凍てつく世界
拳が体の側を掠るたびに、酷く冷たい冷気が通り過ぎる。
最初の一撃をアバティに許してしまったミザリーは、
反撃に転じることが出来ずに躱すだけで精いっぱいだった。
いや、よしんば反撃に転じていたとしても
ズィーリエが触れただけで手や足を凍らされてしまった事を
考えるに、策も無しに突っ込めば覆轍を踏むだけだろう。
「ほらほらほらほらほら!!どうしたよどうしたんだよぉ~!!
一方的に殴られて悔しくないのかいィ~?
全部躱してるからってねぇ、いつまでも避けられるわけでもあるまいにっ!!」
「くぅ……っ!!」
実際アバティの言う通り、掠る回数が段々と増えてきている。
と言うよりも、今までの拳はアバティがわざと狙いを外して
放ってきているように思える。
こちらをからかっているのだろう、正直言って腹立たしい。
しかしここは船の甲板、瞬時に人体を凍らせるほどの冷気を
どうにか出来るような熱を持つ物もない。
「おほほほほ~!こんなへなちょろパンチを躱すだけしかできないだなんて、
魔王の称号が泣くんじゃなくってぇ~!?
反撃のひとつもしてみろってんだよオラぁーっ!!」
「こ、の……言わせておけば……っ!!」
魔王の名を踏みにじられては黙ってもいられず、
もしや服の上からならば拳も届くのではないかと
胸のあたり目掛けて渾身の一撃を見舞う。
更には戦闘用籠手越しにもなっているのならば
一撃ぐらいは叩き込めるのでは、そんな期待も同時に考えたのだが──
手に伝わった衝撃は確かに人体を捉えた一撃だったが、
直後に感じたのは背筋が凍るような寒気と拳の痛みだった。
「うぁ……っ!!?」
「痛たたたぁっ……お嬢ちゃん良いパンチ持ってるじゃないのよぉ~!!
た~だ~し~ぃ?代償は高くついたみたいだけど~♪」
拳を押さえながらミザリーは後退る、戦闘用籠手は真っ白に凍り付いており
無理に外そうとすれば張り付いている皮膚も、そのまま剥がれることになるだろう。
「あ~ららぁ~どうするのかなぁ~、
攻撃の要っぽい右手を凍らされちゃって。
もう一方の手でも攻撃してみますかい……?
右手は凍傷で済んでますけど、反対の手は芯まで凍らせて
粉々に砕いてみちゃったりしますかぁ……?」
「っ……!!」
喉まで出かかった悲鳴を寸での所で飲み込んだミザリーは、
キッとアバティを睨みつける。
せめてそうしていなければ、今にも膝を屈してしまいそうだった。
息を整える、思考を巡らせる。
服と籠手越しならば殴ることは出来たが、その代償が利き手の喪失。
おまけに、相手はさしたる傷を負った形跡すらない。
一撃を与えるために体を失っていては、アバティを倒すためだけに
一個小隊は犠牲になるだろう。
「アンタは今、〝俺っちを倒すために一個小隊は犠牲になる〟って……
思ってるだろ?」
「なっ……!?」
今の考え、口に出した覚えはない、はず……
知らぬうちに口から出ていた──
「信じる信じないは勝手なんだけどねぇ~。
俺ちゃん、相手の心を読むことが出来ちゃうのよ。
悪魔ってのはそんぐらい出来ないと、神様と
戦争なんて続けられないよねぇ~……うっひっひっひ!!」
なんだ、それは。そんなインチキがまかり通っていいのか。
魔王である自分にはそんな能力などないというのに。
つまり先ほどの一撃でさえも予見されていたということになる、
ズィーリエの不意打ちに近い攻撃にも対処できた理由が今わかってしまった。
どうやって戦えばいいというのだ、そんなやつ相手に。
「だからどうしたッてんだよォこの野郎ッ!!
てめェを凍らせてかき氷にでもなッてやがれッ!!」
「──ひぃうえぇぇぇぇぇ!!?」
アバティの体に飛び掛かる影が1つ──完全に不意を突いたらしく
アバティは酷く驚きながら飛び掛かって来た相手、ロインを振りほどこうと
大暴れしていた。
「なっ、おっ、ロイン!?お前先ほどまで呆けていたんじゃ……!?」
「姉ちゃんが超のつく危機に陥ッてるのにボォッとしてた俺を
ぶん殴ッて叩き起こしたよ!!」
「お前は呆けている自分を殴って来たというのか……?
いったいどんな構造をしているのだ、お前の精神と体は……」
余りにも想定外の返事に、しかしロインの顔が苦痛に染まるのを見て
緊張感を取り戻したミザリーは叫んでいた。
「すぐに離れるんだロイン!!お前も自分で言っていたから
気付いているだろうが、そいつは触れたものを凍らせてしまうっ!!
そのままでいたら凍らされて、下手をすれば砕かれてしまうぞっ!!」
「確かにそうだね……!!さッさと離れて──」
ロインがこちらを見た時に、その瞳が肉食獣が獲物を見つけたように
小さくなった。
いったい何を見ているのか、とその視線の先を見つめてみると、
白く凍り付いた右手が目に入った。
不味い、慌てて背中に手を隠すものの時すでに遅し。
白く凍り付いていくのも気にかけることなく、
ロインはアバティに目線を──隠し切れないほどの殺意を向けた。
「てめェ──姉ちゃんに何した?」
「ひえ、ぁ……びっくりしちまったが、何だ。
ごく普通の人間ちゃんじゃないのよぉ~。
そのまま凍りついちゃ──」
「答えられねェほどのことをしたんだな」
その言葉が早かっただろうか、それともロインの拳が
アバティの顔に突き刺さるのが早かっただろうか。
顔面の形がそのまま変形するのではないかと思うほど
鋭く頬を殴りぬくと、その手で更に3回、5回と殴り続ける。
白く凍り付いた手にアバティの口から零れた血が飛び散ると、
付いた場所から湯気が立ち上り、凍り付いた場所が元の肌の色に戻った。
アバティの血は凍り付いた場所を即座に解凍する効果がある、
そのことに気が付けたのはまさに僥倖としか言いようがなかった。
ロインの捨て身の攻撃が無ければ──
「あべぇっ!!も、もうやめっ……」
「うるせェてめェッ!!泣いて謝るまで許してやらねェ!!」
「うひ、ぃ……!!もう泣いてるぅっ……もう止めて──」
「止めるわけねェだろうがよォッ!!姉ちゃんを傷つけた事を
後悔しながらくたばりやがれッ!!!」
……あれは捨て身というより、怒りで我を忘れていると言った方が
正しいのかもしれない。