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 今日も例の学生が来ていた。

初めて姿を見たあの日から、週に一・二度は店に訪れるようになった。

カウンターを出て右側の壁際奥から二番目。

そこがすっかり彼の特等席になりつつある。

先程ホールに出た時にちらりと見たら、いつものように教材を広げ、コーヒーを啜っていた。


「今日もあの人来てるね」

カウンター裏で洗い終わったばかりのカップを拭いていると、ホールから戻ってきた紗梨にそう話しかけられた。

あの人、とはもちろん件の学生のことだ。

「余程気に入ってくれたんだね」

私たちみたいに、と最後に付け足す。


彼は大体同じ曜日に来て、課題が片付き次第帰っていくようだった。

実際にここの静かで落ち着いた雰囲気が、一人で課題などを片付けるのに丁度いいのだろう。

学生客が少ないことの他に、家族連れや小さな子供連れのお客さんが滅多に来ることがないので、ファミレス店や往来にあるカフェに比べるとだいぶ静かな空間になっている。

そういうことも理由に、店内には四人掛けテーブルが窓際に二卓のみしか配置されていない。

元々店内もそんなに広いわけではないし。

他にやることがないのか、紗梨も隣でお皿を一緒に拭き始めた。


「ねえ、瑛茉は高校卒業した後のこと考えてる?」

「どうしたの?急に」

「んー、最近あの人が来る度に考えちゃうんだよね。私たちもそろそろ学校で進路相談とか始まるだろうし」

あの人、基例の彼は槙村さんによると近くの有名大学の学生らしい。

定期的に訪れてくれる学生客は本当に珍しいので、興味を持った槙村さんが何度目かの来店の際話しかけていた。

私はあれから何となく気恥ずかしく、彼のテーブルを避けている。

他の業務はこなしているし、決して職務放棄ではない。


「実は何も、というかよくわからない」

「よくわからないって何それ。でもちょっと安心した、私も実のところ考えてないの」

苦笑交じりに返すと、紗梨はふふっと笑いながらそう言った。

その言葉に私も少し安心。

私たちは今高校二年生、短い三年間を考えると、今学年中にはほとんど進路を決めることになるだろう。

高校卒業後、進学してあの学生みたいに日々講義を受け、課題をこなしている自分を想像できないし、このカフェ以外の場所で例えばスーツなどを着て、社会人として仕事に打ち込んでいる自分も想像できない。


あの優しい両親は、私にどんな未来を望むのだろうか。

きっと好きなように選んでいいとは言ってくれるだろう。

けれど、私は。

何かしらの職に就き、毎日集合住宅の一室に一人帰っていく自分をなんとなく思い浮かべてみる。

それになんだか少し、違和感。

やっぱり先のことなど、まだ、わからない。


「いらっしゃいませ」

最後のカップを丁寧に拭いて棚に戻した時、丁度カランと扉の開く音がした。




 「お会計は千二百円です」

食器を紗梨と拭いていた時から二時間。

今日の彼のお会計は私が担当することになった。

たまたま手が空いていたのが私だけで、さすがに避けるわけにはいかなかった。

きちんとお給料を貰っているお仕事だし。

少し気恥ずかしさはあったものの、努めて冷静に対応する。

お金を預かり、お釣りとレシートを手渡したところであの、と彼が口を開いた。


「いつも美味しいコーヒーとサンドウィッチご馳走様です」

「ありがとうございます、当店のメニューは全て店長のオリジナルレシピになります。大変喜ぶと思いますので後ほどそうお伝えしておきますね」

突然話しかけられてびっくりしたものの、店員としてしっかりと対応する。

たまに感想を言って帰られる方もいるので、一つのテンプレートみたいなものだ。


「…お姉さんは作ったりはしないんですか?」

「ドリンクは作ることもあります。お食事はお手伝い程度ですが…」

いきなりの質問に少しどぎまぎしてしまう。

どこも、おかしくはないだろうか。

「そう、なんだ。えっと、あの…」

「?」


心なしか目の前の青年も、同じくどぎまぎしている、ような気がする。

不思議に思いじっと顔を見つめてしまう。

今まで避けていたせいもあり、あの日以来初めて彼の顔をしっかりと見た。

座っていた時はよくわからなかったけれど、こうして近くで立ち姿を目にすると結構背丈があることがわかる。

身体つきも案外しっかりとしているようだった。

そしてあの、ピリピリと微弱ながらに走る電流。


「いえ、すみません。お仕事頑張ってください」

「ありがとう、ございます」

なにかしら言葉が続くものだと思って待っていたけれど、そう言って彼は会話を終わらせた。

そこでまじまじと目の前の青年を見ていたことがとても恥ずかしくなって、尻すぼみになりながらお礼を言い、目をそらしてしまった。

彼はもう一度ご馳走様と言うと、少し足早にお店を去っていった。


 深い群青に染まった空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいた。

丸い、と言っても満月ではなくもう少しで満ちそうな、そんな月だった。

十三夜月と言うらしい。

最近古典の先生が授業中に月の名称について話していて、なんとなく覚えてしまった。

満月の次に美しいとされる月。


「あの彼と一体何を話していたの?」

いつものように紗梨と二人並んで帰路に就くと、予想していた通りそう聞かれた。

「いつもご馳走様ですって、それだけだよ」

「えー、本当にそれだけ?レジにいるのが少し長く感じたからてっきり何か他に話しているのかなって思ったのに」

さすが紗梨、鋭い。

と言っても、本当に大した話はしていない。

彼の言葉は、あの後しっかりと槙村さんに伝えた。

槙村さんは私の伝言を聞くと、満足気に当たり前よと言って笑っていた。


「あとは軽食とか、作っているのか聞かれただけ」

「ふ~ん。でもまあ、瑛茉が男の人に話しかけられるのはいつものことか」

「それは紗梨もでしょ」

ふふっと笑いながら返す。

明るくて可愛い彼女はカフェに限らず、よく町で声をかけられている。

「でも何か珍しいものを見られた気持ちになったよ。瑛茉もともとあまり話さないし、男の人なんて余計に」

「まあ、仕事だし…」

それもそうね、と言いながら紗梨は大きく一歩前に出る。

綺麗に伸びた髪がふわりとなびく。


「でもなんだか、彼が帰ったあといつもと違って見えたから」

振り向いてこちらを見ながら言う紗梨はなんだか楽しそうだった。

「気のせいだよ」

そう気のせい。

いつも通りだった、つもり。

ほんとかな~?と言いながら紗梨はまだ楽しそうだった。


確かに私は元々口数が少なく、両親や紗梨以外とはあまり喋らない。

男の人となんて余計で、必要最低限しか基本会話しない。

正直、不快感を与えられたことしかないからだ。

この人形のような容姿のせいでたくさんの実害のある悩みがあった。

そういったことを知っている付き合いの長い紗梨だからこそ、こうして色々な意味で気にしてくれているのだろう。


「あの学生さんが注文以外で、自分からスタッフに声をかけるのも初めて見たけど」

「たまたま私だったんだよ」

「たまたまねえ…」

う~ん、と少し納得できない様子で空を見上げながら、隣の親友は歩いている。

例の彼に、何か特別な感情を持っているわけではない。

けれど。

いつも男の人に対して抱く不快感は、不思議と彼に対しては感じたことがないことに気が付いた。


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