⑯
領地に戻った翌日、昼下がりの柔らかな日差しが大広間に差し込んでいた。
戦場の喧騒とは打って変わって、穏やかで優雅な時間が流れている。
外では庭師たちが手入れをしており、庭園には色とりどりの花が咲き誇っていた。
噴水の水音が心地よく響き、時折吹き抜ける風が、屋敷内のカーテンを静かに揺らす。
そんな穏やかな雰囲気の中、ヴィーラは鏡の前で身だしなみを整えていた。
——届けられた礼服を試着するために。
今度のパーティーのために仕立てられた衣装は、黒を基調とし、金の刺繍が華やかに施された格式高いものだった。
ヴィーラのドレスは、流れるようなデザインが施され、細かな金糸の装飾が夜空に輝く星のように美しい。
袖口や裾には繊細なレースがあしらわれており、着る者の品格を際立たせるような仕立てになっていた。
そして——。
ヘルムデッセンの衣装は、彼の威厳ある雰囲気にふさわしい、黒地に金の刺繍が入った軍服風の礼装。
肩にはしっかりとした金の飾りがつき、襟元には精巧な装飾が施されている。
黒の生地が彼の鍛え上げられた体を一層引き締め、逞しい体躯を際立たせる。
ヴィーラは、彼が鏡越しに礼服を整えている姿を目にした瞬間——。
(……カッコいい。)
思わず息を呑んだ。
もともと彼は戦場に立つだけで人目を惹くほどの威圧感と存在感を持っていたが、こうして正装を身に纏うと、ただの戦士ではなく、一人の貴族の男としての魅力が際立っていた。
鋭い赤い瞳が礼服を確かめるように鏡を見つめ、無造作に流れた黒髪が、彼の野性味を残しつつも洗練された雰囲気を醸し出している。
「問題ないわね。」
ヴィーラは努めて冷静を装いながら、静かに呟いた。
ヘルムデッセンはその言葉に反応し、自分の袖を軽く整えながら頷く。
「あぁ、俺も問題ない。」
彼がそう答えた瞬間、ふと目が合った。
そして、ヘルムデッセンもまた、ヴィーラの姿を見つめたまま、動きを止める。
(……綺麗だ。)
彼の視線が、ゆっくりと彼女の全身をなぞる。
深い黒のドレスが、ヴィーラの肌の白さを際立たせ、金糸の刺繍が彼女の優雅さを一層引き立てていた。
陽光を受けた金の髪が柔らかく光を反射し、宝石のような黄金色の瞳が静かに彼を見つめ返していた。
ヘルムデッセンはしばらくの間、ただ黙って彼女を見つめていた。
(……何だ、この感覚は。)
これまで何度も彼女を見てきた。
戦場で冷徹に指揮を執る姿も、書類に没頭する姿も、時折見せる無防備な表情も。
だが——。
今目の前にいるヴィーラは、それらすべてを凌駕するほどの美しさを纏っていた。
彼女は、堂々としているのに、どこか儚くも感じられた。
まるで夜空に浮かぶ一番星のように。
「……。」
ヘルムデッセンが無言で見惚れていると——。
「……ふむ。」
不意に、部屋の隅から控えめな咳払いが聞こえた。
二人はハッとして視線を向ける。
側近のディルプールが、涼しい顔で彼らを見つめていた。
「お二人とも、存分に見惚れ合ったところで……」
「っ!?」
ヴィーラは反射的に顔を背ける。
ヘルムデッセンも少しだけ咳払いをしながら、腕を組む。
「……何だ、ディルプール。」
「せっかくの礼服ですし、ダンスの練習をなさってはいかがでしょう?」
「……ダンス?」
「公爵家のパーティーでは、貴族らしい振る舞いが求められます。」
ディルプールは優雅に手を広げる。
「ダンスは、その場の華となるもの。特に、お二人が正式な夫婦として公の場に立つ以上、優雅に舞う姿をお見せになるのが望ましいでしょう。」
ヴィーラは納得したように頷いた。
「まぁ、それもそうね。」
執事が指を鳴らすと、控えていた楽師たちが静かに音を奏で始める。
優雅なワルツの旋律が広間に響く。
「ヘル、手を出して。」
ヴィーラは彼に向かって手を差し出した。
ヘルムデッセンは少しだけ躊躇したが、すぐに彼女の手を取り、そっと引き寄せる。
——その瞬間、ヴィーラは驚いた。
彼のリードは、以前よりも遥かに滑らかだった。
まるで貴族としての教育を受けた者のように、確かな動きで彼女を導く。
「前より格段と……」
「……良くなってるだろ?」
ヘルムデッセンは得意げに微笑んだ。
「ヘル、また練習頑張ったの?」
「もちろん。」
堂々とした口調に、ヴィーラは少しだけ眉を上げた。
「どうして?」
すると——。
ヘルムデッセンはふっと笑い、少しだけ彼女の耳元に顔を近づけた。
「だって、お前を誰にも奪われたくないから。」
「——っ!」
彼の低い声が耳に触れた瞬間、ヴィーラの心臓が大きく跳ねた。
(な、なにそれ……!)
顔を見上げると、ヘルムデッセンの赤い瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめている。
その眼差しには、強い決意と独占欲が宿っていた。
「……。」
心が静かに揺さぶられる。
彼がこんなにも自分を必要としてくれていることが、痛いほど伝わってくる。
「……ふふ。」
ヴィーラは小さく微笑み、そっと彼の手に力を込めた。
ワルツのリズムが、二人を包み込むように流れていく。
・
・
・
しばらくして、ワルツの旋律がゆっくりと終わりを迎え、最後の一歩とともにヴィーラとヘルムデッセンは静かに動きを止めた。
二人の呼吸が重なり合い、余韻を楽しむように見つめ合う。
——その時。
「……!」
小さな手が、ぱちぱちと楽しげに音を立てた。
二人が視線を向けると、部屋の端に座っていたデリー王子が、目を輝かせながら小さな拍手を送っていた。
「ダリー、起きてたのか?」
ヘルムデッセンは驚いたように問いかけると、デリー王子は静かに小さく頷いた。
「寝てなくて平気か?」
ゆっくりと近づきながら、彼は優しく少年の体を抱き上げた。
デリー王子は、少し驚いたように肩をすくめたが、すぐに大人しくヘルムデッセンの腕の中に収まる。
——その姿を見て、ヴィーラはくすっと微笑んだ。
「ふふふ、お父さんみたいね。」
「……は?」
ヘルムデッセンが一瞬固まる。
「ダリーが金髪だからか、それとも俺と片方血が繋がっているからか……」
彼はふと、腕の中にいる少年をじっと見つめた。
「ヴィーラとの子供ができたら……こんな感じかなって思えてきたんだ。」
「っ!!!」
ヴィーラの心臓が跳ねる。
(……意味、分かって言ってるのかしら……!?)
熱が一気に頬に広がる。
彼の言葉はあまりにも自然で、悪びれもせず、それどころか少し嬉しそうですらあった。
(な、何を当然のように言い出すのよ、この人は……!)
ヘルムデッセンは、そんなヴィーラの様子に気づかず、デリー王子の頬を軽く撫でながら微笑んでいる。
「……。」
ヴィーラは口を開こうとしたが、言葉が出てこない。
無邪気な赤い瞳が、まるで彼の未来を当然のもののように思っているのを見てしまうと、何も言えなくなってしまった。
——そんな空気を打ち破るように、執事が控えめに扉をノックする音が響いた。
「奥様。」
「なに?」
「ベルホック様がお見えです。」
その言葉に、ヴィーラはふっと表情を引き締める。
「お父様、やっと到着したのね。」
「お父……様?」
ヘルムデッセンが驚いたように声を上げる。
「えぇ。今日は父が来るの。」
「き、聞いていない!」
ヘルムデッセンは露骨に身構える。
戦場でどんな敵と対峙しようとも動じない男が、義父が来ると聞いただけで明らかに警戒し始めたのが、なんとも可笑しい。
ヴィーラは楽しげに肩をすくめた。
「言ってないですもの。」
「おい……!」
「大丈夫よ。」
彼の不安げな顔を見て、ヴィーラは少しだけ意地悪な笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「お父様はちゃんとヘルに優しいわ。」
「……ほんとか?」
ヘルムデッセンはまだ警戒を解かない。
戦場ではどんな敵を前にしても動じることはなかったが、"義父"という未知の存在に対しては、やはり別の種類の緊張があるらしい。
「えぇ。」
ヴィーラは軽く微笑みながら、優雅に返した。
だが、その目にはどこか楽しげな色が宿っている。
「さあ、早く準備しましょう。」
彼女がそう言うや否や、ヘルムデッセンは微かに息をつく。
「……仕方ないな。」
とはいえ、彼も領主としての立場がある以上、避けるわけにはいかない。
二人はすぐにそれぞれの部屋へ向かい、客人を迎えるための正装へと着替え始めた。