回顧2
「人間、おまえ、私が見えるの?」
突然現れた男をよく見てみるものの、どう見ても生きている人間だった。
私達天使はそもそも祈祷師とその家系以外の生きた人間には見ることができないし、まず聖域にだって普通の人間は入れないはずである。
私に話しかけられた男は、
「天使様?え、本物?」
と混乱しながらいろいろ言っている。
よく見れば男の纏う衣服は汚れ、ところどころ怪我もしているようだった。
どうやら戦争に参戦している人間たちの一人らしい。
「…怪我をしているのなら、おまえもこの泉に浸って休むと良いわ」
呆然と立ち尽くしたまま動かない男にそう言葉を投げかける。
別に人間が聖域に入ってしまうこと自体はさして問題ではないし、聖泉の力を享受することもそれを黙認することも規律違反ではない。
入れないはずの聖域に入れたことがまず珍しく、幸運だ。
そもそもわざわざ追い出すのは面倒である。
男は逡巡したのち、泉の前に進み出で、言われるがまま腰を下ろして訳も分からず足を浸した。
そうしてしばらくするうちに自分の身体の変化に気付いたのだろう、目を見開いて己の身体を見まわし、特に傷をうけていた部分を確認する。
「傷が治っている…これはいったい…」
困惑の中、こちらにちらっと向けられる視線に気づいたので親切に教えてやる。
仕事で会う以外に人間に遭遇したのは初めてで、内心緊張していた。
「ここはね、本来人間には入ることができない聖域なの。おまえと私が今浸かっているこの泉は天界の泉と繋がっていて、触れれば身を清めることも癒すこともできるのよ」
素直に説明を受け取った男は感嘆の声を静かに上げる。
汚れて破けた衣服は戻ることは無かったものの、身体に受けた傷は全て綺麗に塞がり、顔色もよくなったように見えた。
「こんな素晴らしい恵みを、ありがとうございます」
「別に、私が施したわけじゃないわ」
恵みの主を挙げるのならば自分たち天使が仕える神様だろう。
そっけなくそんな答えを返したのにもかかわらず、尚も向けられ続ける視線に気づく。
足先を動かし、生じた波紋の行く末を見つめる。
月明かりを反射してきらめきながら、やがて小さな波が消えるまでずっと送られ続けた視線に、流石に、なんというか。
「どうしてここへ迷い込んでしまったかはわからないけど、身体が癒えたのなら元の場所へ戻りなさい。きっと仲間がいるんでしょう」
元々一人きりの空間を過ごすはずだったところに、イレギュラーな存在のせいか不思議な沈黙が流れていた。
それにどことなく座りの悪さを感じて、出ていくよう男を促す。
仲間は確かにどこかにいるのだろう。
再度礼を述べ、男は静々と聖域を去っていった。
何故またここに昨夜の男がいるのか。
エマが泉に足を下ろす樹の上で一晩を明かした次の夜。
今晩もまた下界の聖域で夜を過ごそうと、同じ泉に降り立った。
今日は別に天界に一時帰宅してもよかったのだけれど、なんとなく今晩も、天界では見ることのできない星空を眺めながら眠りたくなったのだ。
祈り(し)の(ご)内容自体は思い出したくないものが大半だったけれど、今日は運がよく供物は果物ばかりだった。
そのおかげで充分すぎるほど満たされ、少しばかり下界で連泊しようとする気持ちを後押しした。
そんなわけで昨日と同じく泉に浸り身を癒していたところ、また同じ方角から同じ男が現れたのだ。
現れた男は、昨夜とは違う箇所に傷を作っていた。
傷を治そうと彷徨い、再びこの地を探し当てたのだろうか。
聖域は人間が入ろうと思ってもなかなか見つけることすらも難しいというのに。
男はエマの姿を認めると、はっとした顔を一瞬浮かべてから、泉のほとりまで昨夜に比べたら迷いのない動作で歩き、泉に足を浸した。
「おまえ、また来たの」
傷が完全に癒えるのを待って口を開くと、男はパッと顔を上げてこちらを見た。
二人の距離は果物の木を一本横に倒したくらい開いてる。
「すみません、気づいたらまたここに辿り着いていて。傷が癒えましたのですぐに出て行きます」
恐縮した態度で泉から足をあげた男は元来た道を辿ろうとする。
この領域から立ち去ろうとする背中に、気づいたら声をかけていた。
「…今日は、まだいてもいいわ」
自分の口から出た言葉に驚いたものの、一つの考えに思い当たり自身を納得させる。
二日続けて聖域に辿り着く人間に多少なりとも興味を惹かれないわけがない。
何しろ仕事以外で出会った初めての生きた人間でもある。
ただの気まぐれではあるものの、確かにこの人間を知りたくなった。
「では、お言葉に甘えて」
少し考えるように立ち止まった後、元の位置に戻って腰を下ろした。
引き留めたものの、何を話せばいいか案も浮かばずに、ただ自分の足の動きに合わせて揺れる水面を見ていた。
月明かりにきらめく泉は夜の闇に染まり、藍色を湛えている。
沈黙の中、昨晩と同じく視線を感じた。
最初は伺い見るようだったその視線は、今しっかり注がれている。
しつこいとも言えるその視線は、昨晩程居心地悪くは感じなかった。
「そんなに天使が珍しい?」
男のほうを見ると、黒い瞳とかちあった。
いつも担当している地区の人間とは、少し顔立ちが違うようだ。
瞳を揺らし、男がたじろぐ。
何かを畏れたのか視線を斜め下へと逸らされてしまった。
「すみません、天使様を拝見するのは昨日が初めてで、つい見すぎてしまいました」
「そう、別に怒ってはいないのよ。つい聞いてみただけで、まじまじと見られることには慣れているもの」
祈りを捧げ、願いを乞う祈祷師たちはいざ私達が目の前に現れると、眩しさに目を細めるようにした後、記憶に焼き付けるかのように食い入るようにして見てくる者も多い。
特に新任の祈祷師なんかがそうだ。
両目をカッと見開き、間抜けともいえる面で見つめてくる。
怒ってないと言われ、男はどこか安心したようにこちらにまた視線を寄越す。
漠然と注がれていると思っていた視線は、どうやら特に背に生えた翼を注視しているようだった。
確かに翼を持たぬ人間には、一番珍しい代物かもしれない。
試しに綴じていた翼を空を飛ぶ時のように大きく広げてみると、一瞬びくっと肩を震わせたものの、先程よりも光を宿した瞳で見つめてくる。
その反応に、思わずクスクスと声を漏らしてしまった。
立ち上がって、男の側までスッと飛んでいく。
突然自分の横に移動してきた天使に驚き、瞳孔まで大きく開くのがわかった。
真っ黒だと思った瞳の色は、近くでよく見ると濃い茶色をしていた。
「そんなにこの翼が気になるのなら、触らせてあげてもいいわ」
男の身体を覆うように両翼を広げてみせると、今度は目を白黒させながら明らかに動揺し始めた。
「そ、そんな、畏れ多い」
仕事中は当たり前だけれど、人間との間に適切な距離を保っている。
もちろん気安い話などもしない。
あくまで祈祷師たちとは堅苦しい関係だ。
目の前の男はたまたまこの聖域に迷い込み、偶然出会ったただの人間だった。
そのただの人間である男の反応がなんだか新鮮で、嫌な(ご)祈り(と)で消耗した心を愉しませる。
顔を覗きこむようにして見ると、少し肩を跳ねさせてその場で男が固まった。
それがなんだか可笑しくて、またクスクスと笑うと、目の前の男がほんのりと頬を染めたのがわかった。
これ以上困らせるのも可哀想だと思い、一度翼をたたむ。
「ごめんなさい、少し揶揄いすぎたわ」
おもむろにそのまま男の横に腰を下ろす。
「昨日も、そうね。追い出すようなこと言って悪かったわ。仕事以外で人間に会うのは初めてだったから」
まさか自分の横にそのまま座るとは思わなかったのだろう、しばらく男は硬直したままだった。
気を取り直した途端、距離を置くようにして少し離れていく。
やっぱりまだ天使には慣れないのだろうけれど、ちょっぴり悲しい。
今度はこちらが見つめていると、どもりながら男が話し始めた。
「天使様も、お仕事をされているのですか?」
「そうよ、いくつか種類はあるけど、私は祈祷師の話を聞くのが仕事なの」
我ながらだいぶ雑な説明ではあるけれど、だいたいあっている。
「きとうし…?」
「えっと…他には確か巫女とか祭司とか、地域によっては異なる名で呼ばれているわね」
「ああなるほど。俺の国では巫女と呼ばれる人たちですね」
「その祈祷師や巫女のように、聖の力が強い者でないとそもそも私達天使は見えないのよ。聖域だってそう。おまえ、巫女の家系の生まれ?」
「一応、巫女の家系の傍流にはあたりますね。だいぶ遠いですけど」
「やっぱり!ずっと不思議だったの。傍流とは言ったけれど、おまえは強い力に恵まれたのね」
気になっていた謎が解けてすっきりしたことに、小さな喜びを感じたけれど、それよりもきちんと男が会話を続けてくれることが嬉しい。
「強い力、ですか。今まで自分にそんな力があったことすら知りませんでしたが、このような形で知ることができて、幸運です」
照れたような男の表情を見て、心が和む。
始めカチコチだった表情が柔らかくなっているのを見て、胸の内がじんわりと温かくなった。
「祈祷師にすら聖域で会ったことがないもの。この泉の存在を知ることができたおまえは本当に幸運だわ」
ところどころ裂けたり、穴が開いたりしたままの衣服を指さしながら言う。
戦争に身を置く人間たちは、お互いを傷つけあっている。
日々負う傷を、治療する必要がなくなるのは、人間にとって都合がいいだろう。
「はい、それに天使様に拝顔できたことが俺の一番の幸運です。こんなに美しい方に、赴いた戦地でまさかお目にかかれるなんて」
男は少し涙しそうな勢いで、ちょっと焦る。
初めて天使を見る新人祈祷師にも感極まってたまに泣く奴がいるけれど、ここで崇められるのはなんだか微妙に感じた。
それに、神の遣いである以上崇め奉られることには慣れてはいたけれど、プライベートな時間にこのまま恭しい態度を取り続けられるのは嫌だった。
「おまえ、名前は何というの?」
「シン、と申します」
「シン、ね。じゃあシン、これからは畏まった態度を捨てて仲間内と話すときのように私に接して。せっかくプライベートな時間のはずなのに、仕事をしているような気分になって嫌なの」
自分も仲間内に対する態度ではなく、どうみても人間に対する天使然とした態度なのにもかかわらず、無自覚に大ブーメランを投げる。
ブーメランを投げられた男―シンは突拍子もない天使の発言に、慌てて訂正させようとする。
「そんな、天使様に畏れ多いこと…!天使様の命であろうとできません」
「エマ、よ」
「はい?」
「天使様、にも人間と同じように皆名前があるのよ。だから私もおまえをシンと呼ぶから、シンは私をエマと呼んで」
距離を縮めながらそういうと、縮めた分また新たに距離を取りながら首をぶんぶんと横に振られる。
少々狡いとは思ったが、翼を広げて一気に開いた間を詰めた。
一瞬のことに驚いたシンはピタと動きを止める。
「いいわね?」
ずいっと顔を鼻と鼻がくっつきそうなほど寄せ、にこっと笑いながら言うと、シンは青くさせた顔を赤くさせながら
「はい…」
と返事をした。




