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華やかな音楽が流れる王城の大広間。煌めくシャンデリアの下、美しく着飾った貴族たちが談笑しながら、優雅にグラスを傾けている。
そんな中、金色の髪を結い上げた少女――子爵令嬢ヴィーラティーナは、同じ貴族令嬢たちに囲まれながら、真剣な表情で話をしていた。
「女性が社会に出ることは、決して悪いことではありませんわ。むしろ、私たちの知識や手腕を活かせば、もっと国は豊かになるはずです」
その言葉に、周囲の貴族たちは顔を見合わせる。共感を覚えた者もいれば、眉をひそめる者もいた。中には小さく笑い、肩をすくめる者までいる。
「けれどヴィーラ様、それは少々理想論ではなくて?」
「そうよ。女性は家庭を守るのが役目でしょう?」
優雅に微笑みながらそう指摘する令嬢たち。しかし、彼女の言葉に耳を傾ける者も少なくなかった。
その時――。
扉に手をかけようとした男が、ふと立ち止まり、わずかに口角を上げた。
バンッ!
重々しい扉が勢いよく開かれ、大広間に鋭い緊張が走る。楽団の演奏が止まり、人々の視線が一斉に入り口へと向けられた。
そこに立っていたのは、一人の男。
漆黒の髪に赤い瞳を持つ、威圧的な雰囲気を纏った青年だった。
彼の身体は血に染まり、黒い鎧は戦場の泥と返り血で汚れている。鋭い眼光は獲物を狙う猛獣のようで、堂々とした足取りで玉座へと向かう。
辺境伯ヘルムデッセン――。
戦場で数々の武勲を立て、若くして恐れられる存在となった男。
彼の姿を見た貴族女性たちは、小さな悲鳴を上げ、恐れおののきながら身を引いた。
だが、ヘルムデッセンは気に留めることもなく、つかつかと王のもとへ進む。
「陛下の命により、敵国を一つ制圧いたしました。反乱軍の残党も一掃し、国境は安定しております」
その冷静な報告に、王は小さく肩を震わせた。恐れを隠すように微笑みながら、わざとらしく朗々と声を響かせる。
「見事な働きである、ヘルムデッセン。そなたの忠誠と勇敢なる戦いぶりには、常に感心しておる」
そして、王は玉座からゆったりと身を乗り出し、さらに言葉を続けた。
「さて、そなたには相応の褒美を取らせねばなるまい。この場にいる淑女たちの中より、望む者を伴侶として選ぶがよい。既に夫を持つ者は除くが、それ以外の者については、そなたの意思を尊重しよう」
一瞬の静寂。
貴族たちがざわめく中、ヘルムデッセンはゆっくりと顔を上げた。その赤い瞳が、大広間を静かに見渡す。貴族令嬢たちは息をのんで後ずさる者、視線を逸らす者、頬を赤らめる者と様々だった。しかし、どの表情にも一様に恐れが滲んでいる。
彼の視線は、ある一点でぴたりと止まる。
ヴィーラティーナ。
彼女の金の髪はシャンデリアの光を受けて輝き、毅然とした表情の奥にはわずかな警戒が見え隠れしていた。
ヘルムデッセンは迷うことなく立ち上がり、王へ向かって堂々と告げる。
「ヴィーラティーナ・ベルホック嬢を望みます」
その瞬間、大広間の空気が凍りついた。
貴族たちは息をひそめたまま、次々と囁き合う。
「あの変わり者が選ばれてよかったのでは?」
「まさか、彼女が選ばれるなんて……」
そんな声が耳に届くと、ヘルムデッセンの目が鋭く光る。
彼は一歩前に進み、低く静かな声で言い放った。
「以後、何者も我が妻への悪口は許さない」
その言葉に込められた威圧感は、大広間の空気をさらに引き締めた。
王はすぐに婚姻届けの魔法契約書を持ってこさせ、その場でサインをするよう命じる。
「結婚式は好きな時に挙げるとよい。費用はすべて国が負担しよう」
ヘルムデッセンはゆっくりと深く一礼する。その姿は、戦場で敵を討ち取った後のように迷いがなかった。
一方、ヴィーラは顔を強張らせたまま、指先をぎゅっと握りしめる。
「そんな……私……」
声は震え、喉の奥でつかえた。今まで積み上げてきたものが、一瞬で変わろうとしている。彼女は混乱し、どうすればいいのかわからなかった。
その時、ヘルムデッセンが静かに近づき、彼女の耳元でそっと囁く。
「働けるぞ」
その低く響く言葉が、まるで凍りついた彼女の思考を溶かすようだった。
ヴィーラは驚きに目を見開く。彼の言葉の意味をゆっくりとかみしめると、心の中に微かな希望の光が灯った。彼女の黄金の瞳が揺れ、迷いが消えていく。
次第に、表情が引き締まる。これは単なる政略結婚ではなく、自分の望む未来への第一歩なのかもしれない。
彼女は震える手を抑えながら、深く息をつき、まっすぐに契約書を見つめる。
そして、静かにペンを取り、婚姻契約書にサインをした。
――――――――
――――――
そんな始まりから二年後。
デュークデイモン辺境伯領は活気に満ちていた。広場には市場が広がり、商人たちが威勢よく声を張り上げ、農民たちは豊作を喜び合っていた。かつては荒れ果てた土地で、作物も育たず、住民も少なかった。しかし――
「よくここまで発展したものね……」
ヴィーラティーナは城のバルコニーから領地を眺めながら、しみじみとつぶやいた。
二年前、この土地を見たときは絶望しかなかった。だが、積み上げてきた知識や学んできたことを総動員し、改革を進めた結果、今では豊かな土地へと変貌を遂げていた。
屋根の修繕を終えたばかりの家々の間を子供たちが駆け回り、楽しげな笑い声が響く。市場には新鮮な果物や穀物が並び、領民たちの顔もどこか明るい。自分の努力が確実に形になっていることに、ヴィーラは静かに満足感を覚えた。
しかし――
「……結婚もしてみたかったなぁ」
ぽつりと呟いた言葉に、自分で驚く。
そう、結婚はしている。だが、夫の姿を最後に見たのは二年前のあの日。顔もぼんやりとしか思い出せない。
「まぁ、働けるからいいんだけど」
そう言いながら、軽く肩をすくめる。社交界での退屈な会話に付き合うよりも、こうして働いている方がずっと充実している。
……そのはずだった。
バンッ!!
突然、執務室の扉が乱暴に開かれる。
書類をまとめていた手が止まり、ヴィーラは驚いて顔を上げた。
そこにいたのは、漆黒の髪と燃えるような赤い瞳を持つ男。豪華な軍服をまとっているが、その姿には見覚えがない。
誰?
「ヴィーラ!」
見知らぬ男が、大股で室内へと踏み込んできた。
ヴィーラは反射的に後ずさる。彼の鋭い視線がまっすぐこちらを向いていて、まるで長い間待ち望んでいたかのように輝いている。
そして、次の瞬間――。
バッと片膝をつき、目の前で跪いた。
パカッ。
彼が差し出した小箱の中には、煌めく大粒のダイヤの指輪。
「結婚式をしよう!」
まるで子供のように真っ直ぐな瞳で、男は満面の笑みを浮かべている。
――沈黙。
ヴィーラは呆然と、目の前の光景を見つめた。
誰……?
心臓がどくんと跳ねる。頭が追いつかない。突然押し入ってきたこの男が、自分の名を呼び、結婚式をしようと言っている。
知らない人が。
ヴィーラはじっと彼を見つめる。何かの冗談?騙されている?
視線がダイヤの指輪に移る。その美しさすら、今の状況では現実味がなかった。
彼女の頭の中にある夫の記憶は、もはや薄れ、ぼやけている。二年前に名前だけの結婚をしたが、その後の二年間、まるで存在しなかったような関係だった。
目の前の男が、そんな過去の誰かと同一人物だなんて、到底思えない。
「……誰……?」
無意識のうちに、ぽつりと呟いていた。