⑪
冷たい朝の空気が、肌を刺すように張り詰めていた。
戦地へと向かう軍勢の足音が、地を揺らしながら響いている。騎馬隊の馬蹄が乾いた土を踏みしめ、鋭い剣の音が時折風に混じる。
ヴィーラはヘルムデッセンの馬に乗り、しっかりと彼の背にしがみついていた。
彼の広い背中の温もりを感じながら、風を切る速度に少しだけ目を閉じる。こんな形で戦場に向かうことになるとは思わなかったが、決意は揺るがない。
「怖いか?」
ヘルムデッセンが低く問いかけた。
「いいえ。」
ヴィーラはしっかりと目を開き、前方を見据えた。
「あなたがいる限り、私は恐れません。」
その言葉に、ヘルムデッセンは小さく息を吐くように笑った。
「なら、俺はお前を絶対に守る。」
その言葉は、どこまでも真剣だった。
彼の赤い瞳が戦場を見据え、戦士としての気迫を纏う。
戦地はもう目前だった。
カナート王国の軍勢は、遠くに見える丘の向こう側に布陣していた。
こちらの動きを警戒しているようだったが、どうやら油断しているのが明らかだった。
(相手はこちらを“脳筋の軍隊”と侮っているわね。)
カナート王国の軍は戦術的な戦いに長けているが、こちらを野蛮な戦士集団と見ているのなら、それは大きな間違いだった。
ヴィーラは戦況を見極めながら、すっと息を吸い込んだ。
「一旦止まって。」
その一言に、ヘルムデッセンはすぐに手を上げる。
「全軍、停止!」
彼の号令とともに、一糸乱れぬ動きで軍勢が足を止めた。馬たちが蹄を静かに地に下ろし、兵士たちは騒ぐことなく彼らの指示を待つ。
ヴィーラは馬から降りると、兵士たちを振り返った。
「これを持ってきて。」
彼女の指示で、数人の兵士が馬車から数箱の箱を取り出した。
何人かの将校が、それを不思議そうに見つめる。
「この中には……剣や矢に塗る、とても良い薬が入っています。」
箱の蓋が開けられると、中から取り出されたのは、濃い琥珀色をした液体の入った小瓶だった。
「全員、剣や矢尻に塗りなさい。ただし、絶対に肌に触れないように厳重に注意して。」
静寂が広がる。
兵士たちが戸惑いながら薬を手に取る。
しかし、その中から一人、年配の騎士が前に出た。
「卑怯な! こんなこと……正々堂々と戦うべきだ!」
怒気を含んだ声に、ヴィーラは冷静に視線を向ける。
「これは戦です。」
淡々とした言葉に、騎士の表情が険しくなる。
「それでも、敵に毒を使うなど、武人の名が泣く!」
「武人の名……ね。」
ヴィーラは微笑みながら、その騎士に一歩近づいた。
「では、あなたは武人として名誉を守るために、敵国の思うがままに敗北しても構わないのですね?」
「なっ……!」
「この戦は貴族同士の決闘ではありません。国と国の存亡をかけた戦争です。どんな手を使おうが、勝たなければ意味がないのです。」
騎士は何かを言いかけたが、言葉を詰まらせた。
すると——。
「お前たち。」
ヘルムデッセンがゆっくりと前に出た。
「俺の妻を信じろ。」
その一言で、騎士たちは息を呑む。
「ヴィーラが言うことは、すべてこの戦に勝つための策だ。お前たちは俺の命令に従い、全員、剣や矢に塗布しろ!」
威圧的な声ではなく、ただ淡々と告げる。しかし、それだけで全軍がすぐに行動を開始した。
渋々従う者もいたが、誰も彼の命令には逆らえなかった。
だが、次の瞬間——。
「あと、それから、これに着替えて。」
ヴィーラが淡々とそう言いながら、兵士たちに橙色の布を差し出した。
「……は?」
兵士たちは一斉に顔を見合わせる。まだ何かあるのか、という困惑の色が浮かぶ。
「鎧の下に、これを着るのよ。」
ヴィーラは説明を加えながら、布を広げてみせる。それは、敵軍にはない特徴的な橙色の布地だった。
「これを身につけておけば、戦場での見分けがつきやすくなるわ。混戦になったとき、味方同士で誤って斬り合うことを防ぐの。」
「な、なるほど……。」
兵士たちは納得したように頷きながら、言われた通りに橙色の服を鎧の下に身に着け始めた。
ヘルムデッセンはそんな彼らの様子を横目で見ながら、ヴィーラに小さく微笑んだ。
「策士だな、お前は。」
「当たり前でしょう? あなたの大切な兵士を無駄死にさせたくはないもの。」
彼女のその言葉に、兵士たちの間に少しずつ確信と信頼が芽生え始めていた。
そして——。
準備を終えた軍勢が、再び馬に跨り、戦場へ向かって動き始める。
戦場に入ると、敵軍もすぐにこちらの接近に気づいたようだった。
カナート王国の軍が陣形を整える。
彼らはまだこちらを甘く見ている。
(今のうちに、仕掛けるわよ。)
ヴィーラは戦場を見渡し、鋭い目で状況を分析した。
「第一部隊、右側の丘へ!敵の視界から外れつつ、徐々に前進! 第二部隊、正面へ進軍しつつ、陣形を少しずつ崩す! 第三部隊は左翼から包囲に入る!」
次々と細かい指示を飛ばす。
「騎兵部隊、敵の後方へ回り込みなさい。ただし、接触はまだしないで!」
彼女の指示は、まるで細かな網を張り巡らせるかのように的確だった。
「歩兵隊、三列目を保ちつつ弓兵を守って。矢を放つ間隔は一定にすること!」
次第に兵たちは、彼女の指示を忠実にこなしていく。
「敵の弓兵隊が前進を開始しました!」
「なら、第五部隊を前に出し、斜めに展開させて! 兵の数を多く見せるの!」
彼女は戦況を見ながら、兵の動きを的確に調整し続けた。
その姿を見ていたヘルムデッセンは、改めて彼女の能力を痛感する。
「……やっぱり、お前はすごいな。」
彼の呟きは、戦場の喧騒にかき消された。
だが、その目には確かな信頼が宿っていた——。
戦場は次第にこちらの優勢へと傾きつつあった。敵軍は混乱し、動揺の色を隠せずにいる。
しかし、ヴィーラは油断しなかった。戦が終わるまで、最後の一瞬まで、確実に勝利へと導かねばならない。
「温存していた兵に、倒れた敵軍の者たちへ足枷と手錠をつけるように指示して。」
ヴィーラの冷静な声が響く。側近が即座に動き、指示を伝えるべく駆け出した。
その時——。
「ウオォォォォォ!!!」
血走った目をした敵兵が、突如として我武者羅に突っ込んできた。
狂気に突き動かされたようなその男の剣が、まっすぐヴィーラを狙う——。
だが、その刃が届くことはなかった。
——シュンッ!!
一閃。
風を切る鋭い音と共に、ヘルムデッセンの剣が閃く。
「——っ」
敵兵は、叫ぶ間もなく、剣の軌跡に飲み込まれた。
ドサッ。
沈黙の中、男の体が崩れ落ちる。
「……あ。」
ヴィーラは倒れた兵を見つめ、ふと何かを思いついたように微笑んだ。
「丁度良いじゃない。」
ヘルムデッセンが怪訝そうに彼女を見たが、ヴィーラは気にすることなく、倒れた敵兵の鎧へと手を伸ばした。
「ヘル、これを着て後ろに回り込んで、敵の頭を倒してらっしゃい。」
彼の手に、敵兵の鎧が差し出される。
——その場に、一瞬の沈黙が訪れた。
最も凄まじい表情をしているのは、ロートだった。
彼は目を見開き、口を半開きにし、驚愕のあまり言葉を失っていた。
「な……っ」
ヘルムデッセンは、そんな周囲の反応をよそに、鎧を見つめる。
そして——。
「……わかった。」
迷いなく頷いた。
「待ってください!? そんな危険な——!!」
ロートが慌てて口を開くが、ヘルムデッセンはすでに動き出していた。
ヴィーラの前に立ち、その肩に大きな手を置く。
「……お前の策なら、信じる。」
そう言って、大人しくロートへとヴィーラを預けた。
「ヘルムデッセン様!?」
ロートの叫びも虚しく、彼は敵兵の鎧を素早く着込み、顔を兜の影に隠す。
そのまま馬へと飛び乗り、手綱を強く引いた。
「じゃあ、行ってくる。」
その一言と共に、ヘルムデッセンは戦場の混乱へと溶け込むように走り去った。
ロートは、彼が消えていくのを呆然と見送る。
そして——。
「……はっ!」
突然、我に返った。
「ヘルムデッセン様の身に何かあったらどうするのですかーーーー!!」
彼の怒声が、戦場に響き渡る。
ヴィーラは息をつく。
「今さら。」
ロートは顔を引きつらせるが、まさにその時。
——シュンッ!!
鋭い風切り音が耳元をかすめた。
敵兵が一人、猛然とヴィーラへと斬りかかってくる——!!
しかし——。
——パンッ!!
銃声が響く。
瞬間、敵兵の動きが止まり——。
「……っ」
ドサッ。
無言のまま、その体が地に倒れ込んだ。
撃ち抜かれた頭から血が流れ、砂埃が舞い上がる。
ロートは、絶句したままヴィーラを見る。
彼女の手には、煙を上げる小さな銃が握られていた。
「……それは異国の……っ!」
戦場で使われるには、あまりにも精巧で美しい造りの異国の銃。
ヴィーラは平然とした表情でそれを持ち直し、淡々と答えた。
「……夫が不在の間、これを使う機会が多くて。」
ロートはもはや言葉を失っていた。
そこへ、側近が戻ってくる。
「指示してきましたよ~……」
疲れた表情で、額の汗を拭いながら報告する。
「よくやったわ。」
「はぁ……」
疲労困憊の様子に、ヴィーラはさらりと次の指示を出す。
「じゃあ次は——鎧をはいで、それを着て、一人で行っちゃったヘルムの援軍へ行くように、三部隊に指示してきて。」
「は!?」
側近は耳を疑ったように固まる。
「ちょ、ちょっと待ってください!? 今の話、正気で——」
「急いでね?」
ヴィーラはにっこりと微笑みながら、銃をくるりと回して腰に収めた。
「ひ、ひぃぃ!!!」
側近は目を見開きながら、慌てて駆け出していった。
その後ろ姿を見送ったロートは、放心したように呟く。
「お、鬼だぁ……」
戦場にて、全軍を指揮する貴族令嬢。
容赦のない策略家。
そして、冷静に銃を放つ姿。
全てを見たロートは、ヘルムデッセンの妻という存在に、ようやく戦慄したのだった——。