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冷たい朝の空気が、肌を刺すように張り詰めていた。


戦地へと向かう軍勢の足音が、地を揺らしながら響いている。騎馬隊の馬蹄が乾いた土を踏みしめ、鋭い剣の音が時折風に混じる。


ヴィーラはヘルムデッセンの馬に乗り、しっかりと彼の背にしがみついていた。


彼の広い背中の温もりを感じながら、風を切る速度に少しだけ目を閉じる。こんな形で戦場に向かうことになるとは思わなかったが、決意は揺るがない。


「怖いか?」

ヘルムデッセンが低く問いかけた。


「いいえ。」

ヴィーラはしっかりと目を開き、前方を見据えた。


「あなたがいる限り、私は恐れません。」


その言葉に、ヘルムデッセンは小さく息を吐くように笑った。


「なら、俺はお前を絶対に守る。」


その言葉は、どこまでも真剣だった。

彼の赤い瞳が戦場を見据え、戦士としての気迫を纏う。


戦地はもう目前だった。


カナート王国の軍勢は、遠くに見える丘の向こう側に布陣していた。


こちらの動きを警戒しているようだったが、どうやら油断しているのが明らかだった。


(相手はこちらを“脳筋の軍隊”と侮っているわね。)


カナート王国の軍は戦術的な戦いに長けているが、こちらを野蛮な戦士集団と見ているのなら、それは大きな間違いだった。


ヴィーラは戦況を見極めながら、すっと息を吸い込んだ。


「一旦止まって。」


その一言に、ヘルムデッセンはすぐに手を上げる。


「全軍、停止!」


彼の号令とともに、一糸乱れぬ動きで軍勢が足を止めた。馬たちが蹄を静かに地に下ろし、兵士たちは騒ぐことなく彼らの指示を待つ。


ヴィーラは馬から降りると、兵士たちを振り返った。


「これを持ってきて。」


彼女の指示で、数人の兵士が馬車から数箱の箱を取り出した。


何人かの将校が、それを不思議そうに見つめる。


「この中には……剣や矢に塗る、とても良い薬が入っています。」


箱の蓋が開けられると、中から取り出されたのは、濃い琥珀色をした液体の入った小瓶だった。


「全員、剣や矢尻に塗りなさい。ただし、絶対に肌に触れないように厳重に注意して。」


静寂が広がる。


兵士たちが戸惑いながら薬を手に取る。


しかし、その中から一人、年配の騎士が前に出た。


「卑怯な! こんなこと……正々堂々と戦うべきだ!」


怒気を含んだ声に、ヴィーラは冷静に視線を向ける。


「これは戦です。」


淡々とした言葉に、騎士の表情が険しくなる。


「それでも、敵に毒を使うなど、武人の名が泣く!」


「武人の名……ね。」


ヴィーラは微笑みながら、その騎士に一歩近づいた。


「では、あなたは武人として名誉を守るために、敵国の思うがままに敗北しても構わないのですね?」


「なっ……!」


「この戦は貴族同士の決闘ではありません。国と国の存亡をかけた戦争です。どんな手を使おうが、勝たなければ意味がないのです。」


騎士は何かを言いかけたが、言葉を詰まらせた。


すると——。


「お前たち。」


ヘルムデッセンがゆっくりと前に出た。


「俺の妻を信じろ。」


その一言で、騎士たちは息を呑む。


「ヴィーラが言うことは、すべてこの戦に勝つための策だ。お前たちは俺の命令に従い、全員、剣や矢に塗布しろ!」


威圧的な声ではなく、ただ淡々と告げる。しかし、それだけで全軍がすぐに行動を開始した。


渋々従う者もいたが、誰も彼の命令には逆らえなかった。


だが、次の瞬間——。


「あと、それから、これに着替えて。」


ヴィーラが淡々とそう言いながら、兵士たちに橙色の布を差し出した。


「……は?」


兵士たちは一斉に顔を見合わせる。まだ何かあるのか、という困惑の色が浮かぶ。


「鎧の下に、これを着るのよ。」


ヴィーラは説明を加えながら、布を広げてみせる。それは、敵軍にはない特徴的な橙色の布地だった。


「これを身につけておけば、戦場での見分けがつきやすくなるわ。混戦になったとき、味方同士で誤って斬り合うことを防ぐの。」


「な、なるほど……。」


兵士たちは納得したように頷きながら、言われた通りに橙色の服を鎧の下に身に着け始めた。


ヘルムデッセンはそんな彼らの様子を横目で見ながら、ヴィーラに小さく微笑んだ。


「策士だな、お前は。」


「当たり前でしょう? あなたの大切な兵士を無駄死にさせたくはないもの。」


彼女のその言葉に、兵士たちの間に少しずつ確信と信頼が芽生え始めていた。


そして——。


準備を終えた軍勢が、再び馬に跨り、戦場へ向かって動き始める。


戦場に入ると、敵軍もすぐにこちらの接近に気づいたようだった。


カナート王国の軍が陣形を整える。


彼らはまだこちらを甘く見ている。


(今のうちに、仕掛けるわよ。)


ヴィーラは戦場を見渡し、鋭い目で状況を分析した。


「第一部隊、右側の丘へ!敵の視界から外れつつ、徐々に前進! 第二部隊、正面へ進軍しつつ、陣形を少しずつ崩す! 第三部隊は左翼から包囲に入る!」


次々と細かい指示を飛ばす。


「騎兵部隊、敵の後方へ回り込みなさい。ただし、接触はまだしないで!」


彼女の指示は、まるで細かな網を張り巡らせるかのように的確だった。


「歩兵隊、三列目を保ちつつ弓兵を守って。矢を放つ間隔は一定にすること!」


次第に兵たちは、彼女の指示を忠実にこなしていく。


「敵の弓兵隊が前進を開始しました!」


「なら、第五部隊を前に出し、斜めに展開させて! 兵の数を多く見せるの!」


彼女は戦況を見ながら、兵の動きを的確に調整し続けた。


その姿を見ていたヘルムデッセンは、改めて彼女の能力を痛感する。


「……やっぱり、お前はすごいな。」


彼の呟きは、戦場の喧騒にかき消された。

だが、その目には確かな信頼が宿っていた——。


戦場は次第にこちらの優勢へと傾きつつあった。敵軍は混乱し、動揺の色を隠せずにいる。

しかし、ヴィーラは油断しなかった。戦が終わるまで、最後の一瞬まで、確実に勝利へと導かねばならない。


「温存していた兵に、倒れた敵軍の者たちへ足枷と手錠をつけるように指示して。」


ヴィーラの冷静な声が響く。側近が即座に動き、指示を伝えるべく駆け出した。


その時——。


「ウオォォォォォ!!!」


血走った目をした敵兵が、突如として我武者羅に突っ込んできた。

狂気に突き動かされたようなその男の剣が、まっすぐヴィーラを狙う——。


だが、その刃が届くことはなかった。


——シュンッ!!


一閃。


風を切る鋭い音と共に、ヘルムデッセンの剣が閃く。


「——っ」


敵兵は、叫ぶ間もなく、剣の軌跡に飲み込まれた。


ドサッ。


沈黙の中、男の体が崩れ落ちる。


「……あ。」


ヴィーラは倒れた兵を見つめ、ふと何かを思いついたように微笑んだ。


「丁度良いじゃない。」


ヘルムデッセンが怪訝そうに彼女を見たが、ヴィーラは気にすることなく、倒れた敵兵の鎧へと手を伸ばした。


「ヘル、これを着て後ろに回り込んで、敵の頭を倒してらっしゃい。」


彼の手に、敵兵の鎧が差し出される。


——その場に、一瞬の沈黙が訪れた。


最も凄まじい表情をしているのは、ロートだった。


彼は目を見開き、口を半開きにし、驚愕のあまり言葉を失っていた。


「な……っ」


ヘルムデッセンは、そんな周囲の反応をよそに、鎧を見つめる。


そして——。


「……わかった。」


迷いなく頷いた。


「待ってください!? そんな危険な——!!」


ロートが慌てて口を開くが、ヘルムデッセンはすでに動き出していた。


ヴィーラの前に立ち、その肩に大きな手を置く。


「……お前の策なら、信じる。」


そう言って、大人しくロートへとヴィーラを預けた。


「ヘルムデッセン様!?」


ロートの叫びも虚しく、彼は敵兵の鎧を素早く着込み、顔を兜の影に隠す。


そのまま馬へと飛び乗り、手綱を強く引いた。


「じゃあ、行ってくる。」


その一言と共に、ヘルムデッセンは戦場の混乱へと溶け込むように走り去った。


ロートは、彼が消えていくのを呆然と見送る。


そして——。


「……はっ!」


突然、我に返った。


「ヘルムデッセン様の身に何かあったらどうするのですかーーーー!!」


彼の怒声が、戦場に響き渡る。


ヴィーラは息をつく。


「今さら。」


ロートは顔を引きつらせるが、まさにその時。


——シュンッ!!


鋭い風切り音が耳元をかすめた。


敵兵が一人、猛然とヴィーラへと斬りかかってくる——!!


しかし——。


——パンッ!!


銃声が響く。


瞬間、敵兵の動きが止まり——。


「……っ」


ドサッ。


無言のまま、その体が地に倒れ込んだ。


撃ち抜かれた頭から血が流れ、砂埃が舞い上がる。


ロートは、絶句したままヴィーラを見る。


彼女の手には、煙を上げる小さな銃が握られていた。


「……それは異国の……っ!」


戦場で使われるには、あまりにも精巧で美しい造りの異国の銃。


ヴィーラは平然とした表情でそれを持ち直し、淡々と答えた。


「……夫が不在の間、これを使う機会が多くて。」


ロートはもはや言葉を失っていた。


そこへ、側近が戻ってくる。


「指示してきましたよ~……」


疲れた表情で、額の汗を拭いながら報告する。


「よくやったわ。」


「はぁ……」


疲労困憊の様子に、ヴィーラはさらりと次の指示を出す。


「じゃあ次は——鎧をはいで、それを着て、一人で行っちゃったヘルムの援軍へ行くように、三部隊に指示してきて。」


「は!?」


側近は耳を疑ったように固まる。


「ちょ、ちょっと待ってください!? 今の話、正気で——」


「急いでね?」


ヴィーラはにっこりと微笑みながら、銃をくるりと回して腰に収めた。


「ひ、ひぃぃ!!!」


側近は目を見開きながら、慌てて駆け出していった。


その後ろ姿を見送ったロートは、放心したように呟く。


「お、鬼だぁ……」


戦場にて、全軍を指揮する貴族令嬢。


容赦のない策略家。


そして、冷静に銃を放つ姿。


全てを見たロートは、ヘルムデッセンの妻という存在に、ようやく戦慄したのだった——。

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