⑱
ヴィーラは柔らかな布団の中で、静かに天井を見つめていた。
暖かなランプの灯りがほのかに揺れ、寝室の中を優しく照らしている。
隣には、ヘルムデッセンが腕を枕にしながら横になっていた。
戦場では猛々しい姿しか見せない彼も、こうして寝室では穏やかな空気を纏っている。
まるで、ここだけが戦場の喧騒から切り離された特別な場所のようだった。
「いよいよ、明日には王都へ行かなくちゃね。」
ヴィーラがぽつりと呟くと、隣のヘルムデッセンがゆっくりと目を開け、彼女の方へ顔を向けた。
「あぁ。宿をとるのか?」
「くすっ。」
ヴィーラは小さく笑い、彼を見つめながら優雅に頭を振った。
「王都に家を買ってあるわ。」
「……は?」
ヘルムデッセンの表情が、一瞬にして驚愕に染まる。
「えぇ、あなたが不在の間、私も何度か社交へ出ていたから、その時に購入させてもらったわ。」
「そうか……!」
ヘルムデッセンは感心したように、しばし天井を見つめると——
次の瞬間、勢いよくヴィーラを抱き寄せた。
「おい!? ちょっ……!!」
驚いて顔を赤らめるヴィーラの肩をしっかりと抱きしめながら、彼は朗らかに笑う。
「俺の稼ぎをふんだんに使うヴィーラは最高だ!」
「ちょっ、ちょっと!」
ヴィーラは顔を赤らめながら必死に抵抗するが、彼の腕の中は暖かく、強く、安心感に満ちていた。
戦場では決して見せない、彼の無邪気な笑顔がすぐそばにある。
(……もう、本当に。)
「だいたい、辺境伯ほどの地位を手にしていて、王都に屋敷を持たないのはダメよ。」
彼の胸に押し付けられたまま、ヴィーラは少し拗ねたように言う。
ヘルムデッセンは、その言葉に思わず眉を寄せた。
「そ、そうなのか?」
「そうよ。」
「……また勉強しておく。」
彼はやや不満そうに呟いたが、それでもしっかりと受け止めているのが分かる。
ヴィーラは、彼の髪を軽く撫でながら、ふと思い出したように言った。
「えぇ。デリー王子と一緒に父の授業でも受けてみれば?」
「授業……?」
ヘルムデッセンは一瞬、考え込むように視線を落としたが、やがて納得したように頷いた。
「あぁ、それもいいかもしれないな。」
(ふふ。意外と素直に受け入れるのね。)
彼のそんな姿を微笑ましく思いながら、ヴィーラは彼の腕の中でゆっくりとまぶたを閉じた。
「……ヘル。」
「ん?」
「……なんでもないわ。」
静かに囁くように呟くと、ヘルムデッセンは小さく微笑んで、彼女の髪をそっと撫でた。
「……おやすみ、ヴィーラ。」
その穏やかな声を聞きながら、ヴィーラの意識は次第に深い眠りへと沈んでいく。
暖かさに包まれながら——
ゆっくりと、静かに——
明日への期待と共に、二人は心地よい眠りへと落ちていった。
――――――――――
―――――――
朝焼けが東の空を淡く染める頃、ヴィーラとヘルムデッセンは王都へ向けての出発を迎えた。
澄んだ冷たい空気が肌を撫で、寝静まった領地の屋敷に朝の光が差し込む。
ヴィルトン・ベルホックは玄関前に立ち、厳格な顔立ちを保ちながらも、どこか名残惜しそうな表情を浮かべていた。
「気をつけるのだぞ。」
「えぇ、お父様。」
ヴィーラは微笑みながら言葉を返し、手綱を持つヘルムデッセンへと視線を向けた。
「あなたも。」
「わかってる。」
ヘルムデッセンは力強く頷き、手綱を引く。
馬が軽く鼻を鳴らしながら前脚を踏み鳴らし、準備を整えるように動く。
ヴィルトンは、最後まで真剣な目で彼らを見送っていたが、ふと目を細めた。
「くれぐれも無理はするなよ、ヘルムデッセン殿。」
「……はい。」
彼の言葉には、まるで“娘を頼む”という意図が込められているようだった。
ヘルムデッセンはその意味をしっかりと受け取り、軽く頷くと、馬をゆっくりと走らせ始めた。
ヴィーラは父に向けて最後の会釈をし、馬の揺れと共に王都への道を進み始める。
・
・
・
しばらくして、街道に出ると、視界に別の馬車が走っているのが見えた。
黒塗りのそれは、荷物も何も積んでおらず、完全に空であることがわかる。
ヘルムデッセンはちらりとヴィーラの横顔を見やりながら、静かに問いかけた。
「聞かないの?」
「何を?」
「どうして馬で移動するのか。」
ヴィーラは小さく微笑んだが、その表情にはどこか影が差していた。
「……聞いたんだ。」
ヘルムデッセンの赤い瞳がわずかに細められる。
「1年前の公爵家のパーティーの日、お前が襲われたことを。」
その言葉に、ヴィーラの瞳がかすかに揺れた。
彼女の頭の中には、あの夜の出来事が鮮明に蘇ってくる——。
――――――――――――
――――――――
冷たい夜風が、馬車のカーテンをわずかに揺らした。
それは、領地の経営がようやく安定し始めた頃のことだった。
貴族社会とのつながりを維持し、今後の経済や政治における影響力を確立するため、ヴィーラは王都で開かれる公爵家のパーティーへ向かっていた。
馬車の中、彼女は静かに本をめくりながら、護衛たちの様子を気にしていた。
数人の兵士が馬を並べ、常に警戒しながら進んでいる。
(……この道は比較的安全なはず。)
そう思った矢先——。
——ドンッ!!
突然の衝撃が車輪に伝わった。
「……っ!」
馬車が大きく揺れ、中にいたヴィーラはバランスを崩しそうになる。
同時に、外から兵士たちの鋭い叫び声が響いた。
「敵襲だ!!!」
その言葉が終わるよりも早く、外で剣がぶつかり合う甲高い音が響き渡る。
馬の嘶きが夜の静寂を切り裂き、怒号と悲鳴が混ざり合った。
(……来たわね。)
ヴィーラは馬車の窓の外を素早く確認する。
森の暗闇から無数の影が飛び出し、鋭い刃を振りかざして護衛に襲いかかっていた。
顔を布で覆い、闇に紛れるような漆黒の装束をまとった男たち——ただの山賊ではない。
(これは……計画的な襲撃。)
単なる無法者の群れではなく、訓練された動き。
まるで、馬車の進路を正確に把握し、待ち伏せていたかのような奇襲だった。
「ヴィーラティーナ様!」
護衛の一人が馬車の扉を叩きながら叫ぶ。
「逃げてください! ここは——!」
——ザシュッ!
声が途中で途切れた。
「……っ!!」
扉の向こうで、鈍く重い音が響く。
ヴィーラは息を詰め、扉の隙間からそっと覗いた。
——護衛の男が、胸から血を流しながら地面に倒れていた。
その背後には、血に濡れた剣を持つ賊の一人が立っている。
その目が、ゆっくりとヴィーラの方を向いた。
背筋に、冷たいものが走る。
(……死ぬ。)
これが戦場なら、無防備な自分はまず助からない。
兵士たちが相手なら、剣を持たぬ者は容赦なく斬られる。
ガチャン——!
馬車の扉が荒々しく開かれた。
「へぇ……これは高そうな荷だ。」
男の声は、冷たく歪んでいた。
彼の手には血のついた短剣が光る。
「貴族の令嬢か? 金目のものは……いや、お前自身を持ち帰るのも悪くねぇな。」
男はにやりと笑いながら、ヴィーラの頬に手を伸ばす。
——その瞬間。
バァンッ!!!
轟音が森に響き渡った。
男の肩が弾け飛び、鮮血が闇夜に散る。
「ぐあっ……!!!」
悲鳴を上げながら、男が地面に転がった。
ヴィーラの手には、硝煙を上げる小さな拳銃が握られていた。
両手はわずかに震えている。
(……撃った……!)
初めての銃撃。
初めて、人間に向けて引き金を引いた。
けれど、それを自覚する暇もなく——。
「やりやがったな……!」
別の賊が、剣を抜いて飛びかかってくる。
ヴィーラはすぐに銃を構え直すが、相手の動きの方が早い。
間に合わない——。
「——っ!」
しかし、その剣が振り下ろされる寸前——外から矢が飛び、賊の腕を貫いた。
「ぐあぁっ!!」
護衛の生き残りが、必死に援護していた。
「ヴィーラティーナ様! 下がってください!!」
(……負けるわけにはいかない。)
ヴィーラはすぐに銃の装填を終え、賊たちに狙いを定める。
再び響く銃声——。
護衛たちの反撃——。
やがて賊は形勢を崩し、撤退を余儀なくされた。
馬車の中、ヴィーラは震える指をじっと見つめていた。
引き金を引いた感触が、まだ指に残っている。
「……。」
冷たい汗が額を伝う。
(私は……殺した……?)
いや、違う。
撃ったのは肩と足だけ。
護衛の処理が確実なら、死んではいない。
それでも——。
(……私は、戦えたのね。)
あの瞬間、体が動いた。
恐怖に囚われる前に、撃つことができた。
護衛のひとりが、血に濡れた剣を握ったまま扉を開ける。
「ヴィーラ様、ご無事ですか……?」
彼の表情には、明らかな安堵の色が浮かんでいた。
「えぇ……私は無事よ。」
ヴィーラは深く息を吸い、いつもの冷静な表情を作る。
(この国では、生き残るために戦うことが必要なのね。)
貴族令嬢だろうと、誰かの庇護のもとにいられるわけではない。
とくに、今の私の立場では——。
(次に襲われた時は……もっと冷静に対処できるように。)
その夜、ヴィーラは何度も手を握り、銃を構える仕草を繰り返した。
震えが完全に消えるまで——。
――――――――――
―――――――
「……聞いてたのね。」
ヴィーラは呟くように言った。
ヘルムデッセンは視線を前へ戻し、静かに手綱を引く。
「……それだけじゃない。」
彼は少しだけ息をつき、まるで独り言のように続けた。
「こうしてお前を抱きながら移動したかったのもある。」
「——っ!」
その言葉に、ヴィーラの胸がかすかに震えた。
彼の腕が、いつの間にかそっと彼女の腰を支えている。
まるで、“どんなことがあっても守る”とでも言うように。
「ヘル……。」
彼の横顔を見ると、真剣な表情のまま、ただ静かに前を見据えていた。
(……ずるいわね。)
彼は、戦場では無敵の戦士だ。
だけど、こんなふうに不意に甘い言葉を落としてくることがある。
「……ふふ。」
ヴィーラは小さく笑った。
「どうした?」
「いいえ、なんでも。」
彼の腕の温もりを感じながら、ヴィーラは静かに目を閉じた。