回顧ージュン
エマとは生まれた頃を同じくした同期だった。
俺のほうが少し早くはあったが、誕生から成体になるまでの幼体期の教育を共に受けて育った。
同じく青い光に包まれて生まれた天啓の天使だったこともあり、とりわけ親しくしていた。
神官たちと過ごす教育の時間以外の自由時間を、俺とエマ、そしてエマと特に仲が良かったサリーと共に過ごしていた。
三人で宮殿内を走り回り、果実の樹のそばで並んで昼寝をし、たまに悪戯をしては怒られた。
ホールに並べてある果実をこっそり神官の服に入れて、気づかず服の中で果実を潰し慌てふためく様を見て大笑いしたり、きっと綺麗だからと丘にある花を全部毟っていのちの泉に浮かべてみたり。
今思えばくだらないことばかりで、覚えていないことのほうが多いくらいだけど、ただ漠然と楽しかった。
最初の頃は悪戯の言い出しっぺは決まって俺だったけれど、いつからかエマも率先してアイディアを言うようになる。
そしていつも俺とエマの企みを窘めながら、結局最後まで悪戯に手を貸すのがサリーだ。
良くも悪くも無邪気だったあの頃の思い出は眩しく、何百年経っても鮮やかなままだった。
『どうして人間は神様から離れて行ったのかな?』
『さあな。でも神様を傷つけた悪いやつだ』
『でもジュン、人間は慈しみ見守る対象よ。そんなこと言ったら駄目』
その日の教育を終え、丘の上の命の泉の傍で並んで話していた。
もう何度も暗唱させられた詩のことだ。
似たような会話はもう何度もしている。
怒って悲しくて傷ついたのに、人間を慈しめなんて、神様はいったい何を考えているんだろう。
そもそも神様の宿る生命樹のすぐそばでするような会話なのだろうか。
『でもきっと、神様は人間のことが大好きだったのよね』
エマはさっき摘んだ桃色の花を、くるくると指で回しながら言った。
『私は神様が、傷ついても行く末を見守ろうとした人間のことをよく知りたいわ』
『知りたいって、何言ってるんだよ』
『だって気にならないの?私とジュンは仕事上、いつか生きた人間と交流することになる。だからそれを利用して出会った人間とたくさんお話するの。そうして神様が大好きだった人間のことを知るの、面白いと思わない?』
そう言って笑ったエマは、悪だくみを提案するときと同じ顔をしていた。
面白い悪戯を思いついた時の顔だ。
『それって職権乱用…いやそうじゃなくて』
そんなのは良い案だとは思えない、だから思い直したほうがいい。
そう言い募ろうとした俺をサリーが遮った。
『いいじゃない、とっても楽しそうで。エマの言う知りたいことだけじゃなく、他の知らないことも知れる機会があるのよ。私は二人が羨ましいわ』
サリーは先程エマと一緒に摘んだ花を耳の上にかけている。
可憐な藤色の花はサリーによく似あっていた。
『サリー、流石は親友ね!あなたならわかってくれると思ってた!』
勢いよく抱きついたエマを優しく抱き留めたサリーは鼓舞の言葉を贈る。
『応援してるからもし、神様が大好きだった人間、のエマなりの答えが見つかったら教えてね』
『わかった!報告期待してて!』
将来本当に人間との対話を実行する気満々のエマを見て溜息を吐く。
『それに、こうしてサリーやジュンと話すみたいに話せたら、きっと楽しいと思うの』
エマは期待に満ち、高揚した顔で桃色の花を空にかざした。
風なんて少しも吹いていないのに、さわさわと生命樹が枝葉を揺らす。
その応えるような葉の擦れる音が、暫くの間三人の耳の中に残っていた。
成体になり、本格的に仕事をするようになって分かったことは、エマが望む対話をする人間なんていない、ということだった。
祈りを捧げる祈祷師と呼ばれる人間たちは、良くも悪くも俺たち天使を崇め奉り、とても手厚く扱った。
神の遣いである俺たちに対し、恭しく接するのは当たり前であったし、そういった人間たちが気安く俺たちと言葉を交わすなんてあるはずがない、なんてことはよく考えればわかることだった。
そのことに俺はどこか安堵した。
加えて俺たちが見える人間なんて、祈祷師やその血縁意外にいるはずがないのだ。
そして血縁だからといって、必ずしも天使が見えるほどの聖の力を持っているわけじゃない。
エマの抱いた失望に気付いたサリーは、一切人間との交流について聞かなくなった。
祈祷師たちの祈りの中には、聞いていて気分を悪くするようなものだって少なくない。
それがエマの中の失望を大きくさせ、同時に俺に大きな安心感を与えた。
けれどそれは唐突に覆る。
『面白いものを見つけた』
と言ったエマは、あの頃の、面白い悪戯を思いついた時の顔をしていた。
付き合いも長く、仕事をするようになって少し擦れたこともあり、もうずっと俺には塩対応気味だったのに。
あの楽しかったころの、無邪気な顔をするエマをいったいどれくらいぶりに見ただろう。
胸の内を、よくわからない黒い感情が覆った。
面白いものを見つけたというエマは、報告での一時帰宅以外はもうずっと下界に連泊しているようだった。
帰って来たのは二度目の忠告をした日だけ。
「エマはずっと帰ってきてないの?」
丁度これから休憩に入るらしいサリーに呼び止められ、向かい合わせになって一緒にホールで昼食を摂る。
サリーは桃色の果実を頬張っている。
「面白いもの、見つけたんだって」
「もしかして…人間?」
「…サリーも流石勘がいいな」
流石エマの親友、無駄に付き合い長いだけのことはある。
目の前の幼馴染はクスクスと笑った。
「じゃあエマなりの答えを聞く日も近いかしら」
「さあな」
もう随分前のことなのに、サリーもあの日のことをしっかりと覚えているようだった。
俺たちを羨ましいと言った彼女は、今は転生の天使の部署に所属している。
直接生きた人間に関わることはできないけれど、次の生へと繋ぐ仕事をして間接的に生きた人間に関わる仕事をしたい、とかなんとか。
「どうしてそんな不機嫌な顔してるわけ?」
「は?してないけど」
「あら、自覚無いのね」
不機嫌な顔をしているつもりはなかったが、どうも最近感じている黒い感情が顔に出ているようだった。
そのことを悩んだ末にサリーに打ち明けると、少し考えた後思ってもみないことを言われる。
「エマが見つけた面白い人間って男だったりする?」
「そんなの知らないけど、関係あるわけ?」
「だってあなたのソレ、嫉妬って奴じゃない?」
「嫉妬…?」
言葉だけは聞いたことがある。
教育期間中に学んだ、人間の感情の名前だ。
気になる異性の愛情が、自分以外の誰かに向けられることを憎む感情。
「そう。嫉妬するなんてジュン、人間みたいなところがあるのね。まあ私達、元は人間だったみたいだけど」
サリーの指摘がうまく頭に入ってこず、素直に理解できない。
見た目の性別なんて、この天界では概念としての意味しか持たないはずだった。
この世に生を受ける前に胎から出ずして亡くなった人間の赤子の魂が、生命樹の葉に宿り天使が生まれる。
人間であった頃の性別がそのまま身体に反映され、容姿は人間に心を開いてもらいやすいように美しい姿に設計される。
容姿も性別も便宜上のもので構築され、ただ人間を慈しむ感情だけ進んで教えられる。
当然嫉妬などの負の感情は教えられないし、抱いてはいけないと言われている情愛も、誰も教えてくれることは無い。
特に親しく近しいものとパートナーになる天使たちもいるけれど、根本的に人間の番とは違う。
それが、嫉妬?俺がエマを想って人間に?
まさか、よくも分からない、誰も教えてくれなかった感情など、抱くはずなどない。
「まさか、嫉妬なんて。確かに人間にばかり関心を惹かれているのはいい気しないけど、それはあくまでもエマが心配だからだ。エマが規約違反するなんて思ってはいないけど、注意するに越したことは無いだろう」
「ふうん、そう。まあ私の思い違いなら別に構わないんだけど」
じっと覗き込むように見てくるサリーに、なんとなく居心地の悪さを感じ、視線をそらしてしまう。
今言った言葉は紛れもなく本心であるのに。
「今日の残りの仕事も頑張りましょうか」
サリーの言葉を合図に共に席を立つ。
ホールを出てすぐの所で別れてから、各々自分の仕事に戻った。
否定はしたものの、サリーに言われた言葉がどうしても胸につかえ、その日は仕事が終わってももやもやしたままだった。
なんで俺がこんな思いを…。
と、天界へ向かいながら考えているところではたと思いつく。
気になるのならば、確認してみればいい。
そうしてついでにエマと、もし一緒にいれば人間にも文句を言ってやる。
くるり、と方向転換しエマが担当している地区へと向かう。
人間とはどこで会っているのかは知らないが、担当地区の聖域に行けばエマはいるはずだ。
もしエマ一人なら、文句を言った後に今日は天界に連れて帰ろう。
そう決意したところで、丁度目的地である聖域の上空にさしかかった。
「え…?」
目にした光景に驚き、乗り込んでやる気満々だった気持ちはどこへやら失せ、そっと隠れるように聖域を囲う森の中へと降り立つ。
見える距離まで近寄って、木の陰から確認してみれば、目当ての二人は泉のそばに並んで座り、泉の中に足を浸していた。
何故、自分はこんなにもこそこそとしているのか。
人間が当然のように聖域にいることも勿論信じられなかったが、それよりも、とても仲睦まじげに身体を寄せ合う二人に目を疑った。
エマと肩が触れ合うほど近くにいる人間の男。
その男の身体を覆うようにしてエマの片翼が広がっている。
流石に会話などは聞こえないが、エマの表情に ̄見たことのない穏やかでどこか少し艶っぽい表情に胸が鷲掴みにされた。
そんな顔を俺は知らない。
それにまるで…人間の女のようじゃないか。
 ̄エマが、掟を破った。
そう直感した途端その場にいられなくなり、暴れだす心臓を抑えながら歩いて聖域から遠ざかる。
エマは人間を知ろうと近づきすぎて、本当にのめりこんでしまった。
そして、神様が大好きだった人間、の答えをエマなりに見つけた結果がさっき目にした光景なのだろう。
エマは、神様と同じ道を辿った。
とても親密そうに見えた二人を思い出すだけで、胸が黒い感情に塗りつぶされそうだ。
人間の女のようだ、なんてそんなこと俺に言う資格はない。
サリーの指摘の通り、俺も人間の男のように嫉妬心を滾らせていた。
気づかなかっただけで、きっとずっとエマが好きだった。
エマもおそらく、自分が抱いている感情の正体に気付いていない。
教えられなくても、抱く感情はごく自然に生まれるものなんだと悟る。
一緒に悪戯をして遊んでいたあの頃から、ずっとあの無邪気な顔に焦がれていた。
もうずっと見られなかった顔を、いとも簡単に引き出した人間が気に食わなかった。
男だと知った今はそれが余計に憎い。
けれど俺はエマを陥れたいわけじゃない。
エマ自身が気持ちを自覚していないのならば、このことを知っているのはきっと俺だけ。
ならば俺がずっと口を噤んでいれば、エマは罰されることは無いはずだ。
もう聖域からはだいぶ離れた。
今日見たことには目を瞑り、エマには後日改めて忠告しよう。
翼を広げ、飛び去ろうとした時、不意に背後から声がかかった。
「本当にいいわけ?」
声のするほうを見れば、そこには真っ黒な蛇がいた。
細い月あかりがその身体をてらてらと映し出し、存在を浮かび上がらせる
両の瞳は血を浴びたように真っ赤でぎらついている。
その眼差しの鋭さに、今にも飲み込まれそうな感覚を覚えた。
「本当はあの子を取ったあの男が許せないんだろう?」
「…誰だ」
「まあいいじゃないかそんなことは。で、どうなの?本当はあの子、自分のものにしたいんだろう?」
黒蛇はこちらに構うことなく、嗤うように話し続ける。
「あの男、消しちゃえば?そうすればきっとあの子はお兄さんの腕の中さ」
「俺は天使だ。人間を殺すような真似、絶対にしない」
「おや、真面目だねえ」
言い終わると同時に蛇はしゅるっと煙の中に消え、いなくなったかと思えば一瞬にして人型に化け現れた。
肩につく程の長さの漆黒の髪、背中には夜の闇に溶けそうなほどに、真っ黒な翼が片翼だけ広がっている。
その身には丁度腹の部分だけ切り取られた黒衣を纏い、臍の下には花の形に似た烙印が押されているのが見えた。
間違いない、こいつは堕天使だ。
重い罪を犯し、天使の身分を剥奪された者。
目の前にいる堕天使は、目を細め今宵の月のように口角を上げ、ニヒルな笑みを湛えている。
先程と同じ、赤く鋭い眼差しに射抜かれた。
「なあ、知ってるか?」
しばらくの沈黙の後、唐突に口を開いた堕天使を怪訝に見やる。
こちらの返事など最初から期待していなかったのか、そのまま勝手に語りだす。
「お兄さんがさっき言っていたように、お前ら天使は人間を害することを禁じているだろう。祈りも、直接人間の死に関与するよう乞われるものは拒否していい、むしろ断る決まりになっている」
流石に元天使なだけあって規則のことをよく知っている。
知っているなら、殺してしまえなどと軽々しく提案しないでほしい。
この先何を言いたいのかわからず益々訝しんだ眼を向けると、血のような瞳は鋭さを増し、思わず肩が跳ねた。
「でもな、ただ禁じられているだけだ。禁じられているだけで、できないわけじゃない」
「…お前はいったい何を言っているんだ」
この先はきっと聞いてはいけない、そんな予感がする。
無視して飛んでいこうとしたが、地から足が離れない。
足元を見ると、真っ黒な蛇が両足にしっかり巻き付いて、離すまいとしている。
「まあ、誰も教えてはくれないから仕方ないけどな。みんな気づいちゃいないが天使は皆その力を持っている。人間を害することのできる力を」
赤い双眸が妖しく揺れる。
俺は知らない、そんなもの、こいつは、いったい何を俺に。
「俺は持って生まれたこの絶対的な力を使って人間を殺し、堕天使になった」
「どうして、そんなことを」
「さあな、あの時のことは、よく覚えちゃいない」
そう言った一瞬、どこか遠いところを眺めていたが、すぐにこちらに視線を戻した。
「まあいい、とにかく、俺はお目が気に入った。あの時の俺と似た危うさがある。己の願いに忠実になればいいさ。とてもいい、プレゼントをやる」
「何を言って…」
堕天使は己が言いたいことを言い切ったのか、引き留める間もなく煙となって消える。
両足が自由になった感覚がした。
突然現れ一瞬で消えたその現実味のなさに、最近の忙しさのせいで変な夢でも見ていたんじゃないか、と錯覚したがすぐにそうでないことを悟る。
掌の中に質量を感じ、恐る恐る確認する。
月明かりに照らされて、丸く浮かび上がった一つの果実。
手の中のそれは血に濡れたように真っ赤で、あの鋭い瞳を連想させた。




