〝しゃわあ〟というもの
──目の前を大地が流れていく。
そうかと思えば白い塊が目の前に割って入り、
それが雲だと気づくのに少し時間がかかった。
──今、自分は空を飛んでいる。だがそこに爽快感などなく、恐怖だけが
体の中を駆け巡っていた。
体を動かそうとするとまるで何かに抱きすくめられたように動かせず、
背中には氷にでも押し付けられたような冷たい感覚がある。
そして何よりも困惑に拍車をかけているのは、
自分にはこんな記憶はない、ということだった。
──助けて……──
──自分の口からまるで違う人物のような声が出ていることに気付き、さらに
混乱が増す。
なんだこれは、いったい誰の記憶なのだ。
──助けて、お父さん、■■■……──
──ただひたすら助けて、と口が動き、
その頬に涙が伝った──
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……っ」
その瞬間、ミザリーは目を開いた。
机から顔を上げるとそこは先ほど戻ってきた
1号室であり、
周りを見回しても何かが変わったわけでも無い様だった。
「……眠ってしまったのか、余は……」
体を起こして椅子から立ち上がり、
つけっぱなしだった戦闘用籠手を脱ぐとベッドに放り投げ
そのそばに自分も腰を下ろした。
絹だろうか、ベッドの布地はきめ細やかな生地でできており、
やわらかな手触りでここに寝転べばあっという間に夢の中だろうと
ミザリーはうれしくなった。
安宿とピントは言っていたが自分たちのいた世界で
これと同じものを用意すれば、1人一泊で
宿賃8000Gなどすぐに飛ぶだろう。
そう考えれば高いと思っていた値段も2人二泊でなら
破格の安さである。
「つくづく異世界とはとてつもないところだな」
髪をかき上げながらそうつぶやいたミザリーは、
ふと顔に手をやると目元が濡れている事に気が付いた。
「水……?」
だがこの部屋に水差しなどなく、
濡れる理由がない。
「……余は、泣いていたのか……?」
さっきの夢のせいか、と思うもののなぜあんな夢を見たのか
まるで見当がつかない。
そう思っていると、外からドタドタと足音が聞こえロインが飛び込んできた。
「姉ちゃんッ!! あのね─っ……はッ!!? 姉ちゃん泣いてるのッ!?」
「入ってくるなり騒々しいな貴様は……」
目ざとくミザリーの目元に光るものを見つけたロインは、入ってくるなりまくしたてる。
ああ、これは面倒なことになるぞと理解したミザリーは先手を打った。
「先ほどまでうとうとしていてな、あくびをしたら涙が出たんだ」
「……そうなの?」
「ああ。貴様にうそを言っても仕方ないだろう」
「そうなんだ、よかった……」
ほっとした様子のロインにひとまず危機は去ったみたいだと
ミザリーもため息をついた。
「さっき慌てて駆け込んできたでしょ?
それで何かあったのかと思って。あの宿の男が
原因だったらぶん殴ってたところだけど」
案の定物騒な考えをしていたことを言うロインに
ごまかしておいて正解だった…!!と
ミザリーが慄いていると、
その後ろから亭主が姿を現した。
「む、どうしたのだ?」
「……おお、悪いな嬢ちゃん夜遅くに。ランプのこと話してた時にもしかしてと思って
シャワーのことを話したら、この兄ちゃんがすっとんでいってな」
「そう、そのことなんだよ姉ちゃん!! 言いたかったことは!!」
興奮気味のロインを落ち着かせて話を聞くと、
〝しゃわあ〟という宿の設備のことについてらしい。
「俺の部屋と間取りは同じらしいから、
姉ちゃん一緒に来てくれない?部屋の入り口の横の扉まで」
「横の扉?」
それを聞いていた亭主が1号室の入り口のそばに立つと、
部屋の中にある1つの扉を開いた。
「ほう、そこは納戸だと思っていたが違うのか」
「そうなんだよ。中も見たことないものでさ!!」
ロインの一言に俄然興味がわいたミザリーは、ロインと中を覗き込む。
するとそこは小さな部屋であり、奥には初めて見る質感の布が
天井から垂れ下がっていた。
「おお、なんだあれは?」
「変わッてるでしょ!? なああんた、ここ3人入れるかな?」
「……さすがに2人が限界で、俺の腹だと嬢ちゃんがつぶれちまう。
兄ちゃんが教えてやってくれねえか?」
「よしきた! じャあ姉ちゃん、ちョッと入ッてくれない?」
「……貴様と2人でか?」
ミザリーが少しおどけた感じで言ってやると、ロインは慌てて両手を上にあげた。
ひとまず部屋の中へと入ると、
小さな棚が作り付けてあり、
中には布が何枚かたたまれておいてある。
「これが“たおる”。手ぬぐいのめちゃめちゃでかくなったようなやつで、
濡れた体を拭くために置いてあるんだって」
「ふむ?濡れる、ということは水で体を濯ぐのか?」
「俺もそう思ったんだ。でも話を聞いたらちょっと違うんだよ!!」
「む?」
ロインが奥にかかった布を脇へ寄せると、
壁に妙な〝傘〟がついた管が伸びているのが見えた。
これがくだんの〝しゃわあ〟なるものだろうか?
「ふむ、これが?」
「そう! この〝しゃわあ〟ってやつがすごくてさ!! なんとだよ──」
ロインが手を伸ばし、管の下側にある妙な十字型の
金属を握ると、右方向に回す。
すると──
「おおっ!?」
傘から勢いよく水が噴き出し、
おまけにその水は湯気を上げていた。それはつまり──
「なんとこの〝しゃわあ〟、沸いたお湯が出てくるんだよッ!!」
ミザリーはいよいよもって異世界の技術に関心していた。
今まで体を濯ぐなど水か、湯があっても桶一杯分用意して
体を拭くのがせいぜいだったにもかかわらず、ここでは
文字通り滝のように流れる湯を浴びることができるというのだ。
「あッ、でも本当に沸いたお湯だから、
水で埋めてあげないと大火傷するんだって」
「おお、それは気を付けなければな……」
ロインは再び十字型の金属を握ると、
今度は左方向に回した。傘からの湯の量が少なく
なり、やがてしずくを垂らして沈黙する。
「この十字型の金属が〝はんどる〟ッていッて、
右回しで開いて左回しで閉じるだッて。
2つ付いてるけど、右が水、左がお湯のはんどるらしいよ。
右の水を開いて左のお湯であッたかくしていくのが
火傷しないコツだッて!!」
「ほう、うまくできているものだな!貴様の説明もわかりやすかったぞ」
えへへ、とロインが照れたように頭を掻く。
実際今回はとても助かった、こやつがここまで
頼もしく見えたのは始めてかもしれない。
「ではこの後さっそく使わせてもらおう。
いい仕事だった、夜も遅いから部屋に戻れ」
「えッ!?もう戻らなきゃダメ!!?」
ロインの反応に早くも前言を撤回したくなったが、
こらえて優しく語りかける。
「貴様があの部屋を調べてくれているおかげで
余はしっかりと休息を取れそうだ。
これからも頼むぞ?」
「任しといてよ姉ちゃん!! またあの部屋調べてくるねッ!!!」
そう言って飛び出したロインは2号室へと戻っていった。
その様子を見ていた亭主は
驚いた顔をする。
「……ずいぶんと扱いに手慣れてるな嬢ちゃん」
「そうならなければあやつはあっという間に暴走するのでな」
ミザリーはため息交じりに笑って答えたのだった。
ミザリー「あったかい湯を全身に……。むふっ」
ロイン「うおおーーッ姉ちゃんのためにィッ!!」