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花咲く終末のリリィ  作者: 雨路の宿
第一章 白ユリ戦記
3/3

第二話 ガーデン

気づいたら、眠っていた。


 いや、眠っていたというより、落ちていたのかもしれない。


 深く沈んでいたような気がした。ずっと水の底にいるみたいに重くて、でも完全には意識を失えない、中途半端な暗さの中を漂っていた。ときどき遠くで声がして、足音がして、何か硬いものが動く音がして、それでも体は鉛みたいに動かなかった。


 夢は見なかった。


 あるいは見ていたのかもしれないが、起きた時には何も残っていなかった。いつものようにジョウロの姿だけが胸に痛みを残す、あの夢ではなかった。


 最初に意識へ浮かんできたのは、匂いだった。


 清潔すぎる匂い。

 薬品と、消毒液と、乾いた布の匂い。

 その奥に、ほのかにやわらかな香りが混じっている。


 シェルターの湿った空気とは違う。

 土と鉄と、人の暮らしが染みついた匂いではない。


 ゆっくり目を開ける。


 白い天井が見えた。


 照明は柔らかい。けれど影がひどく薄く、どこにも逃げ場がない感じがした。枕元には簡素な機械が置かれていて、小さなランプが一定の間隔で点滅している。壁際には細いカーテン、金属の棚、透明な容器。寝台は硬すぎず、でも優しくもない。


 知らない場所だった。


 体を起こそうとして、右の頬にひりつく痛みが走る。反射でそこへ手をやろうとすると、手首にも微かな熱が残っていた。


 あの後のことが、一気に戻ってくる。


 シェルター。

 奇跡の花。

 カプセル。

 白い光。

 咲き始めた白ユリ。


 そして、最後に見た七つの影。


「目が覚めたか。」


 低い声だった。


 リリィははっとして顔を上げる。


 部屋の奥、窓際に一人の男が立っていた。


 年齢は四十代後半から五十代くらいだろうか。背が高く、痩せても太ってもいない、無駄のない体つき。灰色がかった金髪を短く整え、軍服に近い濃紺の制服を隙なく着ている。表情は硬く、目つきは鋭い。部屋に入ってきた時点で気づかなかったことが不思議なくらい、存在感がある。


 ただ、その存在感は威圧そのものではなく、張り詰めた空気に近かった。


 この人の前では、勝手に背筋が伸びる。

 そういう種類の人間だった。


「……ここ、は。」


 声がひどく掠れていた。


「ガーデン・ヨーロッパ支部、医務棟の一室だ。」


 男は簡潔に答える。


「お前は覚醒直後に意識を落とした。命に別状はない。」


 リリィはその言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。


 命に別状はない。

 つまり、自分はまだ生きている。


 死ねなかったのか、と思うより先に、別の感情が胸の奥で小さく灯る。


 なら、まだ探せる。


 奇跡の花を。

 ジョウロを取り戻す道を。


「……あの。」


「聞きたいことは多いだろう。」


 男はリリィの言葉を途中で切った。ぶっきらぼうというより、順序を決めるのに慣れている声だった。


「まず名乗る。俺はクラウス・レーヴェンハルト。ガーデン・ヨーロッパ支部におけるハナビト運用責任者であり、教育と実戦指揮の最高責任者だ。」


 そこで初めて、クラウスがまっすぐこちらを見る。


「お前をここへ連れてきた側の人間だ。」


 連れてきた側。


 その言い方に、リリィは少しだけ目を細めた。救助された、ではなく。助けられた、でもなく。


 クラウスはそんな反応に構わず続ける。


「ここは魔植と戦うための場所だ。保護施設でも慈善組織でもない。だが、ハナビトとして覚醒した以上、お前にはここで生きる資格がある。」


「……資格。」


「そうだ。」


 短い肯定。


「同時に義務も生じる。」


 リリィは寝台の上で指先を握る。シーツは清潔で、冷たくて、自分の体温だけが妙に浮いている気がした。


「私は……。」


 言いかけて、喉が止まる。


 自分は何なのか。

 化け物なのか。兵器なのか。助かったのか。もう戻れないのか。


 聞きたいことは山ほどあった。

 でも最初に出てきたのは、違う言葉だった。


「……あれは、何だったんですか。」


 クラウスは一瞬だけ沈黙した。


「どれを指している。」


「私の、体に入れたものと。」


 リリィは右手首を見下ろす。


「これです。」


 そこには、まだ白い文様が薄く残っていた。皮膚の上に咲いた線。花の痕跡。あれが夢ではなかった証拠。


「花因子適合誘発剤だ。」


 クラウスは言った。


「未覚醒個体に強制的な同調を起こさせるためのものだ。」


 説明は冷静で、容赦がなかった。


「成功すればハナビトとして覚醒する。失敗すれば死ぬ。あるいは覚醒不全のまま崩壊する。」


 リリィは黙って聞いた。


 十万分の一。

 死ぬかもしれない。

 それを自分は、ほとんど自殺みたいな気持ちで打ち込んだ。


「……ひどいですね。」


 思わずそう言うと、クラウスは少しも表情を変えなかった。


「ひどい。」


 あっさり同意した。


「だが、それでも使われる。」


 その言い方が、妙に誠実だった。


 正しいとは言わない。美しいとも言わない。

 ひどいものはひどいまま、でも必要とされる。

 それだけを言う。


「お前がいたシェルターの管理者は、投与に踏み切れなかったらしい。」


「……あの人。」


「知っているなら、その相手だろう。」


 リリィは小さくうなずく。


 スメラギの疲れた声が蘇る。

 嗚咽。

 拳銃を握る手。

 震えながら前へ出た背中。


 あの人は、最後まで誰かを差し出す側にはなれなかった。


「彼女は生きている。」


 クラウスが言う。


 リリィは勢いよく顔を上げた。


「……本当に?」


「本当だ。」


 リリィの肩から、少しだけ力が抜けた。


 シェルターの何人が生き残ったのか。ヘルマンは。あの子どもは。全部はまだ分からない。でも、あの人が生きている。それだけで、胸の奥にひとつ石が下りたような気がした。


「全員ではないが。」


 クラウスは続けた。そこに無駄な慰めはなかった。


「だが、お前の覚醒がなければ、被害はもっと大きかった。」


 リリィは何も言えなかった。


 褒められているのか、事実を告げられているのか、それともただ損害計算の結果を読まされているのか分からない。たぶん全部だった。


「……私は、どうなるんですか。」


「まずは観察下に置く。」


「そのあと。」


「訓練を受ける。」


 即答だった。


「お前はハナビトとして覚醒した。ならば戦い方を学ぶ必要がある。制御を知らない力は、自分も他人も殺す。」


 リリィの脳裏に、白い光が走る。リングを焼き切ったあの一撃。自分で放ったはずなのに、半分は自分のものではなかったような感覚。


「……。」


「そしてもうひとつ。」


 クラウスの声が少しだけ低くなる。


「お前が覚醒した花は、白ユリだ。」


 リリィは瞬きをした。


「白ユリ。」


「花の名は、そのままコードネームになる。今後、お前はガーデン内でその名で呼ばれる。」


 コードネーム。


 それは何か、別の生き物になったみたいな響きだった。


 リリィ。

 白ユリ。


 同じなのに、もう少し離れた誰かのようでもある。


「……リリィのままじゃ、だめなんですか。」


 自分でも幼い問いだと思った。だがクラウスは笑わなかった。


「私生活では好きにしろ。」


 そう言ってから、少しだけ言葉を選ぶ間があった。


「だが戦場では、個人名は脆い。」


 リリィは黙る。


「コードネームは、お前を兵器にするためだけのものじゃない。」


 クラウスの声は変わらず硬い。

 それでも、その言葉には少しだけ重みがあった。


「名前を背負ったまま壊れる者が多すぎた。」


 リリィはそれ以上聞かなかった。聞けば、この人の中にも何か積み重なっているのだと分かってしまいそうだったからだ。


「立てるか。」


 唐突に言われる。


「え。」


「歩けるなら来い。」


「どこへ。」


「見せておくべきものがある。」


 クラウスはそれだけ言って、扉の方へ向かった。


     *


 医務棟の廊下は静かだった。


 白く、清潔で、乾いている。シェルターとはまるで違う。足音が響くのに、誰かの生活の気配は薄い。壁には案内表示が整然と並び、ところどころで研究員らしい白衣の人間や、制服姿の兵士がすれ違う。彼らはリリィの顔を見て一瞬だけ視線を止めるが、すぐに逸らす。


 その視線の意味は、まだ分からなかった。


 興味か。

 警戒か。

 あるいは、ただの確認か。


 クラウスは歩く速度を変えない。置いていかれないように、リリィは少しだけ早足になる。


「ここがヨーロッパ支部だ。」


 クラウスは廊下の先、吹き抜けに近い広い区画へ出たところで言った。


 そこには幾層もの機能が重なっていた。


 上階には通信室らしきガラス張りの部屋。下には訓練用のスペース。壁際にはモニターが並び、周辺シェルターの位置や外縁部の花因子反応、補給路らしき線が映っている。兵士、研究者、整備員、医療班。誰も彼も別の仕事をしているのに、全体としてひとつの生き物みたいに動いていた。


 シェルターとは違う。


 そこは、ただ人が隠れて生き延びる場所じゃない。

 人が外へ出て、戦うために動いている場所だった。


「ガーデンは各地に支部を持つ対魔植機関だ。」


 クラウスの説明は簡潔だった。


「本部と六つの地域支部で構成される。ヨーロッパ、アジア、オーストラリア、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ。ここはそのうちのヨーロッパ支部。」


 リリィは黙って聞く。


「兵士、研究者、医療班、整備員、通信班。居住区と近隣シェルター、城塞都市まで含めて管理している。人員は多い。だが中核はハナビトだ。」


「……戦うのは、あの人たち。」


「そうだ。」


「七人。」


「いや。」


 クラウスは視線を訓練場の方へ向けた。


「八人だ。」


 リリィもそちらを見る。


 訓練場には、すでに何人かの少女たちがいた。昨日シェルターで見た影。黒、黄色、紫、桃色、青、金、青紫。


 距離があるのに、それぞれが全然違って見える。


「見ていろ。」


 クラウスが言う。


「今後、お前はあいつらと同じ場所で生きる。」


 訓練場の中央で、黒い蔓を纏った少女が一歩前へ出る。あの時、最初にリリィへ声をかけた少女だ。


 漆黒の長い髪は真ん中で分けられ、そのまま背中へ流れている。静かで整った髪型のせいで、切れ長の目元の冷たさがよけいに際立っていた。細い。けれど弱そうではない。静かに立っているだけで、周囲の空気まで張りつめるような雰囲気がある。


「黒バラ。」


 クラウスが言う。


「ヨーロッパ支部所属ハナビトの筆頭。制圧力、判断力、単独戦闘能力、いずれも高い。前衛の核だ。」


 その黒バラが、訓練用の可動標的に向かって蔓を放つ。ただし派手ではない。一瞬で間合いを詰め、無駄なく絡め取り、引き裂く。動きは静かで、鋭い。終わるまでほとんど音がしない。


「近接制圧と拘束が主。感情を顔に出さない。口数も少ない。」


 クラウスが少し間を置く。


「だが信用はできる。」


 その評価は、かなり高いのだろうとリリィにも分かった。


 次に、黄色の光をまとった少女が目に入る。


 明るい栗色の髪を肩のあたりで軽くまとめ、細いカチューシャで押さえている。ぴょんと跳ねたアホ毛が、動くたびに小さく揺れた。動きは大きすぎず、小さすぎず、無理がない。標的からの攻撃を受け流し、味方の位置に合わせて踏み込み、引くべきところで引く。派手さはないのに、不思議と目で追いやすい。


「デイジー。」


「防御支援型。前衛の退路と後衛の生存率を支える。突出はしないが、場を安定させる。」


 デイジーは標的の攻撃をさばいたあと、少し離れた位置の仲間へ何か軽く声を飛ばしている。気負いすぎず、でも他人を放っておかない。そんな雰囲気があった。


「気さくで、わりと誰にでも話しかける。」


 クラウスが珍しく少しだけ具体的に言う。


「愚痴も言うが、面倒見は悪くない。」


 その説明の方が、妙に信用できた。


 次に桃色の花弁を揺らす少女が視界に入る。


 淡い桃色の髪は鎖骨あたりで揺れる長さで、毛先が少し外へ跳ねている。動くたびに前髪を払う仕草が目についた。彼女は自分が前へ出るというより、訓練全体の流れを見ていた。誰かの位置がずれれば声を飛ばし、遅れれば急かし、まとまりが乱れればすぐ整える。


「マーガレット。」


「現場編成のまとめ役。実戦では隊の流れを整える。世話焼きで、苦労人だ。」


 そのタイミングで、マーガレットが誰かに向かって手を振り上げる。


「そこ、雑! もう一回!」


 よく通る声だった。


 クラウスが少しだけ息を吐く。


「見ての通りだ。」


 リリィは少しだけ、口元がゆるみそうになるのを感じた。


 次に、金色の光を散らしながら前へ出る少女。


 明るい金髪を高い位置で結んだポニーテールが、大きく跳ねるたび後ろで勢いよく揺れる。長い手足を活かして標的のあいだへ飛び込み、力強く叩き潰す。真っ直ぐで、速い。考えるより先に身体が動くタイプに見えるのに、危ないところで妙に勘がいい。


「ヒマワリ。」


「突破力に優れる前衛。正面からぶつかることを得意とする。単純に見えて、勘が鋭い。」


 ヒマワリは標的を打ち砕いたあと、大きく笑って何かを言っているようだった。訓練場の空気そのものを明るくするような存在感がある。


 次に目についたのは、紫の光をまとった少女だった。


 深い紫の髪は長く、前髪が片目を隠すように流れている。見えている方の目だけで、相手の奥まで見透かしそうな冷たさがあった。手元の端末を確認しながら訓練記録を取っている。その一方で、時々自分でも標的へ干渉し、鋭い花因子の操作で動きを止めていた。


「ラベンダー。」


「医療担当を兼ねる。観察眼と分析力に優れ、実戦では補助制御も行う。言葉は正確だが、容赦はない。」


「……怖そうです。」


「正しい感想だ。」


 その返答に、リリィは少しだけ意外そうな顔をした。

 クラウスは構わず続ける。


 青い光をまとった少女は、訓練場の外縁に近い位置で全体の動きを見ていた。


 藍がかった黒髪を低い位置で整えてまとめ、丸眼鏡の奥の青い瞳が静かに周囲を追っている。直接前へは出ず、視線と小さな合図で他の流れを変えているように見える。誰かがずれた位置へ入ろうとした瞬間、彼女の指先がわずかに動き、その先の配置が整っていく。


「アイリス。」


「通信・連絡・現場整理。支部とハナビトを繋ぐ役だ。戦闘そのものより、戦場全体を見る。」


「……やさしそう。」


「やさしい。」


 クラウスはあっさり認めた。


「だが、それだけでは務まらない場所にいる。」


 その意味は、今のリリィにはまだ分からない。


 少し離れたところでは、青紫の光を纏った少女が何かをぶつぶつ言いながら標的を見ていた。


 青紫の髪はウルフカットで、毛先だけが淡く色を変えている。気だるく跳ねた髪型のせいで、やる気があるのかないのか余計に分からない。動きはだるそうなのに、視線だけが妙に鋭い。誰かの動きがわずかにずれるたびに、すぐ口を出しているらしい。


「パンジー。」


「観測型。勘で喋っているように見えるが、たまに核心を突く。本人は適当だが、見えているものは多い。」


 リリィは少し首を傾げた。


「たまに、ですか。」


「たまにで十分だ。」


 クラウスの言い方は本気なのか冗談なのか分からなかった。


 リリィはもう一度、訓練場を見渡した。


 誰も彼も違う。

 色も、髪も、立ち方も、使う力も、空気も。


 けれど、その違いがばらばらには見えない。ひとつの支部として、ちゃんと噛み合っている。


「あと一人足りないと思う顔をしたな。」


 クラウスが言う。


「……はい。」


「お前だ。」


 そこでようやくリリィは息を止めた。


「白ユリ。」


 クラウスの声は変わらず硬い。


「ヨーロッパ支部、八人目のハナビト。現時点では未訓練。制御不十分。だが、高出力浄化適性あり。」


 訓練場にいる何人かが、こちらの気配に気づいて顔を上げる。

 まずデイジー。

 次にヒマワリ。

 黒バラだけは少し遅れて、でもまっすぐに。


「……。」


 リリィは無意識に自分の右手首へ視線を落とす。白い文様は、今は薄く眠っている。


「ここに来たからといって、すぐ家族にはならない。」


 クラウスが言う。


「仲間意識も、連携も、信頼も、勝手には生まれない。」


 その言い方は冷たい。

 けれど嘘ではない。


「だが、生き残るために必要なら、作るしかない。」


 リリィは小さく息を吸った。


 シェルターでは、ただ生き延びるだけで精一杯だった。

 ここでは、生き残るために何かを作れと言う。


 それがどれだけ大変か、今の自分にはまだよく分からない。

 でも、たぶんここに来た以上、もう戻れない。


「行くぞ。」


 クラウスが歩き出す。


「合流する。」


「……はい。」


 訓練場へ近づくにつれて、空気が少しずつ変わる。

 花因子の気配。汗。金属。足音。息遣い。


 戦う者たちのいる場所の空気だった。


 最初に声をかけてきたのは、デイジーだった。


「起きたんだ。」


 気負いのない声だった。構えすぎず、でも他人行儀でもない。


「はい。」


「ちゃんと立ててる。」


「なんとか。」


「よかった。」


 その言い方が、妙に自然だった。優しくしようとして優しくしているのではなく、たぶんこの子はいつもこうなのだと思えた。


 その隣で、ヒマワリがにっと笑う。


「昨日のあれ、お前だったのか!」


 勢いが強い。リリィは思わず少し身を引く。


「ヒマワリ。」


 マーガレットがすぐに口を挟む。


「起きたばっかりなんだから、声の圧を少し考えて。」


「俺の声、そんなでかかったか?」


「でかいの。」


 そのやり取りだけで、なんとなく全体像が見える気がした。


 ラベンダーは腕を組んでリリィを見た。


「顔色はまだよくない。」


「……すみません。」


「謝るところじゃない。」


 即答だった。


「観察対象として当然の感想を言っただけ。」


 やはり少し怖い。


 アイリスは一歩前へ出て、やわらかく会釈する。


「改めまして。ヨーロッパ支部へようこそ、リリィさん。」


 その敬語に、少しだけ息がしやすくなる。


「私はアイリスです。これから支部のこと、少しずつ案内しますね。」


「……はい。」


 パンジーは床に座ったまま、リリィを見上げた。


「なんか、思ったより普通の子だ。」


「何その感想。」


 マーガレットがつっこむ。


「いやー、もっと目が死んでる感じかと。」


「今も半分くらい失礼よ。」


「ちょっとわかるけどな。昨日はそんな感じしたし。」


 ヒマワリが平然と言う。


「やめなさい。」


 マーガレット。


 その少し後ろで、黒バラが静かに立っていた。


 昨日と同じ、冷たいくらいまっすぐな目。

 リリィは少しだけ背筋を伸ばす。


「……黒バラさん。」


 名前を呼ぶと、黒バラはわずかに眉を動かした。


「何。」


「昨日は……。」


 助けられたのかどうかも分からない。

 でも、あの時最後に声をかけてきたのはこの人だった。


 黒バラは短く言う。


「来たなら、それでいい。」


 その言葉は不親切なのに、不思議と突き放してはいなかった。


 クラウスが全員を見渡す。


「以上だ。」


 説明の締めとしてはあまりにも簡潔だった。


「今日から白ユリは支部所属とする。医療と基礎訓練を優先。編成投入は当面見送り。各自、距離感を見誤るな。」


「はーい!」


 ヒマワリ。


「了解。」


 ラベンダー。


「分かりました。」


 アイリス。


「ねえー、距離感って何?」


 パンジー。


「あなたは特に気をつけなさい。」


 マーガレットが即答する。


 そのやり取りを聞きながら、リリィはまだ少し現実感のないまま立っていた。


 シェルターとは違う匂い。

 違う空気。

 違う人たち。


 けれど、もうここが自分の次の場所なのだと、体のどこかは理解し始めている。


 ジョウロを取り戻したい。

 その願いは変わらない。


 でも今は、その願いだけで前へ進むしかなかった自分の前に、別のものが置かれた気がした。


 訓練。

 仲間。

 支部。

 戦い方。


 まだ何ひとつ自分のものではない。

 それでも、ここから始まるのだろうと思った。


 デイジーが小さく笑う。


「とりあえず。」


 リリィが聞き返すより先に、デイジーは言った。


「生きててよかったね。」


 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


 リリィはすぐには返せなかった。昨日までの自分なら、その言葉の意味を受け止めきれなかったかもしれない。


 けれど今は、少しだけ間を置いてから、かすかにうなずく。


「……うん。」


     *


 デイジーたちとの短いやり取りのあと、リリィは一度、医務棟へ戻された。


 診察室は、最初に目を覚ました部屋よりさらに白かった。壁も机も、置かれた器具も、どれも機能のためだけにあるような顔をしている。座るように言われた椅子は硬く、正面にはラベンダー、その少し後ろにはクラウスが立っていた。


 部屋の中には、清潔な消毒液の匂いに混じって、やわらかなラベンダーの香りが薄く漂っている。息を吸うと少し落ち着くのに、正面にいるラベンダー本人のせいで、気持ちはあまり緩まなかった。


 逃げ場のない感じがする。責められているわけではないのに、妙に背筋が伸びる。


「まず状態を見る。」


 ラベンダーはそう言って端末を起動した。深い紫の髪は長く、片目に前髪がかかっている。見えている方の目だけで、十分すぎるくらい鋭かった。


「右頬、右手首、首筋。開花侵蝕の初期発現部位。」


「……はい。」


「痛みは。」


「頬と手首が少し。」


「熱感。」


「あります。」


「しびれ。」


「少しだけ。」


「視界の乱れ。」


「今は、そんなに。」


「今は、ということは、さっきまではあったのね。」


「……ありました。」


 ラベンダーの質問は淡々としている。怒っているわけでも責めているわけでもないのに、気を抜くと全部見抜かれそうで怖い。


 クラウスは壁際に寄りかかったまま口を挟まない。ただ、聞いている。必要なことは一つも逃さない、という顔で。


 ラベンダーが手袋越しにリリィの頬へ触れる。冷たい。そのまま文様の輪郭を確かめるように、指先がわずかに動く。


「……定着は安定している。」


 小さく呟いてから、今度はリリィの右手首を取った。


「出力暴走の痕跡はあるけど、崩壊には至っていない。」


「崩壊って。」


 リリィが聞き返すと、ラベンダーではなくクラウスが答えた。


「覚醒直後に制御不能のまま花因子が飽和し、肉体の維持に失敗することだ。」


 声は硬い。けれど、誤魔化しはない。


「死ぬ場合もある。半端に残る場合もある。」


 リリィは無意識に唇を噛んだ。


 つまり、自分は本当にただ運がよかっただけなのだ。

 いや、運がいいという言い方で片付けていいのかも分からない。


 ラベンダーが端末へ何か打ち込みながら言う。


「体は持ちこたえている。問題は覚醒時の現象の方。」


 そこでようやく、彼女は真正面からリリィを見た。


「話して。」


「……何を。」


「全部。」


 短い。

 でも逃げ道がない。


「カプセルを入れた直後から、魔植を撃ち抜くまで。覚えていることを、順番に。」


 リリィは少しだけ視線を落とした。


 あの時のことを、思い出したくないわけではない。

 ただ、うまく言葉にできる気がしなかった。痛みも、光も、奇跡の花のことも、自分の中では全部まだ熱いまま残っている。


「……全部は、うまく言えないかもしれません。」


「構わない。」


 クラウスが言う。


「言える範囲でいい。」


 リリィは小さく息を吸った。


「リングっていう名前の、人型の魔植がいました。」


「名称を自称したのね。」


 ラベンダーがすぐに拾う。


「はい。」


「続けて。」


「小さい魔植が先に入ってきて。探索隊が戦ってました。でも、押されてて。」


 ヘルマンのことを思い出す。

 棘蔦。

 宙に止まった体。

 引き裂かれる音。


 喉の奥が少し詰まる。


「ヘルマンさんが前に出て……それで、すぐ、殺されました。」


 ラベンダーは記録を止めない。

 クラウスも何も言わない。


「そのあと、その魔植が奇跡の花の話をして。」


「奇跡の花。」


 今度はクラウスが反応した。


「“すべての願いが叶う花”って。」


 言った瞬間、自分の声が少しだけ変わったのが分かった。そこだけ、他よりずっとはっきり覚えている。


「……それを聞いて、私。」


 リリィは視線を膝の上へ落とす。


「希望を持ったんです。」


 診察室の空気が、一瞬だけ静かになる。


 ラベンダーの指が止まり、クラウスは表情を変えなかった。でも、二人ともその一言を重く受け取ったのだと分かる。


「それまでは。」


 リリィは続ける。


「死んでもいいと思ってました。むしろ、そのカプセルで死ねるなら、それでもいいって。」


「自殺目的。」


 ラベンダーが淡々と確認する。


「……そうです。」


「でも奇跡の花の話を聞いて、変わった。」


「はい。」


「なぜ。」


 クラウスだった。


 リリィは顔を上げる。まっすぐ聞かれている。


 ここで誤魔化しても意味がない気がした。


「私の最愛の人を、生き返らせられるかもしれないって思ったからです。」


 ラベンダーは何も言わなかった。

 クラウスも、ただ聞いている。


「だから、自分で打ちました。」


「打たれたのではなく、自分で。」


「はい。」


「盗んで。」


「はい。」


「管理者を庇うためでも、シェルターを守るためでもなく。」


 その問いに、リリィは少しだけ詰まった。


 違う、と言い切るのは嫌だった。

 でも、主軸がそこではなかったのも本当だ。


「……最初は、違います。」


「最初は。」


「はい。最初は、ジョウロのためでした。」


「今は違うみたいに聞こえるわね。」


 ラベンダーが言う。


 リリィは少しだけ息を吐く。


「シェルターの管理長が前に出ようとしてたから。」


「うん。」


「それも、ありました。」


 ラベンダーはそれ以上追及しなかった。たぶん、それで十分なのだろう。


「覚醒の感覚は。」


「痛かったです。」


「それは分かる。」


「じゃあ……。」


 リリィは言葉を探す。


「熱くて。苦しくて。体の中を何かが這い上がってくるみたいで。」


「花因子の浸潤感。」


 ラベンダーが小さく呟く。


「それで、怖かったんですけど。」


「うん。」


「でも、その時、目の前のリングの中に、すごく濃い部分が見えました。」


 クラウスの目がわずかに細くなる。


「核か。」


「たぶん。」


「はっきり見えた。」


「はい。」


「最初から。」


「……覚醒してからです。」


「位置は分かった。」


「分かりました。」


「他の小型は。」


「リングほどじゃないですけど、なんとなく。」


 ラベンダーが記録を打つ速さを少しだけ上げる。


「感知と浄化の同時適性。」


「それだけじゃない。」


 クラウスが低く言う。


「高位魔植に対して、覚醒直後で核の視認まで起きている。」


「分かってます。」


 ラベンダーはそれを切り捨てるようには言わなかった。むしろ、興味を押さえているように聞こえた。


「それで、光が集まって。」


 リリィは右手を見つめる。


「あとは、あまり覚えてないです。」


「でも撃った。」


「はい。」


「意図して。」


「……半分は。」


 自分でも、その答えがいちばん近い気がした。


「半分。」


 クラウスが繰り返す。


「消えろって、思いました。」


 その言葉は小さかった。

 でも診察室では妙にはっきり響いた。


「ただ、消してしまいたかったです。目の前から。」


 クラウスはしばらく何も言わなかった。


 やがて、淡々とした口調で言う。


「よく分かった。」


 それは優しい言葉ではない。

 だが、切り捨てもしていない。


 ラベンダーは端末を閉じた。


「現時点で分かるのは三つ。」


 指を一本立てる。


「高出力浄化。」


 二本目。


「核の視認。」


 三本目。


「覚醒直後にもかかわらず、崩壊しなかったこと。」


「……それは、良いことですか。」


 リリィが聞くと、ラベンダーは少しだけ考えた。


「良いことでもあり、厄介でもある。」


「厄介。」


「生き残れる個体は、使える個体でもあるから。」


 正直すぎる言い方だった。


 クラウスが椅子を引く。

 それが、この聞き取りの終わりの合図みたいに聞こえた。


「基礎説明へ移る。」


「今からですか。」


 思わず言うと、クラウスは当然のようにうなずいた。


「今日のうちに知るべきことは多い。」


「でも、まだ。」


「疲れているか。」


「……少し。」


「なら座って聞け。」


 それで終わりだった。


     *


 基礎指導は、訓練場に隣接した小さな会議室で行われた。


 壁際には簡易モニター、中央には長机。

 教室というには無機質で、会議室というには使い込まれている。実際、ここはその両方なのだろう。


 そこにいたのはクラウスと、もう一人。


「座って。」


 マーガレットだった。


 桃色の髪は鎖骨あたりで軽く跳ね、忙しいと前髪を払う癖があるらしく、今も指先が額のあたりをかすめた。昨日の訓練場で見た時より、少しだけ表情が柔らかい。けれど忙しそうな空気は相変わらずで、机の上には資料と端末とマグカップが雑多に並んでいる。


「クラウスさんだけだと話が固すぎるから、今日は私も入る。」


「余計なお世話だ。」


 クラウスが即座に返す。


「自覚あるんじゃないですか。」


「最低限だ。」


「最低限すぎますよ。」


 そのやり取りを見て、リリィは少しだけ意外に思った。

 クラウスにもこういう会話をする相手がいるらしい。


 マーガレットはリリィの前に紙の束を置いた。


「最初に言っとくけど、今日は全部覚えなくていい。」


「はい。」


「でも“聞いたことはある”状態にはなってもらう。」


「……はい。」


「返事が硬い。」


「緊張してるので。」


「でしょうね。」


 そう言って、マーガレットは少しだけ笑った。


「じゃ、始めるわよ。」


 クラウスがモニターを起動する。

 映し出されたのは、植物の断面図のようなものと、花因子の反応模式図だった。


「ハナビトとは何か。」


 彼の声は、さっきよりさらに教官のものになっていた。


「花因子と同調し、魔植に対抗可能な戦闘個体の総称だ。」


 リリィは黙って聞く。


「花因子は人間にも影響を及ぼす。だが大半は拒絶反応か崩壊反応を起こす。ごく一部の適合者のみが、同調に成功する。」


「それが、ハナビト。」


 マーガレットが補う。


「そう。で、成功したからって全部うまくいくわけじゃない。」


 彼女は自分の腕を軽く叩いた。


「使えば使うほど、体には残る。」


「開花侵蝕。」


 リリィが小さく言う。


「うん。」


 マーガレットはうなずいた。


「もう聞いてると思うけど、私たちの体は少しずつ花因子に侵されてく。文様が広がる。感覚が変わる。限界を越えると……。」


「越えると?」


 マーガレットは一瞬だけ言葉を切った。


「……前例がなくて、どうなるかは分からない。」


 そして、静かに続ける。


「けど、きっと壊れる。」


 その言い方は率直だった。

 脅すためではなく、隠さないために言っているのが分かる。


「魔植も、元を辿れば植物の異常変異個体だ。」


 クラウスが画面を切り替える。


 小型、中型、大型、高位、災害級。

 簡略化された分類図と、形状の違いが表示される。


「小型は数と機動力。中型は区域制圧。大型は単独で防衛線を崩しうる。高位は知性と指向性を持つ場合がある。災害級は別格だ。」


「リングみたいに?」


 リリィが言うと、クラウスはうなずく。


「そうだ。」


「喋る魔植は珍しいんですか。」


「珍しい。」


 答えたのはマーガレットだった。


「いないわけじゃない。でも、出たら面倒。」


「面倒で済ませるんですか。」


「済まないけど、現場ではだいたいそう言う。」


 それは少しだけ可笑しかった。


「あと、昼夜。」


 マーガレットが指を立てる。


「これ大事。」


 クラウスが画面に昼夜の反応グラフを出す。


「魔植は夜間、活動性が大きく低下する。完全停止ではないが、昼間ほどの脅威ではなくなる。」


「じゃあ、夜は安全なんですか。」


「安全ではない。」


 クラウス。


「相対的に、だ。」


 マーガレットが続ける。


「それに私たちも、夜は出力が落ちる。」


「……ハナビトも。」


「そう。」


「だから夜は、戦う時間っていうより、回収とか移動とか整える時間。」


 リリィはそれを聞きながら、シェルターでの夜を思い出した。

 暗くて、静かで、ただ耐える時間。

 あれにも理由があったのかもしれない。


「もうひとつ。」


 クラウスが画面を消す。


「ガーデンはお前たちを守るためだけの場所ではない。」


 急に空気が変わる。

 これは、覚えておけという話なのだと分かる。


「この支部は施設単体で存在しているわけじゃない。周辺居住区、近隣シェルター、城塞都市、外縁調査区域まで含めて防衛圏だ。そのすべてを維持するために、お前たちは戦力として扱われる。」


 マーガレットがわずかに眉を寄せる。

 けれど否定はしない。


「ハナビトは貴重な戦力であり、管理対象であり、同時に消耗品として扱われる危険を常に持つ。」


「だからこそ。」


 クラウスは続ける。


「自分で戦い方を学べ。自分の体を知れ。自分の限界を見誤るな。」


 リリィは小さく息を呑んだ。


 クラウスの言葉は、優しくはない。

 でも、たぶん必要なことだけを言っている。


「……はい。」


 答えると、マーガレットが少しだけ表情をやわらげた。


「まあ、最初から全部できるわけないから。」


 そう言って、机に頬杖をつく。


「だから明日から少しずつ。って話。」


「明日から。」


「うん。」


 そこでクラウスが、きっぱりと言った。


「明日からは早速、ハナビトとして訓練に参加してもらうつもりだ。」


 その言葉は、予想していたのに重かった。


 明日。

 もう明日から。


「見学ではなく。」


 リリィが確認すると、クラウスは迷いなく答える。


「参加だ。」


「無理はさせないけど。」


 マーガレットが続ける。


「甘やかしもしない。」


 それもまた、ずいぶん率直だった。


「白ユリとして戦うなら、早いうちに自分の立ち位置を知った方がいいから。」


 リリィは膝の上で手を握る。


 怖くないわけがない。

 昨日まで、ただのシェルターの少女だった。

 それが明日から訓練。

 自分も、あの訓練場の中へ入る。


「……分かりました。」


 声は少しだけ小さかった。

 でも、逃げる言葉ではなかった。


 クラウスが立ち上がる。


「今日はここまでだ。」


 マーガレットも資料をまとめながら言う。


「部屋の場所はもう案内されてる?」


「まだです。」


「じゃああとでデイジーかアイリスに頼む。たぶんそのへんがちょうどいい。一度、医務室に戻って待っていて。」


「司令官じゃないのですか。」


「私が行くと途中で別件入るから。」


 あまりにも自然な返答に、リリィは少しだけ納得してしまった。


「それと。」


 マーガレットが最後に付け足す。


「明日は朝からだから。」


「はい。」


「寝坊しないで。」


「……気をつけます。」


「不安。」


「そこまで言います?」


「言う。」


 その即答に、少しだけ肩の力が抜けた。


     *


 基礎指導が終わって、リリィが会議室を出たあとだった。


 扉が閉まる音を聞き届けてから、マーガレットは深く息を吐いた。

 桃色の髪を耳の後ろへ乱暴に払う。忙しい時ほど前髪が邪魔になるらしく、癖みたいな仕草だった。


「……思ったより、ちゃんと座ってましたね。」


 机の上の資料をまとめながら言うと、クラウスは壁際に立ったまま答えた。


「暴れるような個体には見えない。」


「個体って言い方、やめてもらっていいですか。」


「事実だ。」


「そういうところです。」


 マーガレットは半ば呆れたように肩を落とす。

 けれど本気で怒っているわけではない。クラウスがそういう人間だと、もう嫌というほど知っているからだ。


 クラウスは腕を組んだまま、閉じた扉を一度だけ見た。


「感情の起伏はある。だが、表に出す前に飲み込む癖があるな。」


「ありますね。」


「危うい。」


「危ういです。」


 間髪入れずマーガレットも同意する。


「ぱっと見だと静かですけど、静かだから安心ってタイプじゃないです。抱え込む方。」


 クラウスは小さくうなずいた。


「奇跡の花の話への反応も強かった。」


「そこ、かなり核でしょうね。」


「最愛の人を生き返らせたいという思い。」


「たぶん今のあの子の真ん中です。」


 マーガレットは椅子へ腰を下ろし、背もたれに軽くもたれた。


「でも。」


「何だ。」


「それだけでもない気がします。」


 クラウスは視線だけで続きを促す。


「管理長の前に出たことです。」


 マーガレットは指先で机を軽く叩いた。


「最初の動機はたしかにジョウロでしょうけど、あの場でその人を押しのけて前に出たのは、それだけじゃできないと思うんですよね。」


「庇護衝動か。」


「そこまで綺麗な言い方じゃないかもですけど。」


 マーガレットは少し考える。


「自分が終わるつもりだった子が、誰かの前に出た。そこは大きいです。」


 クラウスは少しだけ目を細めた。


「お前は、どう見る。」


「まだ壊れやすいです。」


 即答だった。


「でも、壊れやすいから弱いって感じではないですね。むしろ逆かも。」


「逆。」


「抱え込んだまま立てちゃうタイプです。だから、限界が見えにくい。」


 その言葉に、クラウスは短く沈黙した。


「白ユリの出力自体も問題だ。」


「それはもう、大問題です。」


「覚醒直後で高位魔植を撃ち抜いた。」


「しかも暗所補正と相手の油断があったにしても、一発で核まで届いてる。」


 マーガレットは自分の腕を軽くさすった。

 思い出しただけでぞくりとしたのかもしれない。


「正直、あれを“たまたま通っただけ”で片づけるのは危ないです。」


「同感だ。」


「でも、最初から怖がらせすぎるのも違う。」


「分かっている。」


 クラウスはようやく壁から体を離した。


「だからまずは基礎訓練だ。支部に慣れさせる。連携を覚えさせる。自分の出力と限界を知る前に、単独で前へ出させるつもりはない。」


 マーガレットはそれを聞いて、少しだけ表情をゆるめた。


「ならよかったです。」


「何がだ。」


「クラウスさん、たまに容赦なく最短で行かせるから。」


「最短が必要な場合もある。」


「今回は違います。」


「分かっている。」


 その返答は短かったが、今回はちゃんと噛み合っていた。


 マーガレットは立ち上がり、資料の束を抱える。


「デイジーを行かせます。」


「妥当だな。」


「いちばん最初に部屋まで連れてくの、ラベンダーでもヒマワリでもないですし。」


「黒バラでもない。」


「それはそうです。」


 二人とも、そこだけは迷いなく一致した。


 扉へ向かう前に、マーガレットがふと振り返る。


「……たぶん、あの子。」


「何だ。」


「思ってるより、ちゃんとここに馴染むかもしれません。」


 クラウスは少しだけ間を置いた。


「思っている。」


「え。」


「俺も、そう思っている。」


 マーガレットは少しだけ目を丸くして、それからふっと笑った。


「なんだ。珍しく最初から意見一致じゃないですか。」


「珍しくはない。」


「いや、珍しいです。」


 言い切ってから、彼女は部屋を出ていった。

 扉が閉まったあとも、クラウスはしばらく無言で立っていた。


「白ユリ、か。」


 その呟きは、誰に聞かせるものでもなかった。


     *


 医務室には、ほのかにラベンダーの香りが漂っていた。


 消毒液の清潔な匂いに混じって、やわらかく、落ち着く香り。

 たぶん本物ではなく、乾燥させたものか、香料の類だろう。それでも、その部屋に入ると少しだけ呼吸が深くなる。


 リリィが診察台の端に腰かけたまま、右手首の文様を見下ろしていると、扉の向こうから軽いノックがした。


「失礼します。」


 聞き覚えのある声に顔を上げる。


 デイジーだった。


 明るい栗色の髪は肩のあたりで軽くまとめられ、細いカチューシャが前髪を押さえている。ぴょんと立ったアホ毛が、入ってきた拍子に小さく揺れた。きっちりしすぎない、でも雑でもない髪型で、その人柄に妙に合っていた。表情は明るすぎず、でも話しかけやすい。少し口元が上がっているだけで、こっちの緊張まで和らぐような顔をする子だ。


「マーガレットから、部屋まで案内してって言われた。」


「……ありがとうございます。」


「どういたしまして。」


 デイジーはそのまま扉のところで待つのではなく、自然に一歩中へ入ってくる。


「ラベンダー、もう終わりそう?」


「終わる。」


 ラベンダーは端末から目を離さずに言った。

 長い紫の髪は片目にかかり、動くたびにさらりと肩を滑る。目元は涼しいのに、見ているところは鋭い。医療室にいると余計に似合う人だ。


「無理はさせないで。」


 ラベンダーが続ける。


「分かってるよ。」


「本当に?」


「その聞き方、シェルターの管理長みたい。」


「私はもっと信用してない。」


 さらっとひどいことを言う。

 デイジーは苦笑して、リリィの方へ視線を戻した。


「だってさ。」


「……がんばります。」


「頑張らなくていいよ。今日は。」


 デイジーはそう言って、少しだけ首を傾げた。


「あと、ひとつ。」


「何ですか。」


「敬語いらないよ。」


 リリィは瞬きをした。


「え。」


「あと、ひとつ。」


「何。」


「敬語いらないよ。」


 リリィは瞬きをした。


「え。」


「たぶん年、近いでしょ?」


「……デイジー、何歳?」


「十七。」


「……同い年。」


「でしょ。」


 デイジーは笑う。


「だから、ため口でいいよ。」


「……分かった。」


「うん。それでいい。」


 そのやり取りだけで、少しだけ息がしやすくなる。


「部屋、すぐ行くのもいいけど。」


「うん。」


「先に見せたい場所がある。」


 リリィは瞬きをした。


「場所?」


「うん。」


 デイジーはちょっとだけ得意そうに笑う。


「秘密の絶景スポット。」


     *


 その場所は、訓練棟と寮棟をつなぐ渡り廊下の先にあった。


 厳密には立入禁止ではないのだろう。

 でも、わざわざ来る人も少ないのだと分かる場所だった。細い通路を抜けた先、半端な高さの外部通路に、小さなベンチがひとつ置かれている。壁の一部が強化ガラスになっていて、その向こうに支部外縁の景色が見えた。


 灰色の大地。

 遠くに崩れた建物の骨組み。

 その先に、夕方へ傾き始めた淡い空。


 荒れ果てているのに、不思議ときれいだった。

 シェルターの中からでは絶対に見えない広さが、そこにはある。


「……。」


 リリィはしばらく何も言えなかった。


 デイジーは無理に感想を求めず、先にベンチへ腰を下ろした。


「ね。」


「……絶景だね。」


「でしょ。」


「でも、灰色ばっかり。」


「それはそう。」


 デイジーは少し笑う。


「前はもっと綺麗だったらしいけど。今でも、ここから見るとちょっとましに見える。」


 リリィもゆっくり隣へ座る。


 ガラス越しの空は、ちゃんと空だった。

 青だけではない。灰色も、薄い橙も混じっている。

 それでも地下で想像していたよりずっと広い。


「……シェルターの子が、空が見られるかなって言ってた。」


「子ども?」


「うん。」


「そっか。」


 デイジーは膝の上で手を組みながら、少しだけ目を細めた。


「見せてあげたいよね。」


 その言い方は、気休めではなかった。


 リリィはガラスの向こうを見たまま、小さく言う。


「デイジー、わりと普通だね。」


「何その感想。」


 デイジーはすぐに笑った。


「いや、悪くないけど。」


「もっと変な人たちばかりかと思ってた。」


「それは失礼だな。」


「少しだけ。」


「少しだけじゃないでしょ。」


 そのまま二人で少しだけ笑う。


「でも、分かるよ。」


 デイジーが言う。


「うちも最初、ここ来た時そう思ったし。」


「デイジーも。」


「うん。黒バラは静かだし、ラベンダーは怖いし、ヒマワリはうるさいし、パンジーは何考えてるか分かんないし、マーガレットはずっと忙しそうだし。」


「アイリスは。」


「アイリスはちゃんとしてる。」


「そこは即答なんだ。」


「ちゃんとしてるから。」


 デイジーはきっぱり言って、それから少しだけ肩をすくめた。


「まあ、でも。だいたい慣れるよ。」


 その言葉に、リリィは少しだけ俯く。


「……慣れるかな。」


「慣れる。」


「そんな簡単に?」


「簡単じゃないけど。」


 デイジーは横目でリリィを見る。

 気さくなだけではない、ちゃんと相手を見ている目だった。


「でも、慣れなきゃやっていけないし。」


「……。」


「あと、みんな思ってるよりちゃんと優しい。」


「そう見えない人もいる。」


「黒バラとか?」


「うん。」


「分かる。」


 また少し笑う。


「でも、あの人はあの人なりにちゃんと見てるよ。」


 その言い方が、リリィには少し意外だった。


「デイジーは、黒バラさんのこと好きなんだ。」


「尊敬はしてる。」


「好きではなく。」


「好きもあるけど、ちょっと怖いのもある。」


「正直だね。」


「わりとね。」


 風が、ガラスの向こうで何かを揺らしていた。

 もちろんここまでは届かない。

 でも、風のある世界が目の前にあるだけで、リリィには少し不思議だった。


「ここ、よく来るの?」


「うん。たまに。」


「一人で。」


「一人の時もあるし、誰か連れてくる時もある。」


「私、連れてこられたんだ。」


「うん。」


 デイジーはあっさりうなずく。


「なんで?」


「なんでだろ。」


 少し考えてから、悪びれもなく言う。


「たぶん、昨日のあなただと部屋直行はちょっと息詰まりそうだったから。」


 リリィはその言葉をすぐには返せなかった。


 図星だった。

 見慣れない部屋に一人で放り込まれたら、きっとまた何も考えられなくなっていた気がする。


「……ありがとう。」


「うん。」


 デイジーはそこで、わざとらしく明るい声を出す。


「じゃ、そろそろ行こっか。秘密スポットだけで終わると、マーガレットにあとで何言われるか分かんないし。」


「怒られる?」


「“先に案内しなさい!”って。」


「言いそう。」


「言う。」


 そこは妙に確信があった。


     *


 寮棟の部屋は、シェルターの小部屋とは比べものにならなかった。


 扉を開けた瞬間、リリィは本気で足を止めた。


「……。」


「でしょ。」


 デイジーが少しだけ得意そうに言う。


 中は決して豪華ではない。

 でも、ちゃんとしていた。


 ベッドが一つ。

 清潔なシーツ。

 机。

 椅子。

 小さな本棚。

 引き出し付きの収納。

 壁際には簡素なクローゼット。

 さらに、部屋の隅には小さな洗面台までついている。


「……これ、全部。」


「白ユリの部屋。」


「広い。」


「そこまで広くはないよ。」


「私の知ってる部屋より広い。」


「ああ……。」


 デイジーはそこで少しだけ表情をやわらげた。


「そっか。」


 リリィは中へ入る。

 床はきれいで、足音が軽い。

 机の表面には傷がほとんどない。

 ベッドは一人で使うには十分すぎる大きさだった。


「すごい。」


 思わず口からこぼれた。


「洗面台、部屋についてるんだ。」


「ついてる。」


「棚もある。」


「ある。」


「椅子も。」


「それは普通にあるでしょ。」


「普通なんだ、これ。」


 デイジーは笑った。


「まあ、シェルターと比べたらだいぶ違うよね。」


 リリィはクローゼットを開けてみる。

 中には支部用の替えの制服と、最低限の生活用品がきれいに揃っていた。


「……。」


「びっくりしてる?」


「かなり。」


「よかった。反応がいい。」


「そんなところで喜ぶんだ。」


「喜ぶよ。だって、案内した側としてはちょっと嬉しいし。」


 デイジーは部屋の入口のところに寄りかかりながら、リリィを見ていた。

 じろじろ観察する感じではなく、ちゃんと馴染めそうかをさりげなく見ている感じだ。


「困ったらすぐ言ってね。」


「何を。」


「何でも。」


「何でも。」


「うん。部屋の使い方でも、食堂の場所でも、誰が怖いかでも。」


「最後だけ変じゃない?」


「大事だよ。」


 真顔で言うので、少しだけおかしかった。


「ちなみに。」


 デイジーが指を折る。


「ラベンダーは正論で詰めてくる。マーガレットは声が大きい。ヒマワリは近い。パンジーは急に核心突いてくる。黒バラは静かに怖い。」


「全部ちゃんと怖いね。」


「でも慣れる。」


「またそれ。」


「だって本当だし。」


 リリィはベッドの端に座る。

 柔らかい。

 シェルターの簡易寝台よりずっと柔らかい。


「……デイジー。」


「何。」


「さっきの場所。」


「絶景スポット?」


「うん。」


「また行ってもいい?」


 デイジーは少しだけ目を丸くして、それから笑った。


「もちろん。」


「一人でも。」


「いいよ。」


「……ありがとう。」


「そこは気にしなくていいの。」


 そう言って、デイジーは扉の方へ体を向ける。


「じゃ、私はそろそろ行くね。」


「うん。」


「夜はわりと静かだけど、静かすぎて落ち着かないかも。」


 その言葉に、リリィは少しだけ目を伏せた。


「……たぶん。」


「だよね。」


 デイジーはそれ以上余計な慰めを言わなかった。


「でも、朝になったらまたみんないるから。」


 扉の前で振り返る。


「おやすみ、リリィ。」


「……おやすみ、デイジー。」


 扉が閉まる。


 一人きりの部屋に静けさが落ちる。

 でもその静けさは、シェルターの夜のものとは少し違っていた。


 見慣れない設備。

 整いすぎた部屋。

 広すぎるベッド。

 ここが自分の部屋だなんて、まだ全然信じられない。


 リリィはそっと天井を見上げた。


 知らない場所。

 知らない人たち。

 でも、その全部の中に、少しだけ息をつける隙間があった。


 それは、きっとデイジーがあの場所を見せてくれたからだ。


     *


 夜は、思っていたより静かだった。


 支部の寮室は医務棟より少しだけ生活の匂いがした。

 机と椅子。簡単な棚。小さな洗面台。必要なものだけが置かれた、整いすぎた部屋。シェルターみたいに誰かの咳や寝返りや話し声が混ざらない代わりに、自分一人の呼吸だけが妙に大きく感じられる。


 リリィはベッドに仰向けになって、天井を見ていた。


 見慣れない天井だった。


 白くて、平らで、染みもなくて、夜なのにどこか明るい。

 シェルターの天井みたいに、むき出しの管もひび割れもない。


 昨日までは、死んでもよかった。


 少なくとも、そう思っていた。


 でも今日は違う。

 明日が来る。

 訓練がある。

 デイジーがいて、マーガレットがいて、ヒマワリがいて、黒バラがいて、ラベンダーがいて、アイリスがいて、パンジーがいて、クラウスがいる。


 そして、自分は白ユリだ。


 右の頬へそっと触れる。

 熱はもう薄い。

 それでも文様は、確かにそこにある。


 ジョウロのことを思い出す。


 奇跡の花。

 リングの言葉。

 それが嘘だったとしても、リリィにはもうそれを手放す理由がなかった。


「……待ってて。」


 小さく呟く。

 誰も聞いていない。

 でも、それでよかった。


 この部屋は静かすぎる。

 静かすぎて、ひとりでいることがよく分かる。


 それなのに不思議と、シェルターの夜みたいな絶望だけではなかった。


 怖い。

 明日の訓練も、自分の体も、この先のことも怖い。


 でも、怖いだけではない。


 ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけ、前へ進んでいる気がした。


 リリィは目を閉じる。


 見慣れない天井の下で迎える最初の夜は、長いようでいて、静かに過ぎていった。



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