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成瀬慎
渡された紙にはそう記されていた。
急いで書いたせいで流れた文字は、少し端が掠れている。
その下には連絡先と思われるアルファベットと数字の羅列。
帰宅後、手洗いうがいをしてからすぐに自室に籠った私は、さっき渡されたばかりの紙と睨めっこしていた。
わざわざ渡してきたからには、連絡してほしいということで合っているだろうか。
分かりきったことなのにこんなにもぐるぐると考えてしまうのは、私が初めて悩んでいるからだろう。
こういった類の紙きれを渡されるのは過去にも経験があり、全く初めてではない。
例えば学校帰りの出待ちだったり、電車やバスを待っている時だったり、休日街中で遊んでいる時、あとはたまにバイト中にも渡されたことがあった。
だけれど結局どの連絡先にも、私から連絡することは一度も無かった。
カフェのお客さんを除いて、私からしてみればまったく知らない人ばかりで特に言葉を交わしたいとも思わなかったから。
中には直接声をかけてきてしつこくする人達もいたけれど、総じて無視を決め込んでいた。
けれど今回は違う。
あの人は、今までの人たちとは何か違う気がして、悩んでいた。
それに、紗梨以外の人とメッセージのやり取りなんてバイト関係以外ではほとんどした記憶がなくて、なんと送ったらいいかもわからない。
頭の中で、ドラックストアでの彼の姿を思い返してみる。
たいして良くも知らない人たちに名前を呼ばれることが気持ち悪くて嫌で、今までは一度も教えたことなどなかった。
でも何故か彼には伝えたくなった。
全く不快感を抱くことのない、彼には。
そして最初に彼と目が合った時のことを思い浮かべる。
あの痺れるような、不思議な感覚。
思い浮かべただけなのに、あの時に似た感覚が、ピリピリと胸の裡を焦がした。
しばらく考えた後ゆっくりと、だけれど自然に指が動いていた。
『先程はありがとうございました、プリンご馳走様です』
あえて名乗らず、短く簡潔に綴った文章を紙の送り主に送信した。
『先程はありがとうございました、プリンご馳走様です』
『エマさんかな?連絡くれると思ってなかったから、今凄く嬉しい。こちらこそありがとうございます』
『ずっと気になってたんですけど、どうして敬語なんですか?それと、さんづけは変な感じがして嫌です』
『いきなりタメ口じゃ馴れ馴れしい気がして。敬語辞めたほうがいいですか?』
『はい、是非そうして欲しいです』
『じゃあやめます。さんが嫌ならエマちゃんて呼ぶね、僕のことは好きに呼んで』
『さんづけよりだいぶいいです。私は成瀬さんて呼びますね』
『エマってどういう字を書くの?』
『瑛茉って書きます』
『可愛らしい字を書くんだね。瑛茉ちゃんの雰囲気にぴったり』
紗梨と槙村さん以外の名前がメッセージ履歴に残るのは、とても新鮮だった。
昨日あの後、夕飯直前までメッセージのやり取りが続き、色々なことを話した。
成瀬さんは私の学校最寄りの駅周辺に住んでいて、あのドラックストアには良く行くらしい。
因みにエデンと成瀬さんの大学は二駅先にある。
今大学二年生で、歳は私の三つ上だと言っていた。
なんだかそわそわ落ち着かなくて、特に用もないのにメッセージの受信履歴をいちいち確認してしまう。
珍しいから、そうただ珍しいから見ちゃうだけ。
ちょっぴり浮足立っている自分の心を落ち着かせる。
今日は数日ぶりに雨の降らない予報だった。
かと言って晴れているわけでもなく、空は一面雲に覆われている。
湿気も雨の日よりは幾分ましだけれど、じっとりと相変わらずだった。
傘を差さずに歩けるだけでだいぶ楽ではあるけれど。
「何かいいことでもあったの?」
お弁当を食べる手を止めて目の前の彼女はじっと私を見てくる。
「どうして?」
「なんだかいつもより楽しそうだから」
やっぱり親友、勘が鋭い。
けれど少し照れくさいので、何があったわけではないけれど、まだ内緒にしておくことにする。
「そう?いつも通りだよ」
「それじゃ私の気のせいかな?」
軽く首を傾げる仕草を見せてから、紗梨は食事を再開させた。
綺麗に焼きあがっている卵焼きを口に運んでいる。
お弁当は毎日自分で作っているらしい。
家でほとんど料理なんてしない私には、到底真似できない。
食事の手伝いをしてはいるものの、本当に手伝い程度で料理は母が作っている為、私の調理経験は調理の授業くらいでしかない。
私が通うこの学校は元々が家政科、所謂嫁入り準備学校だったこともあり、一般的な家庭科の授業の他に調理・被服の授業が選択できる。
私はとりあえず自分だけでも生活ができるように料理は作れたほうがいいと思い、調理を選択している。
母が用意してくれたお弁当を食べながら、今度休みの日にでも家で料理練習してみようかな、と小さく決意した。
「それにしても本当に残念、昨日と天気入れ替えてほしい」
「そしたらさくらんぼ食べられたもんね」
少しクスッとしながらそう返す。
今日は二人ともバイトの日。
こんな時期だけれど意外にも客足は多く、雨の匂いを連れて人がやってくる。
「あ、プリン持ってくるなんて珍しい」
お弁当を食べ終え、鞄からプリンを取り出したところで、早速突っ込まれてしまう。
甘いものは好きだけれど、母がいつもお弁当と一緒にフルーツを持たせてくれるので、昼食時には基本他のデザートを持ってこない。
「なんとなく、食べたくなったの」
本当は昨日貰った例のプリンだけれど、そう言ってごまかす。
家で食べようかとも思ったけれど、おなか一杯夕飯を食べてしまったので、今日のお昼に持っていくことにしたのだ。
パッケージを開け、一口すくって口に入れると、ふわっと口内全体に甘さが広がる。
『また、お店に行きますね』
昨日の言葉をふと思い出す。
今日、あの人は来るだろうか。
一口、また一口と口に入れながらそんなことを考えてしまう。
つるん、と喉元を流れていくプリンは今まで食べた中で一番甘く感じた。




