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ヴィーラは窓辺に立ち尽くしたまま、視線を外に向けていた。
城の門へと疾走する騎馬隊。その背に掲げられた赤い旗が、夜の闇の中で揺れ動く。
それが何を意味するのか、一瞬で理解した。
(戦だ……!)
体が瞬時に反応し、ヴィーラはすぐに寝台を振り返る。
無防備に眠るヘルムデッセンの姿が、目に映った。
今すぐにでも飛び起き、戦場へ向かう彼の姿が想像できる。
「ヘルムデッセン!」
急いで駆け寄り、彼の肩を強く揺さぶる。
「ん……?」
低く掠れた声が、静寂の部屋に響く。
ヘルムデッセンが目を開け、赤い瞳がゆっくりと焦点を結んだ。
「ヘル!赤い旗を掲げて、騎馬隊が城へ向かっている!」
その言葉を聞いた瞬間、ヘルムデッセンの表情が一変する。
一気に覚醒し、彼は勢いよく上半身を起こした。
「戦か……!」
まるで獣が目を覚ましたかのように、彼の全身が瞬時に戦闘態勢に入る。
強い意志が宿った瞳が、ヴィーラを一瞬だけ見つめる。
「すぐに戦場へ——!」
彼が立ち上がろうとした瞬間、ヴィーラはその腕を掴み、ぐっと引き止めた。
「ちょっと待ちなさい!」
「なんだ、ヴィーラ!戦場が俺を呼んでいるんだぞ!」
「だからって、むやみに飛び出してどうするの!」
ヘルムデッセンの腕を引き、今度はその服の裾をぎゅっと掴む。
彼は動きを止め、驚いたようにヴィーラを見下ろした。
「まずは作戦会議よ!ガムシャラに戦争をされたら、困るわ。」
「そんな悠長なことを言っている場合か!戦場は待っちゃくれない!」
「だからこそ慎重に動くのよ!公爵家のパーティーも控えているの。無計画に戦をすれば、政治的にも不利になるわ!」
その言葉に、ヘルムデッセンの眉がわずかに動く。
「……くそっ、わかった。まずは緊急会議だ。」
彼は不満そうに息を吐いたが、ヴィーラの言葉の正しさを理解したようだった。
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数十分後、城の大広間では緊急会議が開かれていた。
重々しい空気の中、使者が戦況を報告する。
「報告いたします!カナート王国が大軍を率い、国境沿いに集結しています!おそらく、数日以内に侵攻を開始するつもりです!」
一同がざわめいた。
「敵国の目的は明白です。大規模な侵略を狙っています。」
ヴィーラは静かに椅子から立ち上がり、地図に目を落とした。
「……防衛ではなく、先に侵略するのが最善策ね。」
一瞬、静寂が訪れた。
ヘルムデッセンはその言葉に目を細める。
「待ち伏せるよりも、こちらから奇襲を仕掛けた方が有利か。」
「ええ。その方がこちらに主導権があるわ。守るだけでは限界があるし、攻められる前に敵の動きを封じるのが得策よ。」
ヘルムデッセンは腕を組み、深く頷いた。
「よし、やるなら徹底的に叩き潰す!」
「それなら——」
ヴィーラは意を決して、ヘルムデッセンをまっすぐに見た。
「私を戦場に連れていって。」
その言葉に、ヘルムデッセンの表情が一変する。
「——だめだ!!」
即答だった。
「危険すぎる……君にもしものことがあったら……」
彼の拳が強く握り締められる。
だが、ヴィーラは一歩も引かない。
「私が行くことで、戦況は変わるわ。」
「それでも……!」
ヘルムデッセンの目が揺れる。
ヴィーラは静かに歩み寄ると、彼の両頬を両手でバチンッと挟んだ。
「んっ!?」
彼は驚き、ヴィーラを見つめる。
「何があっても私を守り抜きなさい。それがあなたの一番の仕事よ。」
ヘルムデッセンの喉が、ごくりと鳴る。
「だから、連れていきなさい。」
「そんな……。」
「おいていっても私一人で向かうわよ。」
きっぱりと言い切ると、ヘルムデッセンは絶句した。
彼の中で、ヴィーラを守りたい気持ちと、彼女の意志の強さがせめぎ合っているのが見て取れた。
(この人は……本当に)
そして——。
ヘルムデッセンは、諦めたように笑い、ゆっくりと頷いた。
「……お心のままに。」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィーラはほっと息をついた。
緊張の糸が少しだけ緩み、肩の力が抜ける。
(よし、これで私も戦場へ行ける……)
だが、その安堵の時間は長くは続かなかった。
「陛下のお側にいるお方が、まさか本当に戦場に立たれるとは……!」
低く響く声が、扉の向こうから聞こえてきた。
ヴィーラが顔を上げると、重厚な扉がゆっくりと開き、堂々とした男たちが次々と部屋に入ってきた。
鋼の鎧を身に纏い、戦場の風を浴び続けてきた者たち——この国を守る主要な将軍や家臣たちだった。
先頭に立つのは、戦場でヘルムデッセンと肩を並べる老練な将軍、ロート・バルジス。
白髪交じりの短髪に鋭い目つきをした彼は、ヴィーラの前まで進み出ると、拳を胸に当てて深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ヴィーラティーナ様。」
彼の後ろに並ぶ将軍たちも、一斉に同じ動作を繰り返す。
圧倒的な統率力。彼らが戦場で数々の勝利を収めてきた理由が、ただその動き一つで伝わってくる。
「……はじめまして、皆さま。」
ヴィーラは背筋を正し、しっかりとした声で応じた。
「ヴィーラ、お前のことは俺が紹介しよう。」
ヘルムデッセンが堂々とした態度で口を開く。
「この者は、俺の妻であり、この領地を支える賢者だ。」
その言葉に、将軍たちの視線が少し動く。
(やはり、私のことをまだ“戦場に不慣れな貴族の娘”と見ているのね)
そんな目が向けられているのを感じつつも、ヴィーラは微笑みを崩さなかった。
「皆さま、私は戦場で剣を振るうことはできません。」
静かに言いながら、彼らの視線を受け止める。
「ですが、戦略を練り、勝利へと導くことはできます。」
すると、ロートがわずかに目を細めた。
「戦の勝敗は、剣を振るうだけでは決まらない。戦術こそが鍵を握ることを、我々はよく知っております。」
「頼もしいお言葉です。」
ヴィーラが微笑むと、将軍たちの間にわずかながら感嘆の空気が流れた。
(少しは、信用を得られたかしら)
そんなことを考えていると、ヘルムデッセンが椅子を引き、ヴィーラに座るよう促した。
「よし、それじゃあ戦略会議を始めるぞ。」
ヴィーラはゆっくりと腰を下ろし、机の上に広げられた地図を見下ろした。
すでに、各地から集められた最新の情報が記された文書が積まれている。
「まず、現状の確認から始めましょう。」
ヴィーラが話し始めると、将軍たちの表情が一層引き締まった。
「カナート王国の軍勢は、現在国境沿いに布陣しているとのことですが、その数は?」
「報告によると、およそ三万。」
「三万……。」
ヴィーラは眉をひそめた。
「対して、こちらの動員可能な兵数は?」
「現在、即時動員できるのは一万五千。しかし、予備兵力を含めれば二万にまで増やせます。」
それでも、数では圧倒的に劣る。
「ならば、数で対抗するのではなく、戦術で勝つしかないわね。」
ヴィーラは地図上に手を伸ばし、カナート王国の軍勢が展開している地点を指でなぞった。
「敵は、国境沿いの三カ所に軍を展開している。この三つの軍が合流する前に、個別撃破するのが理想的ね。」
「つまり、奇襲を仕掛けて各個撃破する作戦か?」
ヘルムデッセンが確認するように問いかける。
「ええ。それに加え、陽動も行いましょう。少数の兵で正面から敵を誘い込み、主力を奇襲部隊として動かします。」
「敵の合流を防ぎつつ、一つずつ叩く……。」
ロートが低く唸るように言った。
「この作戦が成功すれば、数で劣る我々でも勝てる。」
「ですが、敵も当然それを予測している可能性があります。」
ヴィーラの言葉に、将軍たちは再び静かに頷いた。
「ならば、敵の意表を突くしかないわ。」
そう言いながら、ヴィーラはヘルムデッセンに視線を向けた。
「ヘル、あなたの騎兵部隊を最初の攻撃に投入したいの。」
「騎兵を?」
「ええ、敵の布陣が完成する前に、奇襲を仕掛ければ大混乱に陥るはず。その隙に、歩兵と弓兵で包囲を固めるの。」
ヘルムデッセンは考え込むように顎を指で撫でた。
「なるほど……一気に決着をつけるつもりか。」
「そう。長期戦になればなるほど不利なのだから。」
「わかった、その作戦で行こう。」
ヴィーラとヘルムデッセンの方針が固まり、会議室の空気が一層引き締まる。
「皆、異存は?」
ヘルムデッセンが問いかけると、将軍たちは一斉に拳を胸に当てた。
「ヘルムデッセン様の指示に従います!」
一糸乱れぬ応答。
その姿に、ヴィーラは改めてヘルムデッセンの強大な影響力を実感した。
(この人だからこそ、これほどの精鋭がついてくるのね)
そして、今。
その最前線に自分も立つことになる。