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店を出て車で移動することしばらく。

どこかの駐車場に着き、いったん車を降りた。


「ごめん、ここから少し歩くけど大丈夫?」

聞かれてからちらっと自分の足元を見る。

白のコットンワンピースに合わせて、ウェッジソールの厚底サンダルを今日は履いてきていた。

高さはあるものの(かかと)だけが高いわけではなく、安定しているので割と歩きやすい。


「うん、足場の酷い道通るわけじゃないなら大丈夫だよ」

駐車場に着いてから思い出したらしく、申し訳なさそうにする慎を安心させるように言う。

「もし危ないときは腕とか掴んでいいから」

「う、うん」


真面目に言っただろうことはわかるけれど、その申し出はなんとなく照れる。

言った当人も私の反応を見て気づいたらしく、ほんのりと首筋を染めていた。

並んで歩いていると、だんだんとここが海水浴場であることがわかってきた。


家族連れやカップル、友人グループと(おぼ)しきそれぞれが、浮き輪やパラソルなどの荷物を抱え、みんな同じ方向に向かって歩いている。

中には既に水着に着替えている人たちもいた。

遠目に見えてきたビーチには夏休みなのもあって、たくさんの人で溢れている。

それに加え、今日はとてもいい天気だった。

見上げるとそこには、雲一つも浮かばない真っ青な空。

絶好の海水浴日和だ。


けれど自分には勿論水着の用意なんてなく、あるとすれば日焼け止めくらいだ。

慎のほうも何か用意があるようには見えない。

海鮮丼屋に寄った時もそうだったけれど、隣を歩く彼はどう見ても手ぶらだ。

不思議に思い見上げると、こっちだよ、と言って海水浴客の歩く道から逸れ、別の道に入っていく。

だんだん人気のない道に入っていくと流石に不安になる。


さっきまで歩いていた駐車場のコンクリートの道とは違い、舗装はされていない土の道を進んでいる。

厚底のサンダルで歩いてもそんなに不便を感じることなく歩けているので、それなりに定期的に人が通っている道ではあるのだろう。

周りは緑に囲まれていて海の気配は感じない。

このまま本当に着いて行っていいのかな?と思い始めて少し経ったところで、道が急に開けた。


「え…綺麗…」

開けた場所に踏み入れ、真っ先に私の視界に飛び込んできたのは一面の碧だった。

静かな水面は空を映し、きらきらと陽光を反射している。

瞬間的に碧、と思ったけれどよく見るとどちらかと言えば(みどり)に近いかもしれない。

どうやらちょっとした入り江となっているようで、周りは岩に囲まれている。

先程遠目に見たビーチの人混みが嘘のように、私たち以外に誰もいなかった。


「どうかな?」

美しいものを見た感動で少しの間、本当に少しの間固まっていた私に慎が問いかける。

「凄く、綺麗。どうしたの?ここ」

「ここは一部の人たちの間では穴場として有名らしいんだ。大きく開けたさっきの海水浴場だって綺麗だけど、ここは一際綺麗でしょ?最近知り合いに教えて貰ったんだけど、ここに瑛茉を連れてきたくて」


瑛茉、と直接名前を呼ばれたのは初めてだった。

それに加えてこんな綺麗なところに連れて行きたかったというその言葉が嬉しすぎて、じんわりと胸の中に熱が広がるのを感じる。

もしかしたら顔にも広がっているかもしれない。

「ありがとう、こんな綺麗なところに連れてきてくれて本当に嬉しい」

「喜んでくれたなら本当によかった」

慎が柔らかく笑む。

それを見て少し、胸がドクンと脈打った。

「良かったら足だけでも入る?浜から半ばくらいまでなら浅いから」

夏なのでもちろん生足、ビーチサンダルではないけれど一応サンダルなのだから少しくらいなら濡れても平気だろう。


「入りたい…!」

慎は七分丈のパンツの裾をできる限り捲ってから海の中に入った。

太陽によって程よく温められた海水はとても気持ちがよかった。

特に何をするでもなく、ふくらはぎが中ほどまでつかる程度の深さのところをゆっくりと歩く。

足元から波紋が広がり、波がきらきらと陽光を反射する。

波紋が広がっていく様を見たくて、わざと足先でばしゃっと波を立てると、揺れる水面に更にきらめきが飾られた。


「私、海に来るのこれが二回目だ」

「そうなの?」

心地よい水温と緩やかな波に揺られたせいか、スルスルと口元が滑り出す。

綺麗な景色を見て、触れて、ようやく緊張がほぐれたせいかもしれない。

いつもメッセージでやり取りしている時のような軽さで言葉が出てくる。


「小学生の頃に一度だけ、家族と来たきりなの。場所は違うけど」

「小学生のころじゃ結構前だね」

何年前か正確な年数は忘れてしまったけれど、今の両親に引き取られてすぐのまだ小学生の頃に連れられてきたことは、しっかりと覚えている。

初めての海に内心ドキドキしながら、けれどどのような面持ちでいればいいのかもわからなくて、好奇心や困惑を一緒に顔に張り付けたまま車に揺られていたあの日。

初めて画面越しでない海を見たという事実に思い出補正も加わり、今日のこの目の前の景色には劣るもののとても綺麗な海だったことを記憶している。


私が小学校を卒業し、中学生になってからは家族でのお出かけがめっきりなくなってしまった。

紗梨とも海やプールなどには行ったことがないのでこうして海水に触れるのは久しぶりだった。

先程海水浴場に水着で向かう人たちを見て、水着の用意なんてないと考えていたけれど、そもそも水場に赴いたりしない自分の手持ちには学校指定のスクール水着しかないことに思い当たる。

昔からあるワンピースタイプではなく、上下パーツに別れている二ピースタイプのものだ。

茶色地にピンクの縦ラインが二本入っていて、胸元には通う女子高の校章が入っている実にシンプルなデザイン。


もし海に入るから水着を用意して、なんて言われたとしても校章入りのスク水を授業外で着るなんて絶対嫌なので、この入り江が歩けるほど浅くて良かったと一人感謝する。

水着のことを除いて、思いつくままに水場にはもうずっと行くことがないと話をすると、慎のほうは改めてこの場所を教えて貰ったという経緯についてざっくりと明かす。


なんでもバイト先の先輩で女の子が喜ぶ所謂デートスポットに詳しい先輩がいて、その人に相談したら教えて貰えたのだとか。

その話を聞いて、私は慎が今日のことをしっかりデートだと認識していることが嬉しくて、そしてちょっぴり恥ずかしかった。

悪い意味ではなく、ちょっとした照れの感情だ。

こんな綺麗な場所を教えてくれたその先輩には本当に感謝だ。


女の子が喜ぶ、なんてもちろんその通りだし、まるで物語に出てくるかのようにロマンティックでこんなに綺麗な場所、忘れたくても忘れることなどできないだろう。

BARでバイトしていることは聞いていて知っていたけれど、こんな素敵な場所を知っているなんて流石大人、と年相応に感心する。

高校生では入れないお店なので勝手に大人なイメージが頭の中では拡大していた。


「んー、やっぱり不公平だよね」

「なにが?」

「私はいつもバイト姿見られてるのに、その逆はないんだもん」

慎のバイトの話に話題が移り、ふっと浮かんだことを口にする。

慎はだいたい週一度は来る常連さんなので、流石にもう来店時の緊張などと言うものはそれほどないけれど、やっぱり不公平な気がするのだ。

「いいよ、僕のバイト姿なんて見なくても。恥ずかしいし、それにまだ高校生なんだからしょうがない」

「もー、それがずるいよね。三歳しか、違わないのに」

普通に会話している分には同い年なのかと錯覚するくらいなのに、大学やバイトの話をされると、一気に歳の差が開いたように感じてしまう。

たった三歳、大人からみたら大したことないように思うのかもしれないけれど、学生時代の三歳は大きい。

年上の余裕とやらで小さな文句を言ってもあしらわれてしまうので、隣を歩く慎に軽く足で飛沫をかけてみる。


「おっと、びっくりした」

「…わっ。じゃあおかえし!」

軽い気持ちで始めたものが、いつの間にか海水掛け合いっこになっていた。

ばしゃばしゃと大きく揺れる水面は、小さな粒をたくさん弾いてきらきらと輝いている。

そうしてばしゃばしゃと足で海面を蹴り上げて海水を弾きあっているうちに、なんだかどんどん楽しくなってきた。

以前来た時に両親とはやったことがなかったので、波掛け合いっこは密かにやってみたかったのかもしれない。

授業のプールでたまにじゃれあっている子たちはいたけれど、混ざったことは無いので人とこうして水を掛け合うのは初めてだった。


こんな子供っぽい願望、自分にあったんだなと驚きつつも新鮮な感覚におちいる。

自然に自分が笑んでいることにも気づく。

慎を見ると、彼もはしゃいでいるような顔をしているのが嬉しかった。

もうちょっと、服が濡れない程度に大きいの弾いてみよう。

なんとなくの出来心で、先程までより大きく足を引いて海水を掬いあげるようにして前に思いっきり蹴り上げた。

正確には、蹴り上げようとした。


「あっ…」

引いた足を前に出そうとしてそこで身体がぐらっと(かし)いだ。

砂に足を取られたみたいだ。

少しだけ弾けた水飛沫が、陽光に照らされて青い空を背景にきらきらと視界を輝かす。

端のほうに映る翠にも見える碧もきらきらと目の奥を()くかのように輝いてみえた。


―――あれ、この景色、知ってる?


傾いていく景色を見ながら、なぜかそんなことを思った。

ばしゃん、と海水に沈むだろうことを予想していたのに、何故かその時は訪れない。

代わりに、不慣れな温もりに包まれていた。

ドクドクドクと心臓が脈打つ音が聞こえる。

少し早いように聞こえたそれは自分のものかと思ったけれど、少し違うリズムで自分の心臓が脈を打っていることに気付いて。


「?!」

パっと見上げるととても近くに慎の顔があった。

自分の左手は慎の右手に引かれ、腰のあたりをもう片方の腕でがっちりと抱え込まれている。

海水の中に倒れこみそうだった自分を咄嗟(とっさ)に抱え込んで助けてくれた、そのことをしっかりと理解した途端に、顔どころか身体中が火照るのがわかった。

さっき確認した時よりも、自分の鼓動が早くなっているのを感じる。

身体を密着しているせいで、それが自分だけじゃないことにも(おの)ずと気づく。

それが嬉しいような恥ずかしいような気持ちになり、最終的には恥ずかしさが勝った。


「あの、ごめん!ありがとう」

言いながら目の前の胸板を押すと、身体がゆっくりと離れていった。

離れていく温もりに、どことなく寂しさを感じる。

「足、大丈夫?」

完全に身体が離れた後に、身体が傾く原因となった足を心配してくれる。

その顔は、とっても真っ赤に染まっていた。

「うん、大丈夫。おかげでびしょ濡れにならずに済んだ、本当にありがとう」


お互いに服の濡れ具合を含め、どこか痛めたところがないか確認してから浜に上がる。

浜の端のほうの岩肌に、ちょうど人が座れるように出っ張っているところを見つけてそこに座る。

岩特有のごつごつした感じはあったけれど、触ってみると表面は滑らかになっており、座り心地も思っていたほど悪くはなかった。

「子供っぽいことに付き合わせてごめん」

足の裏に触れるさらさらとした砂の感触を確かめながら改めて謝罪を口にすると、慎ははにかみながら言った。


「いいや、こっちも楽しませてもらったし。それに意外な姿を見られて良かった」

意外な姿、と言う言葉にせっかく覚ました火照りが再燃する。

「こんなふうにはしゃぐんだなって。なんていうか、その、可愛かった」

そんなふうに照れながら言われたら余計に熱がうつってしまうじゃないか。

身に宿った熱を持て余しながら、なんと言っていいかわからず「そうだ、写真におさめなきゃ」と周りに漂った空気を破りつつスマホを出す。


男の人からの賛辞にある種慣れているはずなのに、慎が相手だと上手くあしらえないのは何故だろうか。

画面の中の景色と、実際の景色を見比べながら設定や角度を微妙に変えて何枚か撮る。

一眼レフなどの本物の高性能カメラには当然敵わないけれど、とてもいい写真が撮れたと思う。

「慎は撮らないの?」

ずっと隣で写真を撮る様子を見ていた彼に問う。

写真をあまり好んで取らない人が多い男の人でも、あまりに綺麗な景色は撮ったりするものではないのか、という素朴な疑問である。


「僕はいいよ。今見ているだけで十分」

「そう?あ、じゃあ迷惑じゃないなら今撮った中で特に良かったものを送ってもいい?」

「うん、勿論」

ありがとう、とまだ写真を送ったわけじゃないのにフライングでお礼を言ってくれる。

そこから少し会話を楽しんで、丁度他に一組のカップルが来たところで、この入り江を後にすることにした。


着いた頃真南に位置していた太陽は、少し西に傾いている。

足の裏に着いた細かい砂を払い、手持ちのウェットティッシュで軽く拭ってから靴を履きなおす。

自分たちが出てきた緑の道があるほうに少し歩いたところで、スッと自分のものより大きな掌が右手を掬うように掴んだ。


驚いて顔を上げると、顔を真っ赤にさせた慎はこちらを見ないままに

「また転んだら、大変だから」

ともっともらしい理由を述べる。

「…もう転んだりしないよ!」

と文句を言いながら、私は甘んじて彼の左手を受け入れた。

よくよく考えてみたら、慎の前で転びそうになってばかりな気がするけど、そこにはあえて気づかないふりをしておく。


来た時よりも間違いなく近い距離で歩いた帰路は、その後車に着くまでお互いに終始無言だった。

首筋まで真っ赤にする左手の主を見上げていた私の顔も、きっと朱に染まっていただろう。

繋がった掌から伝わる温もりはじんわりと広がり、同時に胸を灼いた。

繋がっていた自分の右手は、繋いだ手を離してからもしばらくは、熱を持っているかのような感覚が消えなかった。


ああそうか、私は。


この出会ってまだ日の浅い彼のことが、好きなのだ。



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