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始まったばかりだったはずの夏休みは、いつの間にか折り返し地点まで来ていた。
二人で綺麗な入り江に行ったあの日から、会う度に紗梨から少し垂れた目をキラキラさせながら慎とのことを聞かれる。
最初は恥ずかしがって答えられなかったけれど、積極的に聞いてくる紗梨に遂に好きだと自覚したことを告白すると、そのキラキラの瞳をさらに輝かせた。
スマホのロック画面を入り江の写真にしていることにも目聡く気づき、とっても綺麗なところに連れてってもらったのね~と揶揄いを滲ませた顔でにんまりと笑う。
それもあって顔を合わせるたびに進展を聞かれるけれど、あの日以来エデン以外では二人で会ったりしていない。
そのエデンでも、勤務中なので勿論業務外の会話はしてないけれどお互いに気恥ずかしくて、そろそろ槙村さんに彼と何かあったことを感づかれそうな雰囲気を、お互いに醸していることを自覚している。
紗梨にも、わかる人には見ればわかる甘めの空気が二人の間を漂っていると言われた。
ただ、私は自分の気持ちを自覚しただけで、慎と付き合っているわけではないのだけれど。
慎の私への気持ちも、一応わかっているつもりではいる。
これまで数多の好意を身に受けてきた経験がそう言っている。
これまでは誰に好意を向けられようと興味もなかったし、気持ち悪いと嫌悪を感じることもあった。
だけど、はっきりと言葉で告げられたわけではないけれど、慎から感じられる気持ちはとても温かく、私の心を優しく包んだ。
…これでただの勘違いだったら顔から火が出るほど恥ずかしい。
「とにかく、二人が今いい感じなのはわかったけど、次のデートはいつなのー?」
バイト終わりの帰り道、また例の件を話しながら歩いていると、焦れたような声で紗梨に聞かれた。
空に浮かぶ月明かりは無く、街灯が頼りの暗くて静かな夜だった。
「んー、一応話してはいるんだけどなかなか予定が合わなくて」
お互いにバイトや友人家族との個人的な予定、また学業関係で外せない予定もあり、なかなか都合がつかないままでいる。
バイトは特に夏休みだということもあり、お互いにいつもより多めのシフトだし。
慎がいつも決まった曜日にお店に来るのは、その日がちょうどBARの定休日だからだそう。
その定休日にはいつも私はお店にいる、のもあって時間が取れない。
一応私は高校生なのもあって門限と言うものも存在する。
エデンの閉店は八時で、まだまだ早い時間に思えなくもないけれどバイト帰りに少し寄り道、なんてできないししたこともない。
両親を無駄に心配させたくないし。
彼のほうは勤務時間は早くて夜六時かららしいけれど、帰宅時間も遅くて朝六時頃になることもあるとか。
そんな中昼間は課題をやったりすることもあるそうで、とても大変そうだなと聞く度に思っている。
「まだ、お店で顔が見られるだけ良いかなあって思うことにしてる」
「ほー、健気ね~。あ、でもそれってやっぱりちゃんと会いたいと思ってるってことだよね?」
にやにやしながら言ってくる紗梨に、恥ずかしがりながらも図星の私は頷くしかない。
おそらく頬を染めているであろう私を見ながら、紗梨は満足気な顔をする。
「慎さんのバイト先、今度覗いてみちゃう?」
「え…⁈いやいやそもそも年齢確認されてお店にすら入れないんじゃ…」
自分も以前考えたことのある案に少し焦る。
「まあ、それもそうね。これは却下で」
すぐに却下されたことに安心九割残念一割を感じたことは秘密。
そもそも私のことを少し揶揄いたいだけなのが伝わってきてむず痒い気持ちを感じながら、元々本気でなかったことに安堵する。
「でもやっぱり休み中にあと一回くらいはデートしたいよね」
その言葉に小さく頷いたところで、駅に着いてお別れとなった。
手を振って私だけ電車を降り、駅を出たところにあるバスターミナルで一人でバスを待つ。
駅自体にも、周りの道路や店舗にも明かりは灯っているのに、月がないせいかやはりいつもより暗く感じる。
駅の中はざわざわとして見えるのに、ターミナルは人気がなく本当に静かだ。
バスが来るまで適当にスマホをいじって時間を潰そうと、鞄の中を探しているところで。
「可愛いお姉さん、一人で何してるのー?」
駅の反対側から歩いてきた見知らぬ男に、酷く調子の外れた声音で声をかけられた。
近くに寄って来ただけでわかるほど酒臭く、かなり酔っぱらっているのがわかる。
私は構わずいつも通り無視を決め込んだ。
酔っぱらいは構わず話しかけてくるも、続けて無視をした。
「無視はないでしょー?あ、わかった照れてんだ」
その言葉に意味不明すぎてぞわっとするも無視。
さっさと諦めてどこかに行ってくれないだろうか。
このままバスが来たら一緒に乗ってきそうで怖い。
だけれど願いは届かず、酔っぱらいはずっと喋り続けてくる。
お酒飲むとこんなにもみんな面倒くさくなるもの?
だとしたらいつもこういった人たちの相手をしている慎はとても凄い、尊敬する。
もうこのまま無視するだけではどうにもならないと悟り、駅員のいる場所へ向かおうと駅のほうへ足を向けた。
歩き出すと何を勘違いしたのかにやにやしながら酔っぱらい男はついてくる。
もう気持ち悪いし本当にいい加減にしてほしい、と歩を速めた時だった。
がしっと、とてつもない強さで手首を掴まれ思わず男の顔を見る。
「やっと俺と遊んでくれる気になったんだね_、嬉しいよ」
と、相変わらずにやにやしながら、来た道を引き返すように私の手首を掴んで引っ張りながら歩く。
「っは、離して!」
手を取り戻そうと引っ張るもびくともせず、逆に握られる力が増し、その痛みに顔を顰めた。
「さっきも言ったけど照れなくていいんだって。ちゃんと楽しいところに連れてってあげるから」
尚も会話の通じない調子の悪さでどんどん私を引っ張っていく。
あなたの話なんて知らない、聞いてない、痛い、怖い…
引きずられながらすれ違う少ない通行人に助けを求めるも、誰も助けてはくれない。
最初から目を合わせてくれなかったり、目が合っても逸らされたりと誰も面倒ごとにかかわりたくないのか、そもそも気づいていないのか。
絶望しながらも歩は進み、細い道に入っていこうとする。
駅の側とはいえ、周りの目が届かないような場所は何処にでもあるということを、私はよく知っている。
過去の記憶がフラッシュバックし、恐怖が足元から這い上がる。
手を振りほどけない痛みも、恐怖を増長させる。
怖い、怖い、怖い…誰か、助けて、、、
街灯が密集している場所を離れてさえしまえば、こんなふうに月のない夜は本当に真っ暗で、すべてを覆い隠してしまう。
暗がりに溶け込んだ路地に入り込んで中ほど。
酔っぱらいは立ち止まり、振り向いてにやりと笑った。
「ね、とりあえずここで飲も?」
と言われ入ろうとしている店からはただならぬ怪しい気配がする。
未成年なんで、という言葉も震えて出てこない。
壁が薄いせいか、聞いてはいけないような艶っぽい声が聞こえたような気がした。
外観は飲み屋などそれっぽいが、本当にお店なのかも怪しい。
ぞぞぞ、とせりあがる寒気と先程から身体中を埋め尽くす恐怖に震えあがりながらも、必死で抵抗する。
この建物の中に引きずり込まれてしまえば、終わりだ。
重心を低くして、できる限りの力で踏ん張る。
最近慎のことばかりを考えていて忘れていた。
男の人が、こんなに恐ろしく、気持ち悪いってことを。
「もういいから諦めろようぜえな!」
私の必死の抵抗に痺れを切らしたのだろう、これまでとは打って変わり語気を強めた男は、思いっきり私の手を引っ張り上げた。
引っ張り上げられた衝撃で勢い余って前に倒れこみそうになりながら、終わった、と静かに絶望した。
「そこで何をしている!」
突如路地に響いたその声に、私も男も肩を跳ね上げた。
すぐさま声の主はこちらに走り寄り、私と男の間に割って入る。
私の腕を未だ握り続ける男の腕をぎゅっと掴んだかと思うと、いてえ!っという男の声と共に自分の手が解放された。
「この子、未成年ですよ?そうでなくとも、まずいんじゃないんですか?」
男の声を捻り上げながら言うその声に、確かに覚えがあった。
最近ずっと焦がれていた、彼だ。
「うるせえ!関係ねえだろ!離せよ!」
「駄目です。もう少しで警察が来ると思うのでそれまでこのままで」
警察、と言う言葉に男は逃れようと暴れるも、繰り出した手足を難なく流されている。
そうこうしているうちに、彼の言葉通り警察が来た。
彼の手から男が引き渡されるのを見て、やっと安堵したのか、力が抜けて膝から身体が崩れ落ちる。
「…怪我はない?」
地面にへたり込んだ私に合わせ、しゃがんで問いかけてくれた慎に、答えたいけれど何の言葉も出ず、ただ首を横に振りながら、未だ震える手で縋り付いてしまった。
安堵なのか恐怖なのか、それとも彼が助けに来てくれたことに対する喜びなのかはわからないけれど、次々に涙が零れ落ちる。
それを、慎は優しく包んで宥めるように背中や頭を撫でてくれた。
「遅くなってごめん、でも、間に合ってよかった」
言いながら包み込む力を強くする慎に答えるように、彼の背中に手を回した。
怖かった、本当に怖かった、今度こそ駄目かと思った、慎が来てくれてよかった、助けてくれてありがとう。
どれも泣きじゃくりながらで声にはならなかったけれど、気持ちを伝えるようにして背中に回す腕に力を込めた。
さっきまで恐ろしくて、気持ち悪くてたまらなかったのに、今は安心感が半端ない。
今触れているだけで、悪いものが全て溶けていくようだった。
私が落ち着くのを待って話しかけてきた警察官に、事情聴取協力を願われたので、バスを待っていたところから順を追って全て話した。
女性警察官だったので、今の私にはとても話しやすかった。
警察を呼んでくれたのは、引きずられている際に目を合わせてくれなかった人たちの中の一人で、ただ見て見ぬふりをされたわけじゃなかったと少しホッとする。
慎はたまたま近くにいたらしく、女の子が連れていかれたと聞いて、もしかしてと思い探してくれたみたいだ。
仕事終わり、だいたいこの時間にバスに乗ること、何気ない会話だったけれど話していてよかった。
警察官が聴取の後に両親に連絡をし、迎えを待つ間も慎はずっと側にいてくれた。
私が離れられなかったというべきかもしれない。
恐怖の余韻が残る中、慎がいてくれたから私は穏やかでいられたから。
「心配をおかけしてすみません」
慌てて交番内に駆け込んできた両親に、椅子から立ち上がり、まずはそう声をかけた。
「いいの、瑛茉さんが無事ならそれでいいの」
瞳を潤ませながら、母はそっと抱きしめてくれた。
また心配をかけてしまったこと、そして母の優しさが胸に沁みた。
父はその後ろで言葉なく頷いている。
「そちらの方は?」
「彼が、私を助けてくれたんです」
先程まで私の隣に座っていた彼を見て不思議そうな顔をした母に紹介すると、慎は立ち上がり、挨拶をした。
「娘を助けてくださり、どうもありがとうございました」
母も父も深々と頭を下げると、慎は少し照れくさそうな顔をした。
もう帰りましょう、と言った母は、警察官たちにもお礼を述べ、交番を後にする。
交番の入り口でまたね、と挨拶を交わした私と慎を見て、両親は目を丸くしていた。




