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玄関を出るとしっとりとした空気が肌にまとわりついた。
空は鉛色の雲に覆われている。
梅雨入りしておよそ半月。
すっかりこの空模様には慣れてしまった。
今は雨は降っていないけれど、最近は天気予報に関わらず、毎日折り畳みの傘を持ち歩いている。
学校に着くころにはまるで生乾きのまま放置したような、ぺったりとした髪の毛になっていた。
元々かかっているウエーブも、いつもより若干巻きが強めに見える。
先程校門前で会った紗梨も、どこか浮かない顔だ。
いつもにこにこしていることが多いけれど、今は指の先で髪の毛をいじりながら溜息を吐いている。
「早く梅雨明けてほしいね」
「本当に。湿気多くて髪の毛セットしてもすぐ崩れちゃう」
「私はこのぺたぺた感が嫌、と言うか雨が嫌」
左の腕を右手でぺたぺたしながら言う私。
「一日くらいならいいけど、こう毎日どんよりした空だと気も滅入るよね」
と、綺麗なストレートの髪の毛を指先でいじりながら、女子あるあるの悩みを吐く紗梨。
どうやら今日も整えてきたはずの前髪があっと言う間に崩れてしまったらしい。
さっき校門前で挨拶する前も、前髪を触りながらがっかりした顔をしていた。
対する私もうなじに髪が張り付く感触が嫌で、基本的にバイト以外では下ろしている髪を、最近はまとめている。
うねりも強いし。
校内に入ると髪の毛をセットし直す生徒たちがちらほら目に入った。
鏡の設置してあるトイレは少し人があふれている。
トイレ内にある手洗い場が自動水栓式になっていて、プラグを差し替えればヘアアイロンも使えるので、梅雨じゃなくても朝のトイレは混みがちだ。
中には個室内に入って暖房便座のプラグと差し替えて、ヘアアイロンを使用する人もいるし、通学中に髪型が崩れるのを見越して、最初からヘアセットを登校してからする人もいる。
コテを持ってトイレに入っていった子の髪が、出てきた時には綺麗な巻き髪に…なんてザラだ。
紗梨も毎日前髪用の小さめのヘアアイロンを持ち歩いている。
「私も少し直してくるね」
「わかった、先行ってるね」
トイレのヘアセットの列に並ぶ紗梨と一旦別れ、一人教室に向かう。
ヘアセットのほうに人が集中している分、教室内にいる生徒はまばらだった。
そっと斜めに流した前髪を撫でる。
セットするのが面倒だからと、ずっと前髪を伸ばし続けていて正解だったなと、毎朝のトイレの人だかりを見て思う。
流した前髪が理想の形になるようにピンでとめているので、崩れていないか一応持ち歩いている手鏡でさっとチェックする。
ピンを綺麗に止めなおしてから窓の外をぼんやり眺めていると、授業が始まる頃にはパラパラと小粒の雨が降り出した。
隣を歩く親友は、残念そうに傘越しに空を見上げる。
あれから小粒だった雨は時間とともに粒が大きくなり、午後には本降りとなった。
「雨、止まなかったね」
「残念だけど、また今度だね」
今日は二人ともシフトは入っておらず、雨さえ止めば放課後は今話題になっているスイーツカフェに行こうと話していた。
季節のフルーツを使ったスイーツが売りで、今は丁度さくらんぼフェアをやっているらしい。
広告で目にしたさくらんぼパフェやチェリーパイを楽しみにしていたのに、残念。
もう少し弱い雨であれば、雨天決行もあり得たけれど、ざあっと降る雨を前に、日を改めることにした。
雨が続くと、放課後の寄り道が減ってしまうのが悲しい。
私はバス、紗梨は電車なので、学校最寄りの駅に着いてから少しして別れた。
紗梨の後ろ姿が見えなくなってすぐにバス停に向かって歩き出す。
携帯で時間を確認すると、自分が乗るバスの時間まではまだ少し余裕がありそうだ。
バス停に着く手前でドラックストアが目に入り、自分のいつも使っているボディクリームが切れそうだったことを思い出した。
まだ時間に余裕もあるし、ちょうどバス停の目の前にあるし、寄っていこう。
少しだけ来た道を戻って中に入ると、雨のせいか入口がだいぶ滑りやすくなっていた。
通路脇に立てられた注意書きを横切り、足元に気を付けて奥に進む。
目当ての棚に進むと、いつも使っているものと同じパッケージをすぐに見つけた。
クリームを手に取ってから、気になる箇所をなんとなく、ぐるっと見て回る。
特に目的も無いのに、こうして入った店内を見て回ってしまうのはやっぱり癖だ。
化粧品やスイーツなど、見ているだけでも少し楽しい。
目に留まった香りの良さそうなリップクリームを一つ手に取り、時間を確認してそのままレジに並ぶ。
パッケージも可愛かったので、小さな衝動買い。
クリームと同じく生活消耗品なので、良しとする。
在庫処分の特別セールで安くなっていたプリンも気になったけれど、夕飯を用意してくれている母の顔を思い浮かべて辞めた。
このままバス停に並べば、少し待ってからいい具合にバスが到着しそう。
購入した商品を詰めた手持ち袋を提げて、バスターミナルを確認しながらお店を出ようとしたその時。
いきなり自分の体が傾いた。
少し離れた場所を見ていたせいで足元への注意がおろそかになり、見事に濡れた床で滑ったらしい。
すぐそばに注意書きがされているというのに…恥ずかしい。
それに駅前ということもあって、通行人が多い場所だ。
ズッ、と上手く地を踏めなかった足が滑っていく。
痛みよりもこの先の羞恥を思い浮かべながら、今にも倒れそうになったその時。
「っと、セーフ…?」
背面にちょっとした衝撃と温もり。
誰かが既の所で身体を支えてくれたらしく、私は倒れずに済んだらしい。
「大丈夫ですか?」
斜め後方から聞かれ、この状況が転ぶのと同じくらい恥ずかしいということに気づいて、急いで体勢を整える。
「っすみません!ありがとうございます」
「あれ、お姉さん…?」
「え?あ…」
向き直ってお礼を伝えると、そこに立っていたのは例の男子学生だった。
知人に醜態を晒してしまったと思うと、尚更恥ずかしくなってしまう。
直接触れてはいないけれど、顔が羞恥で火照っているのがわかる。
「怪我、無くて良かったです」
「こちらこそ、本当に恥ずかしいところをお見せしてしまって…」
恥ずかしくてその先何も言えずにいると、彼のほうから話題を振ってくれた。
「家、この辺りなんですか?」
「いえ、学校がここから近いんです」
「そうなんですね。あ、あの甘いものってお好きですか?」
「?はい、好きですけど…」
なんとなくどぎまぎした空気感に、以前交わしたレジ前でのやり取りを思い出してしまう。
「良かったらこれ、貰ってください」
そう言って渡されたのはプリンだった。
気になって、でも見るだけでとどまった特価のプリン。
「え、助けていただいた上に悪いです」
「一人暮らしなのに安いからってつい買いすぎちゃって。貰ってくれると嬉しいです」
いくつ買ったかは知らないけれど、たくさんあるのなら確かに一人で短期間で食べきるのは少し大変かもしれない。
「なら、ありがたくいただきますね」
自分の持つ袋の中にプリンを押し込んで、ついでに時間も確認する。
もうすぐに、バスが来そうだ。
「私、バスの時間なのでこれで失礼しますね。今日は本当にありがとうございました」
もう一度お礼を言って、改めてバス停へと足を向ける。
「あの!名前!教えてもらっても、いいですか?」
「…え?」
突然の申し出に驚いて振り返ると、目の前の彼は顔を赤く染めていた。
「もちろん、嫌じゃなかったらですけど…」
あまりにも真っ赤なので、こちらまで釣られてしまいそうだった。
羞恥による火照りが、さっきようやく冷めたところだというのに。
「…エマ、瑛茉って言います」
答えると、目の前の彼はほっとしたような、驚いたような表情を浮かべていた。
「エマ、さん」
私の名前を小さく復唱してすぐ、さっと胸元から出したペンとメモ用紙に、手早く何か書き込んでいく。
それを勢いよく渡され、反射的に受け取ってしまった。
「要らないと思うけど、これ僕の名前と連絡先です」
ちらり、と渡された紙を見る。
走り書きではあったけれど、流れるような文字が綺麗だと思った。
「名前教えてくれてありがとうございました。また、お店に行きますね」
青年の顔はまだほんのりと赤い。
ちらりと視線を外した先に、自分が乗るべきバスがターミナルに入ってくるのが見えた。
「あの、バスが来たのでまた」
軽く会釈をしてバス停の方へ向き直ると、今度は転ばないように足元に注意して足早に向かう。
ギリギリだったものの座席は空いていて、バスの真ん中くらいの位置にある二人掛けの座席に詰めて座った。
発車して直ぐ、窓に寄りかかる。
ほんの数分のことだったはずなのに、頭の理解が追い着かない。
やはりいつの間にか彼の火照りが伝染していたらしく、窓に触れる部分がひんやりと気持ちよかった。