プロローグ~四十五歳童貞、人生に夢も希望もない~
人生に夢も希望もなかった。かといって、自殺するほど死を望んでいるわけでもない。
だから、毎日惰性で働いていた。仕事が終わったら帰宅して、適当に食事。唯一の趣味と言える読書をして、眠くなった布団に入る。
性欲を感じたら、ネットで動画や画像を探して、オナニーをする。
村木一夜は、無気力に生活していた。四十五歳。一DKの賃貸マンションで一人暮し。家族はいない。恋人もいない。食品製造工場で主任をしているが、出世を望んで今の役職を得たわけでもない。結婚願望はなし。
童貞。
三十過ぎて童貞の男は魔法使いになれる、なんて話がある。それなら自分は、もう世界を手中にできるほどの大魔法使いだな。皮肉げに、そんなことを考えたりもした。
今日も今日とて、いつもと変わらない生活。仕事が終わって、午後八時頃に帰宅した。帰り道のスーパーで買った弁当を食べた。もう風呂に入るのも面倒だから、明日の朝にでも入ろう。布団に入って、電子書籍で本を読んだ。
午前〇時頃になり、眠くなってきた。
読書をやめて部屋の明りを消した。
目を閉じ、眠りにつく。意識が遠のいてゆく。
それから、どれくらい経っただろうか。
「やあ。村木一夜君」
唐突に、声を掛けられた。
イチヤは目を開け、声の主を見た。
ファンタジー小説に出てきそうな人物が、目の前にいた。フード付きのローブを着た、二十代くらいの男。茶色がかった金髪。目鼻立ちは、美形と言ってもいいかも知れない。
――なんだ、夢か。
声に出さず、一夜は呟いた。自分の部屋に、こんな人物がいるはずがない。家に侵入してきた強盗なら、刃物くらいは持っているだろう。でもこの男は、武器らしいものは何一つ持っていなかった。
「初めまして。俺はロキ。ノース王国の皇帝だ」
「へえ」
上半身を起こし、一夜はポリポリと頭を掻いた。伸びっぱなしで、ろくにセットもしない髪の毛。前髪が目にかかって、視界の邪魔だ。
「で、その皇帝様が、俺に何の用だ?」
夢だと確信しつつ、一夜は聞いてみた。夢なんだから、きっと、もの凄い設定でもあるのだろう。以前読んだファンタジー小説では、皇帝が、英雄となった主人公に七人もの女性をあてがっていた。一夫多妻の世界で、七人の妻を娶った主人公。
――まあ、夢なら、童貞も捨てられるだろうな。
また、声に出さずに呟く。
現実では、自分は絶対にセックスなんてできない。でも、夢なら可能かも知れない。
淡々と考える一夜に対し、ロキは、どこか嫌な薄笑いを見せた。
「君は、ノース王国の英雄になるんだ」
「へえ」
生返事。概ね予想していた展開だ。
「で、英雄になって、何人もの女を娶るのか」
「まあ、英雄になったら、それも可能だろうね」
「で、英雄になるために、何をするんだ? 魔王に攫われたお姫様でも助けるのか?」
「残念だけど、ノース王国に魔王なんていないよ」
「じゃあ、ひどい政治に苦しめられてる民衆を連れて、革命でも起こすのか?」
「これまた残念だけど、ノース王国の政治はそれほどひどいものじゃない」
もう一度、一夜は頭を掻いた。他に、ファンタジー小説に出てくるような設定はあるだろうか。そもそも、一夜はあまりファンタジー小説を読まない。当然、ファンタジーの設定にも疎い。
「じゃあ、俺は何をするんだ?」
「トレフォイル大陸にある三国を、君の力で統一するんだ。そうすれば、ノース王国はもちろん、サウスウェスト王国でもサウスイースト王国でも、君は英雄になれる」
「へえ」
再度、生返事。
一夜の様子を気にすることもなく、ロキは続けた。
「ノース王国に召喚されたら、君は、他の人達とは比べものにならない力を得る。圧倒的な魔力か、驚異的な身体能力か。どちらか選択できるわけだけど、どっちがいい?」
「じゃあ、身体能力で」
ほとんど条件反射で、一夜は答えていた。
夢の中の出来事だと分かっている。それでも、心のどこかで、自分にないものを求めた。
一夜は昔から、身体能力も運動能力も低かった。だから、読書ばかりしていた。
「わかったよ。じゃあ君は、今の君をベースに、常人の三倍の筋力、瞬発力、反射神経、動体視力、体力、運動神経を得られる」
「全部三倍か。凄いな。それじゃあ、総合力だと、常人の何倍もの強さになりそうだ」
「そうなるんだよ」
「でも、それって大丈夫なのか? そんな筋力で女に触ったら、女の体が壊れるんじゃないか?」
「それは大丈夫。最大の力が三倍になるだけで、通常の力は普通の人と同等だから」
「なるほどな。力の幅が上向きに上がるだけか」
「うん。そう」
――夢にしては、ずいぶんしっかりした設定だな。
一夜は妙な感心をしてしまった。もっとも、ロキが「皇帝」であるにも関わらず、「帝国」ではなく「王国」なのは違和感があるが。まあ、夢だから仕方がない。
「それじゃあ君は、これからノース王国に召喚される。スタート地点は、ノース王国王都の、レアルカピタルだ。そこで最初に剣術を学んで、ある程度力を付けたら旅の始りだ」
「そうか」
どうせ夢だし、好きにしてくれ。三度、声に出さずに呟いた。
「君には付き人もつけるよ。可愛い女の子だ。可愛い上に魔術の達人だから、色んな意味で魅力的な仲間だ」
――美女と旅に出て、いつか恋にでも落ちるのか。ありがちな展開だな。
一夜の頭には、ありきたりなファンタジー小説が思い浮んでいた。三国を統一という目的は、最近のファンタジーではあまり聞かないが。
「まあ、俺みたいなオッサンが美女と行動できるだけで、もの凄い幸運だけどな」
「あ、それだけど」
一夜の独り言に、ロキが反応した。
「これから君が行く世界は、この世界とは時間の流れが違うんだ」
「どういうことだ?」
「君の世界は一年が三六五日で、人類の寿命は概ね八十~百年くらいだろ?」
「まあな」
「これから行く世界は、寿命の年数は大差ないけど、一年は千百十五日ある。つまり、この世界の約三倍だ。能力が概ね三倍になるのも、この影響」
「へえ」
「君は今、四十五歳だろ?」
「ああ。いいオッサンだよな」
「一年が三倍の世界にいくわけだから、そこでの君の年齢は、今の三分の一。つまり十五歳まで若返る」
「凄いラッキーだな。最近、体の色んなところにガタがきてたからな。若返るなら、こんな悩みもなくなるわけだ」
「そうだよ。若返って、しかも英雄になれる能力が身につく。英雄になれば、色んなものが手に入る。だから、頑張ってね」
言うとロキは、右手を上に掲げた。彼の手から、眩しい光が漏れ出す。光はすぐに周囲を包んだ。周囲が見えなくなるほどの光。
ああ、そうか。もう目が覚めるんだな。これだけ眩しいんだから、きっと、窓から朝日が差し込んでいるのだろう。
足掻くのでもなく拒否するのでもなく、一夜は、目覚めを受け入れた。どうせなら、童貞を捨てるまで夢を見ていたかったが。
やがて光は、一夜の全身を包んだ。




