②
男の笑顔が一瞬固まり、それからゆっくりと柔らかくなった。
「……なんだ、それは。忘れられたのか?」
どこか拗ねたような、しかしどこか面白がっているような声音。
ヴィーラは再び彼の顔をじっと見つめた。けれど、記憶の中の誰かと結びつかない。
赤い瞳、黒髪――。
頭の中で何かが引っかかる。
「黒髪に赤い瞳……?」
呟いた途端、胸の奥で何かが弾けるような感覚がした。そして、はっとしたように顔を上げる。
「もしかして……旦那様ですか!?」
驚きと戸惑いが入り混じった声。
「そうだとも!ヴィーラ!」
その瞬間、強い腕が彼女を抱きしめた。
「わっ、ちょっ……!」
息をのむ間もなく、がっしりとした筋肉の腕に包まれる。力強い温もりが伝わり、呼吸が詰まるほどの密着感。
「あ、あの!え!?離れてください!」
顔を真っ赤にしながら必死に押し返そうとするが、ビクともしない。
(いきなりなに!?どうなってるの!?)
混乱の中、彼の体温と匂いがぐっと近づく。
「もう離れないさ」
低く響く声が耳元で囁かれ、ヴィーラは思わず身をこわばらせた。
「イーディルス王国にあだなす敵国はすべて排除してきた!戦利品もがっぽり持って帰ってきたよ!」
そう言いながら、さらに抱きしめ、頬をすりつけてくる。
「え、えええ!?ちょ、ちょっと!!」
温もりに押しつぶされそうになりながら、ヴィーラは必死に状況を整理しようとする。
これが本当に、あの……?
あの恐怖の象徴みたいな、ヘルムデッセンなの!?
――ん?
今、戦利品をがっぽり……?
ヴィーラの混乱は一気に別の方向へと向かう。
また仕事が増えた……。
この二年間、定期的に届く戦利品を捌き、運用してきたのはヴィーラ自身だった。珍しい品や高価すぎるものは王へ献上し、領地に必要なものは再分配する。その作業には膨大な手間がかかる。
(また大忙しになってしまう……)
気が遠くなりそうな思いでため息をついた。
「とりあえず、落ち着いてください。旦那様。」
ヴィーラはヘルムデッセンの肩を軽く押しながら、冷静に言った。
すると、彼はぴたりと動きを止め、赤い瞳を真っ直ぐにこちらへ向ける。
「ヘルと呼んでほしいな……ヴィーラ。」
優しく、しかしどこか甘さを含んだ声。
その瞬間、心臓が跳ねた。
「う……」
なぜか視線を逸らしたくなったが、彼の真剣な瞳に逆らえず、ぎこちなく頷く。
「わかりました……ヘル。」
口に出してみると、妙に馴染まない感じがした。
しかし、それを聞いたヘルムデッセンは満足げに微笑む。
(とんでもない体格ね……)
改めて彼を見上げる。
背が高いだけでなく、近くで見ると胸板はまるで鉄のように硬そうだった。腕も太く、彼に抱きしめられた時の圧力が思い出される。
(顔はこんなに整っていたのね……)
戦場ばかりの男だから、もっと荒々しい顔立ちを想像していたが、整った彫りの深い顔は、どこか端正で威厳があった。
「それで、何をしに帰ってきたのですか?」
ヴィーラはできるだけ冷静を装いながら尋ねた。
すると、ヘルムデッセンは目を輝かせながら、何の迷いもなく答えた。
「結婚式をしようと思って!もう当分は平和になるから。」
ヴィーラは息をのんだ。
(本気……なの!?)
彼の顔には冗談の色はまったくない。むしろ、嬉しそうにさえ見える。
「ですが……私たちが結婚してからもう二年も経っています。今さら式を挙げたって……」
「だめだ。」
即答だった。
ヘルムデッセンの目が真剣に光る。
「君が俺のものだって、国中に広めたい。」
「は!??」
思わず間抜けな声が出た。
―――――――――
――――――
それからしばらくして――。
ヴィーラは執務室で戦利品の整理を進めていた。机の上には山積みの書類、傍らでは兵士たちが宝飾品や絨毯、珍しい武具などを次々と並べていく。
「この宝剣は王へ献上、こちらの香辛料は商隊と交渉して売却を……」
ヴィーラは次々と的確な指示を出し、周囲の者たちは素早く動いていく。
そんな忙しい最中――。
突然、背後から大きな腕が彼女の体を包み込んだ。
「……!? ヘル!」
驚いて振り向こうとするが、がっしりとした腕がその動きを封じる。
「結婚式はー?もう三日たってる。」
ヘルムデッセンが耳元で甘えるように囁く。彼の声は低く、どこか拗ねたような響きを帯びていた。
ヴィーラは小さくため息をつく。
「ヘル、三日ではあなたの注文の“国中”というのは無理です。それに、王都で式を挙げたいというから、やっと今朝会場を予約したところですよ。早くとも半年はかかります。」
彼の腕の力がわずかに緩む。
「半年……」
ヘルムデッセンはしょんぼりと肩を落とした。
ヴィーラは思わず微笑んで、その大きな手を軽く叩く。
「拗ねてないで、私の仕事を手伝ってください。」
「肩を揉むか? 茶を煎れようか?」
期待に満ちた声でそう提案され、ヴィーラは思わず目を瞬かせる。
「はい? そうではなく、執務を……」
「ははは!」
唐突な笑い声が室内に響く。
「ヘルムデッセン様に執務は無理ですよ。」
言ったのは側近のディルプールだった。青髪のショートヘア、刈り上げた襟足が特徴の若き軍師である。
「この人、幼少期から王命で戦場に行かされてましたから、喋り方と最低限のマナーしか教わってませんよ。」
ヘルムデッセンはむっとした顔をしてヴィーラを見た。
「……まじか~」
ヴィーラは頭を抱え、大きくため息をついた。
「わかりました。では、執事に言っておくので、勉強から始めてください。」
ヘルムデッセンは不満げに口を尖らせながらも、「仕方ない」とばかりに腕を組んで頷く。
―――――――――
―――――――
その夜。
食堂の扉の前で、ヘルムデッセンは珍しく落ち着かない様子だった。
彼は扉を薄く開けては閉じ、開けてはまた閉じる。それを何度か繰り返し、明らかに迷っているのが見て取れる。
ヴィーラはそんな彼の挙動を見て、眉をひそめた。
(何をやっているの……?)
ついに痺れを切らし、ヴィーラはバッと扉を大きく開けた。
「どうしたのですか? 入らないのですか?」
突然のことにヘルムデッセンはわずかに肩を跳ねさせた。
「いや…その…。」
言い淀む彼の横で、側近のディルプールが楽しげに口を開く。
「ヘルムデッセン様は、テーブルマナーがわからないのですよ。」
「……はぁ。」
ヴィーラは長いため息をついた。
(まあ、戦場育ちなら当然かもしれないけれど……)
「わかりました、私が教えます。」
ヴィーラは椅子を引き、ヘルムデッセンを席につかせた。
「見ていてください。これはこうして食べます。」
ナイフとフォークを取り、手本を見せながら食事の仕方を説明する。
ヘルムデッセンは真剣な顔でそれを見つめ、まるで新しい武器の扱いを覚えるかのように、慎重にナイフとフォークを手に取った。
「こう……か?」
ぎこちない手つきでナイフを動かし、フォークで肉を刺す。うまくいかず、少しばかり皿を引きずってしまう。
ヴィーラはくすっと微笑んだ。
「ゆっくりでいいんですよ。」
ヘルムデッセンは照れ臭そうにしながらも、必死に覚えようとする。その姿に、ヴィーラの中に微かな温かい感情が生まれた。
(まるで、戦のことしか知らない大きな子供みたいね……)
ヴィーラはふとため息をつき、静かに席を立つ。そして、ヘルムデッセンの背後へと回り込んだ。
「ヘル、少し手を貸してもいいですか?」
そう言いながら、彼の手にそっと触れる。ヘルムデッセンの体が一瞬こわばるのが伝わってきた。
「こうやって持つんですよ。」
ヴィーラは彼の大きな手を包み込むようにしながら、ナイフとフォークの正しい持ち方を教える。
ヘルムデッセンの手は戦場で鍛え抜かれた分厚い手で、力強く、それでいてどこか慎重な動きをしていた。
彼女がそっと手を添えると、ヘルムデッセンは戸惑いながらも、静かに動きを合わせる。
「こうやって、ナイフは軽く握って……フォークは少し角度をつけて……」
ヴィーラの指が彼の指の上を滑るように動く。教えるつもりで触れているのに、いつの間にか彼の体温がじんわりと伝わり、どこか心がくすぐったい。
「……ふむ、なるほど……」
ヘルムデッセンの低い声がすぐ近くで響いた。
ふと、ヴィーラは自分たちの距離の近さに気づき、頬が熱くなる。
背中から感じる彼の存在は大きく、包み込まれるような安心感があった。
ヘルムデッセンもまた、静かに息をのむ気配を見せた。
「ヴィーラ……あたたかいな。」
思わず囁かれるような声に、ヴィーラは一瞬動きを止める。
「……え?」
その言葉の意味を考える前に、彼の手のひらが少しだけヴィーラの指を握り返した。
不器用だけれど、確かに気持ちが込められた仕草。
「……もう一度、やってみましょうか。」
ヴィーラは心を落ち着かせるように言いながら、そっと彼の手を導いた。