまったくない。むしろ、嬉しそうにさえ見える。


「ですが……私たちが結婚してからもう二年も経っています。今さら式を挙げたって……」


「だめだ。」


 即答だった。


 ヘルムデッセンの目が真剣に光る。


「君が俺のものだって、国中に広めたい。」


「は!??」


 思わず間抜けな声が出た。


―――――――――

――――――


 それからしばらくして――。


 ヴィーラは執務室で戦利品の整理を進めていた。机の上には山積みの書類、傍らでは兵士たちが宝飾品や絨毯、珍しい武具などを次々と並べていく。


「この宝剣は王へ献上、こちらの香辛料は商隊と交渉して売却を……」


 ヴィーラは次々と的確な指示を出し、周囲の者たちは素早く動いていく。


 そんな忙しい最中――。


 突然、背後から大きな腕が彼女の体を包み込んだ。


「……!? ヘル!」


 驚いて振り向こうとするが、がっしりとした腕がその動きを封じる。


「結婚式はー?もう三日たってる。」


 ヘルムデッセンが耳元で甘えるように囁く。彼の声は低く、どこか拗ねたような響きを帯びていた。


 ヴィーラは小さくため息をつく。


「ヘル、三日ではあなたの注文の“国中”というのは無理です。それに、王都で式を挙げたいというから、やっと今朝会場を予約したところですよ。早くとも半年はかかります。」


 彼の腕の力がわずかに緩む。


「半年……」


 ヘルムデッセンはしょんぼりと肩を落とした。


 ヴィーラは思わず微笑んで、その大きな手を軽く叩く。


「拗ねてないで、私の仕事を手伝ってください。」


「肩を揉むか? 茶を煎れようか?」


 期待に満ちた声でそう提案され、ヴィーラは思わず目を瞬かせる。


「はい? そうではなく、執務を……」


「ははは!」


 唐突な笑い声が室内に響く。


「ヘルムデッセン様に執務は無理ですよ。」


 言ったのは側近のディルプールだった。青髪のショートヘア、刈り上げた襟足が特徴の若き軍師である。


「この人、幼少期から王命で戦場に行かされてましたから、喋り方と最低限のマナーしか教わってませんよ。」


 ヘルムデッセンはむっとした顔をしてヴィーラを見た。


「……まじか~」


 ヴィーラは頭を抱え、大きくため息をついた。


「わかりました。では、執事に言っておくので、勉強から始めてください。」


 ヘルムデッセンは不満げに口を尖らせながらも、「仕方ない」とばかりに腕を組んで頷く。


―――――――――

―――――――


その夜。


 食堂の扉の前で、ヘルムデッセンは珍しく落ち着かない様子だった。


 彼は扉を薄く開けては閉じ、開けてはまた閉じる。それを何度か繰り返し、明らかに迷っているのが見て取れる。


 ヴィーラはそんな彼の挙動を見て、眉をひそめた。


(何をやっているの……?)


 ついに痺れを切らし、ヴィーラはバッと扉を大きく開けた。


「どうしたのですか? 入らないのですか?」


 突然のことにヘルムデッセンはわずかに肩を跳ねさせた。


「いや…その…。」


 言い淀む彼の横で、側近のディルプールが楽しげに口を開く。


「ヘルムデッセン様は、テーブルマナーがわからないのですよ。」


「……はぁ。」


 ヴィーラは長いため息をついた。


(まあ、戦場育ちなら当然かもしれないけれど……)


「わかりました、私が教えます。」


 ヴィーラは椅子を引き、ヘルムデッセンを席につかせた。


「見ていてください。これはこうして食べます。」


 ナイフとフォークを取り、手本を見せながら食事の仕方を説明する。


 ヘルムデッセンは真剣な顔でそれを見つめ、まるで新しい武器の扱いを覚えるかのように、慎重にナイフとフォークを手に取った。


「こう……か?」


 ぎこちない手つきでナイフを動かし、フォークで肉を刺す。うまくいかず、少しばかり皿を引きずってしまう。


 ヴィーラはくすっと微笑んだ。


「ゆっくりでいいんですよ。」


 ヘルムデッセンは照れ臭そうにしながらも、必死に覚えようとする。その姿に、ヴィーラの中に微かな温かい感情が生まれた。


(まるで、戦のことしか知らない大きな子供みたいね……)


 ヴィーラはふとため息をつき、静かに席を立つ。そして、ヘルムデッセンの背後へと回り込んだ。


「ヘル、少し手を貸してもいいですか?」


 そう言いながら、彼の手にそっと触れる。ヘルムデッセンの体が一瞬こわばるのが伝わってきた。


「こうやって持つんですよ。」


 ヴィーラは彼の大きな手を包み込むようにしながら、ナイフとフォークの正しい持ち方を教える。


 ヘルムデッセンの手は戦場で鍛え抜かれた分厚い手で、力強く、それでいてどこか慎重な動きをしていた。


 彼女がそっと手を添えると、ヘルムデッセンは戸惑いながらも、静かに動きを合わせる。


「こうやって、ナイフは軽く握って……フォークは少し角度をつけて……」


 ヴィーラの指が彼の指の上を滑るように動く。教えるつもりで触れているのに、いつの間にか彼の体温がじんわりと伝わり、どこか心がくすぐったい。


「……ふむ、なるほど……」


 ヘルムデッセンの低い声がすぐ近くで響いた。


 ふと、ヴィーラは自分たちの距離の近さに気づき、頬が熱くなる。


 背中から感じる彼の存在は大きく、包み込まれるような安心感があった。


 ヘルムデッセンもまた、静かに息をのむ気配を見せた。


「ヴィーラ……あたたかいな。」


 思わず囁かれるような声に、ヴィーラは一瞬動きを止める。


「……え?」


 その言葉の意味を考える前に、彼の手のひらが少しだけヴィーラの指を握り返した。


 不器用だけれど、確かに気持ちが込められた仕草。


「……もう一度、やってみましょうか。」


 ヴィーラは心を落ち着かせるように言いながら、そっと彼の手を導いた。





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