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回顧ージュン2

 自室のテーブルの上に置いてある真っ赤な果実を、ベッドに寝ころびながら眺める。

あの堕天使が言っていたプレゼントと言うのは、気づいたら手の中にあったあれのことだろう。

そんな怪しくて不気味なもの、そのまま森で捨ててくれば良かったのに、どうしてか持ち帰ってきてしまっていた。


こんなもの、早く誰の目にも触れぬところへ捨ててしまった方がいい、そう思うのに血のような赤からは何故か目が離せない。

あの堕天使の話は本当だろうか。


『禁じられているだけで、できないわけじゃない』

天使は皆人間を害す力を持っていると言っていた。

そんなこと、今までずっと聞いたことがない。

でもあの堕天使は、持って生まれた力で人間を殺し、堕天使になったと言う。

腕を持ち上げ、(かざ)した掌を見る。

もしあの話が本当ならばこの手には自分の知らない力が秘められている、とそこまで考えて我に返った。

こんなにあいつの言っていたことをぐるぐると考えているなんて、思惑通りではないのか。

もう、考えるのを辞めよう。

一度寝てしまえば思考もさっぱりとするだろう。


すぐに布団に潜り込み、スッと目を綴じる。

疲れていたこともあり、すぐに眠りに沈んでいくような感覚がする。

眠りに落ちていく寸前に、人間の男と並んで座るエマの姿が過ぎった。

ああそうだ、次に会った時にエマにはきつく忠告しておかないと。

胸の内に黒い感情が広がるのを感じながら、そのまま眠りに沈んで行った。




目が覚めると、とてつもない喉の渇きを感じた。

基本的に寝起きは喉が渇いているものだけれど、いつもの比じゃないくらいに喉がカラカラだった。

そしていつもはない甘い香りが部屋中を覆っていることにもすぐに気づく。

とてつもなく強い香りは、どうやら昨日の真っ赤な果実が放っているようだった。

甘い香りに引き寄せられるように、果実の置かれたテーブルの前に立つ。


今、この果実に触れてはいけない。

頭の中で警告音が鳴っているのに、手が果実へと引き寄せられていく。

赤く甘い香りを放つ熟れた果実は、この上なく魅力的に見えた。

カラカラの身体が目の前の果実を欲している。

伸ばされた腕は、遂に果実を掴んだ。


放たれる香りは更に強まる。

きっと食べたらいけないと、わかっているのに。

真っ赤な果実が放つ引力に、抗えなかった。

顔の前まで持ってきた果実に、思い切り齧りつく。

喉を潤したその感覚が恐ろしいほどに心地よく、気づけば貪り食っていた。

真っ赤な果汁が顎先から喉へ、掌から肘へ滴る。

果実によって潤いに満ちた身体は、激しく昂っていた。


身体は満たされているのに足りない、何かが足りない、虚ろな部分を埋めてしまいたい。

カッと開いた目の奥に、陽に照らされた亜麻色の髪が輝いた。

そうだ、エマ、俺は、エマが欲しい。

エマさえ手に入ればこの虚ろは満たされる。

でもその前に、エマをあの人間から引きはがさなければ。


「ああ、エマ、エマ、」

昂った身の内を、真っ黒な感情が覆い尽くす。

奥深くにまだ残っていた自我が、目を覚ませと叫びながら(もが)いている。

けれどもう、引き返せなかった。

僅かな自我を置いてけぼりにして、身体は勝手に動く。

荒々しく部屋を出たあと、いつの間にか俺はマリエルに、エマが罪を犯したことを告げていた。




密告してから数日後、エマが牢に入れられたと報告を受け、その三日後に刑が施行されたことを聞いた。

裁きの門に堕とされたエマは、いなくなった。

いなくなってしまったらどうしようもないのに、何故初めに密告してしまったのかはわからない。

喪失感と共に小さな高揚を抱える自分が恐ろしかった。


エマが俺の元に来ることは無くなったが、あの人間の男の元に行くこともなくなった。

俺ではなく、人間の男に心を奪われたエマが悪いのだ、そうだ、だから罰を与えた。

けれどそうしてエマを失うこととなったのはやはり全て、あの人間が悪い。


『あの男、消しちゃえば?』

記憶の中の赤い瞳が妖しく揺れる。

ああそうだよな、その通りだよな、あの男を、消してしまおう。

身の内を覆う黒い感情の霧は時が経つにつれ、重く分厚くなっていく。

最初はよく聞こえた元の自我の声も、ほとんど聞こえなくなっていた。

あの聖域の近くに、あの人間はいるはずだ。


思い立ってすぐに、エマが人間と逢引きしていた聖域の近くへ向かう。

人間がたくさん集まっている場所を見つけ、近くを飛びながらあの日見た男の顔を探す。

似たような顔ばかり集まっていてなかなか見つけられなかったからか、見つけた時は思わず口の端を釣り上げてしまった。


「やっと見つけた」

人間たちの背丈ほどの高さの所で留まり、その頭上に手を翳す。

これほど近くにいるのに、誰も俺に気付かないことが可笑しかった。

力の使い方はわからないものの、天啓の力を使う時と同様に集中し、掌に力を込める。

全ての天使が持っている力なら、必ず使える。


更に集中すると、いつも使う聖力とは質の違う力を、手の中に感じた。

大分小さく奥に押しやられていた自我が、最後の警告だとばかりに騒ぎ立てる。

今やろうとしていることを遂げれば、もう本当に後戻りはできない。

最後に例の人間の顔を見ると、目が合った。そういえばこの男には姿が見えていて当然だったな。


「天使様…?」

間抜けな顔をして呟いたのを聞いて、思わず鼻で嗤う。

俺の中の自我は、今までで一番大きな声で叫んだ。

「じゃあ、な」

掌に込めた力を一気に開放する。


すると一瞬だけ辺りは暗くなり、稲妻のようなものが(ほとばし)った。

何度か稲妻のようなものが迸った後、辺りは元の明るさを取り戻す。

先程まで目の前にいた多くの人間は、例の男を含め、全員地に伏していた。

外傷はないようだが、顔を近づけてみると息をしていない。

幾程もなく、各々の魂が浮かび上がり、直に迎えが来るだろう。

あんなに叫んでいた自我の声は、もう一切聞こえなくなった。


俺は遂に、やってしまった。


「おおー、これはまた派手にやったね」

声のしたほうを見ると、先日会った堕天使がいた。

血の色の瞳を細め、ニヒルな笑みを浮かべている。

「どうやらプレゼントは役に立ったようだね」

何と答えていいかわからず、無言でいると例のごとく堕天使は勝手に喋り続ける。

「お兄さん、これで俺たちお友達だねえ」

片翼のみの翼を器用に動かし、距離を詰めてくる。


「仲間の印でもある烙印はさ、後で押してあげるからさ、早く裁きの門を通っておいでよ」

「は?」

ニヒルな笑みを張り付けたまま、意味の分からないことを言う目の前の堕天使に、初めて言葉を返した。

「お兄さんがやったことは大罪なんだよ、わかってるでしょ?このことが伝わり次第君は投獄されて裁かれる。その前にこっそり門を通ってきなって言ってるの」

「何故知られる前に通る必要がある。どちらにせよ裁きの門に堕ちるのは同じじゃないか」

大罪だということも、その後身に降りかかることも、わかっている。

わかった上で行動に起こしたのだ。


「わかってないな、君は。他の天使の前で堕天使になったら、君はすぐに消されるよ」

大仰に身振りを加えながら、堕天使は言う。

訳が分からず、言葉を待った。

「堕天使はそういない大罪人だよ?天使は裁きの門以外誰にも消せないけれど、堕天使になったらね、貴き始まりの天使たちには消せるんだ。だから刑を施行して堕天使になった後、直ぐに消されることになる」

俺はうまく逃げたけどさ、と乾いた声で笑う。

神様は愛しい天使たちの魂を奪うようなものは作らなかったけれど、間接的に大罪人の魂を奪う仕組みを残していた。

嘲るように言って、鋭い眼差しで俺を射抜く。


「だから早く行きなよ、門の場所はわかるだろう?」

手を振り払うような仕草で俺を促す。

あの赤い瞳の鋭い眼差しには、逆らえない力があった。

最後に一度、地に伏してピクリとも動かなくなった人間たちに一瞥(いちべつ)をくれてから、天界に向かって飛び去った。




誰の目にもつかないように天界の北端にある門に向かい、言われたとおり、俺は一人で門を通った。

門を通り堕ちてすぐに、羽が抜けていくのを感じる。

背面で堕ちたわけではない俺には、もがれていく翼の行方は見えないけれど、片方だけを失っていくのがわかった。

片翼が全て無くなりだいぶ経った頃に、地上が見えてくる。

片翼での飛行に慣れない俺は、グラグラと揺れた。

やっと降り立ったところには、ずっと見張っていたかのように、都合よくあの堕天使がいた。


「ようこそ兄弟」

と言いながら広げた手には焼き鏝を持っていた。

「咎の証である烙印だけはちゃんと押さなきゃいけない決まりでね」

と言うと、衣服の上から思い切り焼き鏝を押し付けてくる。

叫びながらも痛みに耐えると、堕天使はこれで本当に仲間だ、と言った。

「今の自分を確認してごらん」


促されるがままに、近くに流れる川に姿を映して確認すると、髪の色も瞳の色も、すっかりと変わってしまっていた。

漆黒の髪に血のような赤い瞳、背中には片翼の真っ黒な翼。

自分が自分で無くなった姿に驚くと同時に、じわじわと実感が湧いてくる。

現に先程焼かれたばかりの腹の痛みは、これが夢ではないことを訴えている。

衣服が擦れる痛みに耐えきれず、腹回りを思いっきり引き裂く。

身に纏っていた衣も、いつの間にか真っ黒に染まっていた。




堕天使の仕事は人間を(そそのか)し、身の内の欲望を掻き立てることだった。

金品を欲する者は他者を攻撃し盗みなどを働き、異性が欲しいと欲する者は良くも悪くも積極的に行動し、どんな手を使ってでも手に入れようと躍起になる。

欲望の内容によっては間接的に人間を殺めることもある。

堕天使は、人間の歪んだ欲望を食らって生きるらしく、俺は毎日のように食べていた果実を、天使を辞めてから一切食べなくなった。

他にも人間相手だけではなく、俺の時のように天使相手にも甘言を吐き、誘惑することもあるようだった。


天使への誘いには必ずあの真っ赤な果実が用いられる。

俺はまだ一人も天使には会っていないが、俺を堕天使へと導いた堕天使が教えてくれた。

あの実は禁断の果実と呼ばれているらしい。

あの果実を食べてから、秘めていたものが爆発し、歯止めが利かなくなった。


エマが欲しくて欲しくて、でも手に入らないせいで身体は渇いてどうしようもなく、潤いを求めるようにいなくなったエマを求めた。

堕天使としての生活に慣れ、エマのいない渇きにもだいぶ慣れた頃、俺は久しぶりに全身が昂るのを感じた。

いつの間にか慣れた片翼のみの飛行で、歪んだ欲望を持つ人間を物色している時だった。


記憶の中の幼体期のエマの姿と、瓜二つの人間の子供を見つけた。

すぐさま傍に寄ってみると、全てがエマそのものだった。

けれど、目の前にいるのに、俺の姿は見えないらしい。

もう俺の知っているエマではないのかもしれないけれど、そんなのはどうでもよかった。

魂が消滅したら、もうこの世を巡れないはずなのに何故ここにいるのか、と言うこともどうでもよかった。


俺はただ、目の前にいるこのエマが欲しかった。

エマを見つけてから、俺は欲を持った人間を使って、間接的にエマを手に入れようとした。

成長し成体に近づいていくエマはより魅力的に見え、俺の欲も、俺が憑いた人間の欲もより掻き立てられるようになった。

何度も何度もエマを手に入れようと試みるも、いつもあと一歩のところで仕損じる。

まるで何かの力に弾かれているようだった。


エマを手に入れるのに都合のいい欲望の持ち主を見繕い、エマを狙う。

そんなことを繰り返すうちに、だんだんと何かが壊れていくような気がした。

エマが必死で抵抗する声が、俺の中で木霊する。

とうに失われたはずの自我が、最近になってまた奥底で(もが)き、叫び始めた。

やめろ、傷つけるなと、訴えてくる。

渇いた身体を潤すためにエマを求め続ける俺と反発し、暴れていた。

エマが欲しい、エマを苦しめることはやめるべきだ。

相反する二つの感情が身の内を駆け回り、制御しきれずに精神が疲弊する。


もう、全てを終わりにしたい、けれど終わらせ方がわからない。

堕天使となったこの身では、天界に戻ることすら許されない。

どうしても欲しくて、でもやめたくて。


苦しい、苦しい、苦しい。



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