⑮
戦が終わり、朝の空気がひんやりとした冷たさを帯びながら、次第に温もりを取り戻しつつあった。
夜明けとともに、捕虜となった者たちは自ら動き始めていた。
ヴィーラが見渡した先では、彼らが与えられた土地に仮設住宅を建て始めている。
何かを待つだけだった敗者の目が、今は手を動かし、少しずつ活気を取り戻しつつあるのが分かった。
(……生き延びることができると分かれば、人は動くものね。)
麻痺毒によって余計な負傷をせずに捕虜となった彼らは、こうして新たな生を与えられた。
それでも、戦場にいた者たちの目には、まだ警戒と困惑が残っている。
(それはそうよね。昨日まで命をかけて戦っていた相手の地で生きるのだから。)
ヴィーラは静かに腕を組みながら、労働に励む彼らの様子を眺めていた。
泥を塗り、柱を立て、協力しながら少しずつ形になっていく住居群。
戦で奪うばかりだった者たちが、こうして建てる側に回るのは皮肉でもあった。
「ヴィーラ、何を考えている?」
隣でヘルムデッセンが低い声で尋ねる。
「……いえ、彼らも必死なのだな、と思っただけですよ。」
「そりゃそうだろう。ここで役に立たなければ、生き延びられる保証もないんだからな。」
彼の言葉は淡々としていたが、どこか納得したような響きを帯びていた。
ヘルムデッセン自身、戦場で生きてきた男だ。敗者の行く末を見届けるのは、彼にとっても珍しいことではないのだろう。
ヴィーラはひとつ息を吐き、視線を前へと戻した。
「ヘル、そろそろここは任せて、領地に帰りましょう。」
ヘルムデッセンは彼女の言葉に軽く眉を上げたが、すぐに頷いた。
「……わかった。」
戦場に長くいる必要はもうない。
捕虜たちの管理も、これからは領地の家臣や役人たちに任せることになる。
ここでの役目は果たしたのだから、あとは領地に戻り、次の準備を進めるべきだった。
ヴィーラはデリー王子へと視線を向けた。
彼は相変わらず静かに立ち尽くしていた。
(……やっぱり、一言も発しないのね。)
どこか物悲しいほどに無表情で、まるでこの世の全てを諦めたかのような目をしている。
だが、それは決して無思考ではない。
彼の碧眼は、まるで答えを探るように周囲を観察していた。
この状況を、そして自分の置かれた立場を。
(喋れなくても、知性はある……そういうことかしら。)
ヴィーラは小さく息をつき、彼へと歩み寄る。
「デリー王子は、領地に着くまでディルプールに預けるわ。」
その言葉に、側にいたディルプールが頷いた。
「かしこまりました。」
彼は静かにデリー王子へと手を差し出す。
デリー王子はそれをじっと見つめた後、何も言わずに歩み寄り、そのままディルプールの後ろについた。
(……抵抗も何もしないのね。)
ヴィーラは無意識に唇を引き結ぶ。
(王宮ではどんな扱いを受けてきたのかしら。)
幼いながらに、ただ"生き延びる"ためだけに動いているような瞳。
王族としての誇りではなく、もっと本能的な、ただ生きるための意志しか感じられない。
それが、彼が王宮でどれほどの扱いを受けてきたのかを、何よりも物語っていた。
「……行きましょう。」
ヴィーラは気を引き締めるように一歩前に出る。
ヘルムデッセンが手綱を握りながら、静かにヴィーラのほうを見た。
「……。」
ヴィーラはちらりと馬を見上げた。
長い戦いを終えたばかりで、自分の体がどれほど疲弊しているのか、考える余裕すらなかった。
まるで糸が切れたように、全身の力が抜けているのがわかる。
だが、それを口に出すことはない。
彼女はいつも通り、自分の足で馬に乗るつもりだった。
しかし、一歩を踏み出そうとした瞬間——。
「……っ」
ふわりと視界が揺れた。
驚く間もなく、強い腕がヴィーラの体を軽々と抱き上げる。
「ヘル……っ!」
思わず声を上げたが、すぐに彼の温もりに包まれる。
その胸板の厚さ、体温、鼓動——すべてが、戦場で剣を振るう戦士のものなのに、不思議と安心感を覚える。
「ヴィーラは、疲れすぎだ。」
ヘルムデッセンは低く呟くと、ヴィーラを腕に抱えたまま馬へと歩を進める。
片腕で軽々と彼女の体を支えながら、馬の側へ立ち止まった。
「無理をするな。」
その言葉に、ヴィーラは言い返すことができなかった。
今までどれほど張り詰めていたのか、改めて実感する。
(確かに……休まないといけないわね。)
彼女はそっと肩の力を抜いた。
ヘルムデッセンは片手で馬の鞍を押さえ、ゆっくりとヴィーラを馬の上へと乗せる。
まるで宝物を扱うような、優しい手つきだった。
「ほら、しっかりつかまれ。」
彼の言葉に従い、ヴィーラは手綱を軽く握った。
しかし、次の瞬間——。
「っ!」
ヘルムデッセンがそのまま彼女の後ろに飛び乗った。
背中に感じる広い胸板、力強く自分を包み込む腕。
「ヘ、ヘル……!」
驚いて振り返るが、彼はどこ吹く風といった顔で言い放つ。
「どうせ帰るなら、こうした方がいいだろ。」
「……!」
言い返そうとして、言葉を飲み込む。
彼の腕がそっと彼女の腰を支えた。
大きく温かい手が、まるで守るようにそっと触れている。
強く抱きしめるわけではない。
けれど、その距離の近さが、心を落ち着かせてくれる。
「無理して起きてる必要はないぞ。」
「……別に、私は……。」
「ふん。」
ヘルムデッセンは軽く鼻で笑い、ゆっくりと馬を歩かせ始めた。
―――――――――
―――――――
昼下がりの柔らかな陽射しが、馬上のふたりを穏やかに包んでいた。
戦場を離れ、領地へと向かう道中、吹き抜ける風は心地よく、緊張に張り詰めていた空気が少しずつほどけていく。
ヴィーラは、背後から伝わるヘルムデッセンの温もりを感じながら、ふと静かに呟いた。
「ヘル。」
「ん?」
低く響く声が、彼女の耳元で返ってくる。
「帰ったら、公爵家のパーティーへ出る準備をしなければいけませんね。」
彼は少し驚いたように沈黙した。
馬の歩みがゆるやかになり、しばしの間、風の音だけが響いた。
だが次の瞬間——。
「……あぁ!楽しみだな!」
突如、力強く楽しげな声が響いた。
ヴィーラは思わず振り向き、ヘルムデッセンの顔を見上げる。
「……そんなに楽しみなんですか?」
彼女の問いかけに、ヘルムデッセンは真剣な顔で頷いた。
「あぁ、ヴィーラを俺のものだと見せつけたい。」
「……っ!」
ヴィーラの頬が、一瞬にして熱くなった。
(ど、どこからそんな発想に……?)
思わず目を逸らしながらも、彼の言葉を意識せざるを得ない。
彼は本気なのだ。
「お前は知ってるか?」
「……何を?」
「公爵家のパーティーには、名のある貴族たちが集まる。俺たちの結婚を疑問視していた連中もな。」
彼は少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「だからこそ、ヴィーラが俺の隣にいるのをはっきりと示したい。」
彼の大きな手が、そっと彼女の腰を支え直す。
「……お前は、俺の妻なんだからな。」
彼の言葉に、ヴィーラの胸がかすかに震えた。
(……本当に、この人は……。)
真っ直ぐすぎる。
まるで子供のように、素直に、誇らしげに。
だからこそ、彼の言葉には嘘がないのだと、痛いほどに伝わってくる。
「ふふふ……。」
小さく笑みをこぼすと、ヘルムデッセンは不思議そうに眉を上げた。
「何がおかしい?」
「……ただ、あなたらしいなと思って。」
彼は納得したように口の端をあげ、また視線を前へと戻す。
だが、ふと、少しだけ声を低くして呟いた。
「ヴィーラ。」
「何?」
「……もっと気さくに話してほしい。」
「気さくに?」
「戦争中みたいにさ。」
彼の言葉に、ヴィーラは少し戸惑った。
(戦争中……?)
確かに、戦場ではあまり気取った言葉遣いをしていなかった気がする。
遠慮もなく、考えたことをそのまま口に出していた。
「……そういえば、結構馴れ馴れしく話してたっけ。」
呟きながら、ふと思い出す。
戦場では互いに遠慮している暇などなかった。
命がけの場面では、言葉遣いなど気にする余裕もなかった。
(そっか……ヘルにとっては、私の“気取らない言葉”が心地よかったのね。)
ヴィーラは少し考えた後、小さく息を吐いた。
「……わかったわ。」
柔らかな微笑みを浮かべ、少しだけ砕けた口調で答える。
その瞬間——。
ヘルムデッセンの顔に、満足そうな笑みが広がった。
「それでいい。」
彼は優しくヴィーラの肩を引き寄せ、再び馬を進ませる。
二人の距離が、また少しだけ縮まった。




