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空がゆっくりと青白く染まり始める頃、遠くから馬蹄の音が響き渡った。
戦場の後方で殲滅戦を進めていた部隊が、次々と拠点へと帰還してくる。
朝靄の中を進む彼らの影が徐々に明るみに出ると、兵たちが思わずざわついた。
「……おい、あれ、全部戦利品か?」
「すげぇ……。」
荷馬車の列が次々と現れる。
その荷台には、武器や食糧といった略奪品だけでなく、無数の人間の姿があった。
敵兵——いや、もはや彼らは捕虜となった者たちだった。
しかし、彼らの様子は異様だった。
ほとんどが戦場の生々しい負傷を負っているわけではなく、麻痺毒の影響でただ無力に横たわっているだけだった。
多少の擦り傷や打撲の痕はあったが、通常の戦の捕虜と比べて驚くほど綺麗な状態の者ばかりだった。
戦場での死闘を想像していた兵士たちは、その様子に唖然とする。
「まさか、こんな状態で捕虜を持ち帰るとは……。」
「ヴィーラティーナ様の策、やはり尋常じゃない……。」
兵士たちは口々に囁きながら、次々と運ばれてくる捕虜の群れを見つめていた。
捕虜たちは完全に無抵抗だった。彼らはもはや“敗者”であり、何の抵抗もできない。
それでも、目にはまだわずかな警戒と恐怖が宿っている者もいた。
「ヴィーラ、これからどうするんだ?」
ヘルムデッセンが馬を降りると、ヴィーラの元へと歩み寄った。
彼はすでに鎧を脱ぎ、戦の熱が冷めたかのような落ち着いた表情をしていたが、その赤い瞳には相変わらず戦士の鋭さが宿っている。
「捕虜をどう扱うつもりだ?」
ヴィーラは静かに目を細め、目の前に広がる捕虜たちを眺めた。
「一人一人に魔法契約をさせて、塀の向こう側の土地に住まわせます。」
「魔法契約……?」
ヘルムデッセンが少し眉を寄せる。
「ええ。その契約で彼らを束縛し、逃亡や反乱を防ぐ。」
「なるほどな……。」
ヘルムデッセンは腕を組んで考え込む。
「それから穴を掘って、海と繋げたいと思ってます。」
「……?」
彼は不思議そうな顔をする。
「私たちの領地には、広い土地があるでしょう? そこに運河を作るの。水路を掘り、最終的には海と繋げたい。」
「……そんなこと、何年かかるかわからんぞ。」
「ええ、でも時間がかかってもいいの。捕虜たちにその労働をさせます。」
ヴィーラはまるで淡々とした調子で言った。
「彼らは戦で負けた者たち。それでも、無意味に死なせるよりは生かして使った方がいいわ。」
「……ははっ。」
ヘルムデッセンは呆れたように鼻を鳴らし、ふっと微笑んだ。
「お前らしいな。」
そして——。
彼はヴィーラの手を取り、優雅に彼女の手の甲へと唇を落とした。
「……っ!」
ヴィーラは思わず肩を震わせる。
「お心のままに……。」
ヘルムデッセンは余裕のある微笑みを浮かべながら、彼女を見つめた。
ヴィーラは赤くなった頬を手で押さえる。
(……だからどこでそんなことを覚えてくるのよ!)
―――――――――
―――――――
仮設テントが次々と立てられ、そこへ捕虜たちが整然と誘導されていく。
朝日が徐々に地平線から昇り始める頃、戦場の喧騒とは異なる静けさが拠点を包み込んでいた。
地面に座らされた捕虜たちは、一様に疲れ果て、時折不安そうに辺りを見回している。
彼らはこれから自分たちがどうなるのかを悟りながらも、まだ僅かな希望を捨てきれずにいるようだった。
ヴィーラは、仮設の執務机の前に立ち、整然と積み上げられた契約書を手に取った。
目の前に並ぶ捕虜たちを見下ろしながら、冷静な声で告げる。
「サインをすれば、生き延びることができる。しなければ——どうなるか、言わなくても分かるでしょう?」
彼女の言葉に、捕虜たちは一斉に震え上がった。
誰もがその意味を理解していた。
この戦に敗れた時点で、彼らに選択肢はほとんど残されていないのだ。
「……誓約を結ばなければ、待つのは処刑か。」
ひとりの男が低く呟いた。
「そういうこと。」
ヴィーラは淡々と答えながら、ペンを差し出した。
男は渋々それを受け取り、震える手で契約書に名前を書き込む。
インクが乾く前に、魔法の光が淡く書面を包み込み、契約が成立したことを示す輝きを放った。
彼の肩がガクリと落ちる。
「次。」
ヴィーラが手を差し出すと、次の捕虜が前へ進み出た。
こうして、一人、また一人と契約が結ばれていく。
最初はためらっていた捕虜たちも、徐々に抗うことを諦め、次々とサインをしていった。
しかし、その間、ヴィーラはずっと立ちっぱなしだった。
一晩中戦況を指揮し、捕虜の処理まで進める彼女の体には、既に疲労が滲んでいる。
だが、彼女の表情は変わらない。
彼女にとって、これは戦の一部。
勝者として、敗者の処遇を決めるのは当然の義務だった。
「ヴィーラ、寝た方がいい。」
そんな彼女を見つめていたヘルムデッセンが、腕を組んだまま口を開いた。
「全然眠ってないだろ。」
彼はわずかに眉をひそめながら、ヴィーラの肩をぽんと叩いた。
「戦の最中も、拠点の指揮も、全部お前がやったんだ。もういい加減、休め。」
ヴィーラは顔を上げ、ヘルムデッセンをじっと見つめる。
「……それはヘルも一緒でしょ?」
「まあな。」
彼は軽く笑いながら肩をすくめた。
「でも俺は、お前より頑丈だからな。」
ヴィーラはムッとした表情を浮かべたまま、ヘルムデッセンをじっと睨みつけた。
確かに彼の言う通り、彼の体は戦場に慣れ、無理が利く。だが、彼だって数日間ほとんど眠らずに戦っていたはずだ。
「……っ。」
何か言い返そうとしたが、次の瞬間——。
「おい!」
唐突に体が宙に浮いた。
「——!? ちょ、何を……!」
驚く間もなく、ヘルムデッセンはヴィーラを軽々と抱き上げた。
お姫様抱っこ。
「ちょっ……! 降ろしなさい! ヘル!」
「却下。」
あまりにも自然な動作で抱えられ、ヴィーラは慌てて彼の胸を押すが、微動だにしない。
「お前は今にも倒れそうだ。寝るぞ。」
「寝るのはあなたもでしょう!」
「だから一緒に寝るんだろ。」
「……っ!」
抗議しようとするが、彼の赤い瞳があまりにもまっすぐで、強くて、反論の余地を与えない。
(……ずるいわ。)
ヴィーラはしばらく抵抗したものの、腕の中の安定感と、包み込むような温もりに、諦めたように小さく息をついた。
彼はそのまま歩を進め、指揮用の大きなテントではなく、奥に設営された寝室用のテントへと向かう。
厚手の布で仕切られたその空間は、外の冷たい風を遮り、ほんのりとした温もりが残っていた。
布団の上に静かに降ろされると、ヴィーラは思わず肩をすくめる。
「まったく……。」
呆れたように言いながらも、彼の腕の中にいた温もりが消えたことに、ほんの少しだけ物足りなさを覚えてしまう。
だが——。
「ヘル?…何を?」
ヘルムデッセンがそのまま布団の横に腰を下ろしたのを見て、ヴィーラは訝しげに尋ねた。
彼は自然な動作で靴を脱ぎ、そのまま隣に横たわる。
「寝るって言ったろ?」
「一緒に……?」
「当たり前だ。お前を一人にして、また仕事に戻ると思うか?」
低く、穏やかな声がテントの中に響く。
ヴィーラは戸惑いながらも、彼の隣で横にならざるを得なかった。
(なんなのよ……この人。)
戦場であれほど無双していた男が、今は何の躊躇もなく自分と並んで布団に横たわっている。
ごつごつとした腕、戦士の体。だが、今の彼はただの"夫"のように穏やかだった。
「もう戦は終わってる。安心しろ。」
彼はぽつりと呟くように言った。
そして——。
大きく温かい手が、ヴィーラの金色の髪をゆっくりと撫でた。
「……。」
その瞬間、緊張がすっと解けるのを感じた。
戦の間ずっと張り詰めていた心が、その手の動きと共に静かにほどけていく。
安心——。
そう、安心してしまったのだ。
この人がここにいる。
自分を守ると誓った男が、今、自分の隣にいる。
それだけで、心が満たされるような気がした。
「……ヘル。」
眠りに落ちる直前、彼の名前を小さく呼んだ。
「ん?」
「……なんでもないわ。」
くすりと笑い、そっと目を閉じる。
彼の温もりを感じながら、ヴィーラはゆっくりと眠りに落ちていった。
——戦の終わり、温もりの中で。