第三話③ 誰が何のために(後編)
モデレートを片付けたイチヤは、レトに近付いた。膝をつき、倒れているトーダを見ている。
トーダがかすかに、何かを呟いている。静かになって、風に乗ったトーダの声が聞こえてくる。でも、何を言っているのかまでは分からない。
イチヤが立ち上がった。やや早足で、プリメラの方に向かってきた。
何十人もの兵を、難なく殺したイチヤ。トーダを子供扱いにしたモデレートを、一瞬で殺したイチヤ。そんな彼が、近付いてくる。
――怖い!
足がすくんで立ち上がれないプリメラは、血まみれの地面をズルズルと後退った。けれど、イチヤから逃げられるはずがない。
イチヤはプリメラの傍まで来ると、胸ぐらを掴んできた。グイッと引き寄せられた。
――や……助けて……。
震える唇は、言葉を発してくれない。
怯えるプリメラに、イチヤが聞いてきた。
「プリメラってのは、お前か?」
プリメラの唇がパクパクと動いた。イチヤの質問に答えようにも、声が出ない。
「答えろ」
イチヤが、さらにプリメラを引き寄せてきた。
彼の眼光が怖くて、プリメラは必死に、首を縦に振った。ブンブンと、何度も。
イチヤは無言で、プリメラを引っ張った。胸ぐらを掴んだまま、ズルズルと地面を引き摺られた。
――嫌だ! 離して! 怖い! 怖い! 怖い! 怖い!
プリメラは、恐怖で声さえ出せなかった。イチヤの圧倒的な強さを見て、その恐怖は、さらに一段階上まで昇り詰めた。気が狂う一歩手前の恐怖。気が狂っても不思議ではないほどの恐怖。
プリメラの中で、何かがプツンッと切れた。発狂間近の恐怖が、声を出させた。狂ったような大声が、喉から発せられた。
「嫌です! 許して! 許してください! 助けて! 助けてください!」
命乞いをしながら、プリメラは大声で泣いた。「嫌だ!」「助けて!」と喚いた。自尊心も羞恥心もなかった。ただ助かりたかった。引き摺られながら、バタバタと手足を動かした。
「何でもします! お願いだから助けて! お願いだから許して!」
イチヤはプリメラの命乞いを無視し、トーダの近くまで引き摺っていった。そこまで来て、プリメラの胸ぐらから手を離した。
プリメラの目の前では、トーダが仰向けに倒れている。血まみれになり、目が虚ろだ。もう、意識などほとんどないだろう。それでも、何かを呟き続けている。
イチヤが、プリメラの髪の毛を鷲掴みにしてきた。そのまま、強引にトーダの方を向かせた。
「見ろ」
プリメラの目に、死にかけているトーダがはっきりと映った。左肩から右脇腹まで裂かれた傷は、かなり深い。胸骨や肋骨までもが砕かれているのだと、ひと目で分かった。
プリメラの髪を掴むイチヤの手に、少しだけ力が込められた。髪の毛が抜けそうなほど痛い。
「お前のために、命をかけて戦った男だ。お前のために死ぬ男だ」
トーダの唇は、未だに動いている。ヒューヒューという呼吸音に混じって、彼の言葉が聞こえた。
「逃げ……ろ……プリ………メラ……逃げ……ろ……」
「……!」
プリメラは目を見開いた。
トーダは、昔からプリメラに惚れていた。自分の気持ちを隠そうともしていなかった。自分がプリメラを守るのだと、日々鍛錬を続けていた。
『いつか召喚者様と結ばれるの』
トーダの気持ちを知りながら、プリメラは、彼にとって残酷な夢を語り続けた。彼の気持ちが嬉しくないわけではない。でも、その気持ちを無碍にすることを、何とも思わなかった。
「プリメ……ラ……逃……げ……」
もう死にかけているのに。痛くて苦しくてたまらないはずなのに。それでもトーダは、プリメラの身を案じている。
イチヤは、プリメラの髪の毛から手を離した。
「こいつを見て――」
イチヤの声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「自分のことよりも、お前のことを考えているこいつの前で――」
イチヤの低い声で、トーダのかすれた声が聞こえない。
「――それでもお前は、『助けて』しか言えねぇのか!?」
プリメラの目から、さらに大粒の涙が零れてきた。だが、その涙の意味は、先ほどまでとはまるで違っていた。
「こいつに何か言うことはねぇのか!?」
イチヤの怒鳴り声が、突風のようにプリメラの胸を突き抜けた。
「……ぁ……」
嘘みたいに、プリメラの心から恐怖が消え去った。
恐怖と入れ替わるように生まれたのは、気が狂いそうなほどの罪悪感だった。自殺したくなるほどの、自分に対する嫌悪感だった。
プリメラはトーダの手を取った。両手で、彼の手を包み込んだ。
「ごめんねぇ……」
トーダはまだ、プリメラに対して「逃げろ」と言い続けている。彼は心から、プリメラの幸せを願っていたのだ。たとえ自分が、プリメラと結ばれなくても。
「ごめんね……トーダぁ……」
トーダに比べて、自分はなんて薄汚いんだろう。なんて浅ましいのだろう。自分は、トーダに好かれる資格なんてなかった。守られる資格なんてなかった。自分なんて見捨てて、一人で逃げればよかったんだ。彼なら――彼一人なら、逃げ延びることはできたはずだ。
でも、トーダは、プリメラを助ける道を選んだ。
プリメラは、トーダのことなんか考えもせず、ただ助かることしか考えられなかったのに。
「ごめんね……ごめんねぇ……」
どんなに謝罪の言葉を重ねても、どんなに償いをしたくても、もう遅い。トーダの命は、もうすぐ尽きる。
「なあ」
イチヤが声をかけてきた。先ほどよりも優しい声だった。
「こいつは、命懸けでお前を守ろうとしたんだろ?」
そうだ。
――トーダは、私なんかのために。
自分なんかのために、命を懸けてくれた。
「それくらい、お前が大事だったんだろ?」
知っていた。幼い頃から、トーダが努力する姿を見てきた。彼の努力が誰のためだったのかを知っていた。
「じゃあ、違うんじゃないか?」
「?」
涙でグチャグチャの顔を、プリメラはイチヤに向けた。
イチヤの表情は、先ほどまでとはまるで違っていた。どこか苦しそうな顔。でも、少しだけ怒っているような顔。
「お前に謝って欲しくて戦ったわけじゃないだろ。たぶんな」
そうだ。プリメラは再び、トーダに視線を戻した。彼の口は未だに動いているが、もう、声は出せなくなっていた。弱くなってゆく呼吸音が、彼の命の終わりを告げていた。
プリメラのために努力して、プリメラのために命を懸けて、プリメラのために死んでゆくトーダ。
「ありがとう、トーダ」
本心は「ごめんなさい」だった。何十回何百回詫びても足りないほど、プリメラの心に突き刺さる罪悪感。でもきっと、トーダは、プリメラの謝罪など求めていない。イチヤの言う通りだ。
トーダは、プリメラが好きだった。
好きな人のために戦って。好きな人を守って。
そんなトーダが、好きな人からどんなことを言われたいか。
分かっている。だから、罪悪感を押し殺した。
「助けてくれてありがとう」
一人で逃げることだって、できたはずなのに。
「守ってくれてありがとう」
ほんの少しだけ、トーダの唇が動いた。気のせいかも知れないが――微笑んだように見えた。
そのまま、トーダの呼吸音は止まった。ビクンッと一瞬だけ痙攣し、二度と動くことはなかった。
多くの死体が周囲を囲み、辺り一面血まみれとなった、地獄のような光景の中で。
下半身を、血と小便で汚しながら。
命懸けで守ってくれた少年の手を握って。
プリメラは、大声で泣いた。




